テラーノベル
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空気は、張り詰めたまま。
押し倒された体勢のまま、
互いの呼吸だけが近くでぶつかる。
「……まだ余裕か?」
低く落ちるマフィオソの声。
チャンスは笑う。
「言ったろ。負けねぇって」
言葉は軽い。
だが、その奥にある熱は隠しきれていない。
マフィオソの指が、わずかに力を強める。
「その強がり——」
言いかけた、その時。
コン、コン。
扉を叩く音。
「ボス、失礼します」
空気が、切れる。
一瞬で現実に引き戻される。
マフィオソの動きが止まる。
チャンスは、わずかに目を細めた。
(……タイミング悪すぎだろ)
舌打ちはしない。
だが、明らかに興が削がれている。
「入れ」
短く許可が下りる。
扉が開く。
部下が一歩踏み込んだ瞬間、空気を察してわずかに動きを止める。
ソファ、距離、体勢。
すぐに目を逸らす。
「……失礼しました。急ぎの報告が」
マフィオソは静かに体を起こす。
「簡潔に言え」
その声音は、もう完全に“ボス”のそれに戻っている。
チャンスはゆっくりと起き上がる。
髪をかき上げながら、軽く息を吐く。
(……冷めたな)
さっきまでの熱が、嘘みたいに遠い。
いや、正確には——
消えたわけじゃない。
中途半端に残って、引っかかっている。
「……帰るわ」
ぽつりと呟く。
マフィオソは一瞬だけ視線を向けるが、何も言わない。
報告に意識を戻す。
チャンスはそのまま背を向ける。
部屋の出口へ向かう。
革靴が床を鳴らす。
(なんだよ、これ)
胸の奥に残る、妙な感覚。
勝負はついてない。
決着もない。
なのに——
(……負けた気がする)
理由は分からない。
だがそれが、無性に気に食わない。
扉に手をかける。
その瞬間——
後ろから、腕を引かれた。
「っ、」
振り返る間もない。
体が引き寄せられる。
ゆゆゆゆ
「な——」
言葉が途切れる。
首筋に、何かが触れる。
温かい息。
そして——
歯。
「……っ」
一瞬、強く噛まれる。
鋭い痛み。
だが、それはほんの数秒。
すぐに離れる。
「……お前」
チャンスが振り返る。
マフィオソがそこにいる。
さっきまで部下と話していたはずの距離を、一瞬で詰めて。
部下は息を呑んだまま、動けない。
マフィオソは、静かに言う。
「帰るのは構わん」
その声音は落ち着いている。
だが——
どこか、低く沈んでいる。
「だが」
指が、チャンスの首元に触れる。
噛んだ場所をなぞるように。
「これは、預かっておく」
「……は?」
チャンスは眉を寄せる。
だが次の瞬間、理解する。
じわりと残る、噛み跡の感覚。
「マーキングかよ」
皮肉混じりに笑う。
だがその目は、どこか鋭い。
マフィオソはわずかに口元を緩める。
「そう思うなら、それでいい」
「……チッ」
チャンスは舌打ちする。
だが、怒ってはいない。
むしろ——
「面白ぇ」
口元が歪む。
「次会った時、倍にして返すから覚えとけ」
「楽しみにしている」
短いやり取り。
だが、その間に流れる空気は明確に変わっていた。
ただの勝負でも、遊びでもない。
もっと厄介で、離れにくい何か。
チャンスは扉を開ける。
そのまま振り返らずに出ていく。
部屋に残るのは、マフィオソと、沈黙する部下。
しばらくして——
「……ボス」
おそるおそる声をかける。
マフィオソはゆっくりと視線を外す。
「続きを言え」
何事もなかったように。
だがその指は、無意識に自分の唇に触れていた。
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