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えっと……まず、侯爵様が厨房で焦げた卵焼きを作るシーン、すごく好きです。あの、「焦げた。食べなくていい」と言いながら皿を引っ込めようとしない感じ、不器用な優しさが滲んでいて……。それに最後の切り抜き文字「三人目モ同ジ道ヲ辿ル」が不気味すぎます。これはもう、続きが気になって仕方ないです。百合絵様の寂しそうな背中も気になるし、タキさんの視線も……。焦げた卵焼きに込められた想いと、この屋敷の闇。両方のバランスが絶妙でした🌷
嫁いで最初の朝、私は和館の朝餉の膳を前に、箸を取れずにいた。
白い飯、蜆の味噌汁、鰆の西京焼き、青菜のお浸し。どれも湯気を立てている。
この家では何も食べるな。昨夜の夫の声が、耳の奥から離れない。
奥座敷には膳が三つ。上座に大奥様、その脇に百合絵様、末席に私。
侯爵様の膳はなかった。
「御前は、朝はお召し上がりになりませんので」
家令の真柴さんが、廊下に控えたまま穏やかに言う。
給仕をしているのは女中頭のタキさんだ。小柄で背筋がまっすぐで、黒い筒袖に白い前掛け。お櫃の蓋を開け閉めするたびに、鋭い目がちらりと私の手元を見る。
大奥様が、静かに箸を置いた。
「志摩のお嬢さん」
名前では呼ばれなかった。
「この家の膳を断るとは、どういうおつもり」
「いえ、断るなどと……」
「では、なぜ箸を取らないの」
答えられない。旦那様に止められております、と言えば、この膳に毒があると言うのと同じだ。
百合絵様が、味噌汁の椀の陰で笑った。
「あら、三人目さん。今度は何か月もつのかしら」
「百合絵」
「だって、お母様。最初の朝から食べないなんて、もう里心がついたのよ。千鶴お姉様は、おかわりなさったのに」
千鶴お姉様。その名に、私の指先がぴくりと動いた。
「奥様は、昨日のお疲れが残っておいでなのでしょう」
真柴さんが、やんわりと割って入る。
「慣れぬお屋敷で、ご緊張なさるのも無理はございません。大奥様、私からも後ほどよく申し上げておきますので」
「真柴。あなたは甘いのです」
大奥様の扇が、ぱちりと閉じた。
「久遠寺の膳を辱める嫁など、置いておく理由は」
そのとき、襖が開いた。
黒い三つ揃いに、黒い革の手袋。侯爵様が立っていた。
座敷の空気が、さっと張りつめる。タキさんが盆を置いて頭を下げ、百合絵様が背筋を伸ばす。
侯爵様は誰にも挨拶をしなかった。まっすぐ私の前まで来て、言う。
「妻は私と食べる」
「冬馬さん。それは」
「今後、妻の膳は用意しなくていい」
それだけ言って、侯爵様は私の手首を取った。手袋の革が、ひやりと冷たかった。
*
渡り廊下を引かれて、洋館へ連れて行かれた。
赤煉瓦の廊下の突き当たりに、小さな扉がある。侯爵様はチョッキの隠しから鍵を出して、それを開けた。
中は、厨房だった。
白い漆喰の壁、ガス焜炉、銅の鍋が三つ、流しの脇に水甕。窓には鉄の格子が嵌まっている。
「外から鍵がかかる。私の他は、誰も入れない」
侯爵様は上着を脱いで椅子の背にかけ、手袋を外した。白いシャツの袖を、肘までまくり上げる。
私は戸口に立ったまま、ぽかんとそれを見ていた。
侯爵様が、竈ではなくガス焜炉に火を入れる。小鍋で飯を温め直し、鉢に卵を三つ割る。菜箸の使い方が、妙に慣れていた。
「……侯爵様が、お料理を」
「英国で覚えた。下宿の主人が料理をしなかった」
四角い鉄の鍋に、卵が流し込まれる。じゅう、と音が立つ。
侯爵様は眉間に皺を寄せて、鍋をにらんでいる。
ほどなく、焦げた匂いがした。
皿に載った卵焼きは、半分が茶色く、端が黒かった。
侯爵様は皿を私の前に置き、自分の顔を少しそむけた。
「……焦げた。食べなくていい」
そう言いながら、皿を引っ込めようとはしない。
飯の茶碗と、梅干しの小皿と、湯気の立つ紅茶の茶碗が、黙って隣に並べられていく。
私は箸を取った。
焦げたところは苦い。けれど中はふんわりとして、ほんのり甘かった。砂糖を入れたのだ。
一切れ、二切れ。気がつくと、私は全部食べていた。
昨日の握り飯から何も食べていなかったことを、今さら体が思い出していた。
顔を上げると、侯爵様が私の空の皿を見ていた。
表情は相変わらず動かない。ただ、前髪の一筋が揺れた。
「……そうか」
local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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それだけ言って、侯爵様は自分の分の焦げた卵焼きを、黙って口に運んだ。
「侯爵様。なぜ、何も食べるなと」
思い切って尋ねる。
侯爵様は紅茶を一口飲んで、茶碗を置いた。
「理由は要らない。言われた通りにしていればいい。食事は、毎朝ここで出す。昼は包んでおく。夜もだ」
「毎日、侯爵様が」
「不服か」
「……いいえ」
不服ではない。わからないのだ。
人を殺す人が、焦げた卵焼きを恥ずかしそうに出したりするだろうか。
それとも、自分の手から出したものしか私に食べさせないのは、私をいつでもどうにでもできるように、ということなのだろうか。
小夜子様にも、千鶴さんにも、この人はこうして卵焼きを焼いたのだろうか。
「明日は焦がさない」
皿を流しに運びながら、侯爵様がぽつりと言った。
私は返事をしそこねて、膝の上で両手を握った。
*
侯爵様は、そのまま貴族院の会派の集まりへ出かけていった。
和館の玄関で見送るのが嫁の務めだと、真柴さんがそっと教えてくれた。
式台の脇の傘立てには、蝙蝠傘と並んで、黒檀のステッキが何本も挿してある。真柴さんはその中から、握りに銀の家紋を嵌めた一本を抜いて、侯爵様に差し出した。
侯爵様は黙って受け取り、手袋の手で帽子のつばに触れた。それが挨拶らしかった。
自動車の音が坂の下へ遠ざかっていく。
「驚かれたでしょう、奥様」
真柴さんが眼鏡の奥で目を細める。
「御前は、昔から言葉の少ないお方でございまして。私はお小さい頃から存じ上げておりますが、お腹の中はお優しいのです。どうか、お見捨てなきよう」
「見捨てるだなんて。私のほうが、置いていただく身ですから」
「奥様は、謙虚でいらっしゃる」
真柴さんは嬉しそうに頷いた。この家で、この人だけが私を「置いていただく身」として扱わない。
背後で、ぱたぱたと編み上げブーツの足音がした。
海老茶の袴に、大きな臙脂のリボン。女学校へ出かける百合絵様だ。
すれ違いざま、百合絵様は私の耳元で囁いた。
「お兄様の卵焼き、苦かったでしょう」
「え」
「あたくし、一度も食べさせてもらったことないの。三人目さんの次は、四人目さんかしらね」
くすくす笑いながら、百合絵様は門の外へ駆けていった。
意地悪を言われたはずなのに、なぜか寂しそうな背中に見えた。
式台を上がろうとして、ふと視線を感じた。
廊下の暗がりに、タキさんが立っていた。手には私が残した朝餉の膳。手つかずの鰆が、すっかり冷えている。
タキさんは何も言わずに私を見つめ、それから膳を持って奥へ消えた。
*
昼過ぎ、私は洋館二階の自分の部屋に戻った。
窓を開けると、庭の藤棚が見える。房はまだ固い、薄緑の蕾だった。
女中が掃除をしてくれたのか、寝台はきちんと整えられている。
書き物机の上に、嫁入り道具の活字の木箱を置いた。蓋を開けると、鉛と古いインクの匂いがする。
五号の明朝、四号の楷書、焼けて角の丸くなった初号の見出し字。一本つまんで、指の腹で裏返しの字をなぞる。それだけで、少し息がしやすくなった。
帯を少し緩めようと鏡台の前に座り、髪を直す櫛を探して、引き出しを開けた。
櫛の上に、一枚の紙が載っていた。
半紙を四つに折ったもの。私が入れた覚えはない。
開くと、新聞や雑誌から切り抜いた文字が、ばらばらの大きさで貼りつけてあった。
大きい字、小さい字。太い字、細い字。糊の跡が、まだわずかに湿っている。
「三人目モ 同ジ道ヲ 辿ル」