テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
46,527
159
私の値段は、千二百円だった。
父の借金の証文を、久遠寺侯爵がまとめて買い取った。その代わりに、私は侯爵の三人目の妻になる。
前の奥様は二人とも、嫁いで一年ともたずに亡くなっている。
「栞。すまん」
本所の借家の、二間しかない奥の部屋。父は布団から半身を起こして、何度目かわからない詫びを言った。
二年前の火事で、父は胸と手を傷めた。神田の志摩活版所は焼け落ち、残ったのは借金と咳ばかりだ。
「謝らないで、お父さん。侯爵様のおかげで、お薬代の心配もなくなるんだから」
「……活字は嘘をつかん。嘘をつくのは組む人間だ」
父の口癖だった。今それを言うのは、たぶん自分を責めているのだと思う。
父は枕元から、分厚い帳面を押し出した。
見本帳。うちで刷った仕事の刷り見本を、一枚ずつ綴じたものだ。火事の夜、父が火傷を負ってまで抱えて出てきた。
「持っていけ。嫁入り道具が着物一枚じゃ、あんまりだ」
「いやよ。これはお父さんの命でしょう」
私は見本帳を、布団の下へ押し戻した。
代わりに持っていくのは、母の形見の紺地に白い桔梗の小紋と、焼け跡から拾い集めた活字の木箱。それから、父の鼈甲縁のルーペ。
「おまえは、いい目をしている」
父はそう言って、また咳き込んだ。
路地の入り口に、黒塗りの自動車が止まっていた。
長屋の戸という戸が細く開いて、目と囁きがこぼれてくる。
「志摩さんとこの娘、売られたんだってさ」
「相手は、ほら、奥様が二人死んだっていう」
運転席の横に立っていた銀縁眼鏡の紳士が、私に深々と頭を下げた。
「お迎えにあがりました。久遠寺家の家令、真柴でございます」
柔らかな声だった。行李を受け取る手には、黒い腕カバーがかけてある。
私は振り返らなかった。振り返ったら、二間きりの借家から父が這い出してきそうな気がした。
*
大正十一年、四月十日。
麻布の鳥居坂を上りきったところに、久遠寺侯爵家の屋敷はあった。黒瓦の和館と赤煉瓦の洋館が、渡り廊下で繋がっている。
婚礼は和館の大広間で行われた。四十畳の座敷に、親族と縁のある方々がずらりと並ぶ。
ひそひそ声は、綿帽子の内側まで届いた。
「三人目ですってよ」
「妻殺しの侯爵様に、よくもまあ」
「士族の娘ですって。それも借金の形だとか」
「今度は何か月もつかしら」
隣に座る人の顔を、私はまだまともに見ていない。
久遠寺冬馬侯爵。二十八歳。貴族院の議員でもある。
黒の紋付に、後ろへ撫でつけた黒髪。一筋だけ前髪が額に落ちている。盃を受けるときも、その表情はぴくりとも動かなかった。
三三九度のあいだ、侯爵様は一度も私を見なかった。
「冬馬君よ、今度のは丈夫そうじゃねえか」
赤ら顔の恰幅のいい男が、酒臭い声で笑った。遠縁の叔父の将臣様だという。座敷がしんと冷える。
上座の大奥様、静子様は、白檀の扇を口元に当てたまま眉一つ動かさない。能面のように白い、細い顔だった。
その隣で、海老茶の袴の少女がくすりと笑う。義妹になる百合絵様。十七歳。大きな目が、品定めするように私の頭から爪先までを滑っていく。
広間の隅では、白髪混じりの小柄な女中頭が、刺すような目でこちらを見ていた。
「奥様。お疲れでございましょう」
宴が終わり、立ち上がるときにそっと手を添えてくれたのは、迎えに来てくれた真柴さんだった。
真柴宗介さん。この家の一切を取り仕切る家令だという。
「お足元にお気をつけて。この家のことは、すべて私が存じておりますので。何なりとお申しつけください」
目尻に深い皺を寄せて笑う。この屋敷に来て、初めて向けられた笑顔だった。
*
夜。私に与えられたのは、洋館の二階の一室だった。
電灯の明るさに目が慣れない。寝台というものに、どう寝ればいいのかもわからない。
洋箪笥と、小さな書き物机と、和風の鏡台が一つ。鏡台の引き出しの取っ手だけが、妙に新しかった。
部屋の奥に、もう一枚扉がある。隣は侯爵様の寝室だと、女中が教えてくれた。
かちり、と鍵の回る音がした。
奥の扉が開いて、侯爵様が入ってくる。紋付から白いシャツに着替えていた。
私は寝台の端で正座をした。指先が冷たい。覚悟はしてきたつもりだった。
けれど侯爵様は、扉の前から一歩も動かなかった。
「志摩活版所の娘だそうだな」
初めて聞く声は、低くて短い。
「はい。……栞と申します」
侯爵様の目が、私の右手に落ちた。中指の第一関節に残る、黒いインクの染み。いくら洗っても落ちない。
見られたのは一瞬で、すぐに視線は逸らされた。
「言っておくことが二つある」
「はい」
「この家では何も食べるな。私が用意したもの以外は」
意味がわからなくて、私は顔を上げた。
侯爵様の表情は変わらない。
「水もだ。和館の台所のものは、一切口に入れるな」
「……それは、なぜでございますか」
答えはなかった。代わりに、もう一つ。
「一年経ったら離縁する。それまでの辛抱だ。君は何もしなくていい」
「何も、とは」
「妻の務めも、だ。部屋の扉は私の側から鍵をかける。君が気に病むことはない」
淡々とした声だった。安堵していいのか、侮られたと思えばいいのか、わからない。
「父の借金は、どうなりますか」
「もう済んだ話だ。離縁しても返せとは言わない」
妻にするのではなく、一年だけ預かる。そう言われたのだと、少し遅れてわかった。
侯爵様は懐から何かを出して、扉の脇の小卓に置いた。半紙の包みだった。
「夕餉を食べていないだろう」
それだけ言って、扉の向こうへ消える。
かちり。今度は向こう側から鍵がかけられた。
包みを開くと、握り飯が二つ入っていた。
塩だけの、少しいびつな握り飯。まだほんのりと温かい。
侯爵様が、自分で握ったのだろうか。まさか、と思いながら一つ食べた。塩が少し、きつかった。
*
私は寝台を降りて、柳行李の蓋を開けた。
着物の下、底板と敷き紙の間に、一通の封筒を隠してある。
宛名は「白鷺女学校気付 志摩栞様」。差出人は、久遠寺千鶴。
二人目の奥様。女学校の文芸部で、二つ上だった先輩。私のたった一人の親友。
千鶴さんは去年の八月、鎌倉の崖から落ちて亡くなった。
この手紙は女学校宛てに出され、とうに中退していた私の手元へ回ってきたときには、もう葬儀が済んでいた。
便箋を開く。跳ねるような、千鶴さんの字。
「栞、元気? 鎌倉は風が気持ちいいわ。今度あなたに見せたいものがあるの」
他愛のない近況が続いて、最後の三行だけ、字が急に硬くなる。
「栞、この家の紙は嘘をつく。
もし私に何かあったら、この家の紙を、あなたの目で見て。
千鶴」
世間は、侯爵が突き落としたのだと噂した。
一人目の奥様も、侯爵が毒を盛ったのだと。
小夜子様という伯爵家のお姫様で、表向きは流行り風邪で亡くなったことになっている。
その人との縁談が来たとき、私は一晩考えて、自分から父に「お受けします」と言った。
借金のためだけではない。
鍵のかかった扉を見る。
向こうで、床板がかすかに軋んだ。あの人は、まだ起きている。
「千鶴さんを殺したのは、あなたですか。旦那様」
声には出さずに、扉へ問いかける。
私はそれを確かめるために、この家に嫁いできた。
コメント
1件
ああ〜〜〜第1話からこのクオリティやばすぎる!!😭💕 「私の値段は千二百円だった」の一文で引き込まれてそのまま離れられなかった…! 父上の「活字は嘘をつかん」って台詞と、栞ちゃんがルーペを持っていく伏線、最後の千鶴さんの手紙に繋がるところがもうエモすぎて反則…。 侯爵様が「何も食べるな」って言って自分で握った塩きつめのおにぎりを置いていくシーン、恋の予感しかしなくない!?あの塩加減が逆に人間味あってツボだわ…。 一年後の離縁宣言の裏で何が隠されてるのか、絶対続き読みたい!!栞ちゃんの推理、千鶴さんの真実、この屋敷の闇、全部暴かれてほしい…。