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前婚約者未受理記録。
その文字を見た瞬間、美沙は、喉の奥に冷たいものが詰まったように感じた。
前婚約者。
航平に、そんな相手がいたことを、美沙は知らなかった。
結婚前、過去の恋愛について少しだけ話したことはある。航平はその時、笑って言った。
「昔のことなんて、たいしたことないよ。ちゃんと付き合ったのは、美沙くらい」
その言葉を、美沙は信じた。
特別だと思った。
この人は自分を選んでくれたのだと思った。
けれど今、夜間窓口の白い書類は、その記憶ごと静かに差し戻してくる。
宮乃は、書類を窓口の上に置いた。
「こちらは、ご主人が過去に提出しなかった記録です」
「提出しなかった……何をですか」
「婚姻の約束。金銭の返還。名誉の回復。いずれも未受理のまま残っています」
美沙は書類に目を落とした。
そこに記されていた名前は、黒い線で一部が隠されていた。
対象者 水野■■
年齢、当時三十二歳。
職業、会社員。
航平との関係、婚約者。
美沙は、指先で紙の端を押さえた。
航平は、その女性と結婚するつもりだった。
少なくとも、彼女はそう信じていた。
書類には、淡々と経緯が記されている。
婚約後、共同生活準備金として対象者より金銭提供あり。
その後、申請者は返還意思を示さず。
対象者からの説明要求に対し、申請者は「情緒不安定」「金銭に執着している」と周囲に説明。
婚約解消後、対象者側の信用低下。
美沙は、息をするのを忘れた。
同じだ。
お金。
説明を求めた女性。
それを「不安定」と言い換える男。
周囲に先回りして、自分を被害者に見せるやり方。
まるで、いまの美沙の未来が、すでに紙の上に書かれているようだった。
「この人は……どうなったんですか」
宮乃は、すぐには答えなかった。
その沈黙だけで、美沙は嫌な予感を覚えた。
「退職されています」
「退職?」
「職場に、ご主人から複数の説明が入っています。対象者の精神状態に問題がある、金銭目的で婚約を迫られた、という内容です」
「そんな……」
「対象者は、否定する機会を失っています」
美沙は書類を握りしめた。
航平は、相手を裏切っただけではない。
相手が声を上げる前に、声を奪っていた。
自分だけが正しく見えるように。
相手だけが壊れているように。
宮乃は、もう一枚の紙片を差し出した。
「こちらは、未提出のまま残された言葉です」
美沙は受け取った。
そこには、短い文章が並んでいた。
どうして私が悪いことになっているの。
返してほしいのはお金じゃなくて、私を信じてくれた人たちです。
私は壊れていません。壊したのは、あなたです。
美沙の目に、涙が滲んだ。
会ったこともない女性だった。
顔も知らない。
声も知らない。
それでも、その言葉は美沙の胸にまっすぐ入ってきた。
私は壊れていません。
壊したのは、あなたです。
それは、美沙がまだ言葉にできずにいた叫びだった。
「この人に、会えますか」
思わず聞いていた。
宮乃は首を横に振った。
「こちらから現実の所在をお伝えすることはできません」
「そうですか……」
「ただし、記録は現実とつながっています」
宮乃はそう言った。
美沙は顔を上げた。
「どういう意味ですか」
「あなたが現実側で探せば、見つかる可能性はあります」
翌日、美沙は里緒に連絡した。
里緒は、航平が酔った時に話していた女性の名前を覚えていた。
水野香奈、だったと思います。
漢字までは分かりません。
航平さんは『香奈は面倒な女だった』って言っていました。
面倒な女。
美沙はその文字を見て、スマホを握る手に力を込めた。
航平にとって、説明を求める女は面倒なのだ。
傷ついたと訴える女は不安定なのだ。
お金を返してほしいと言う女は、執着していることになるのだ。
美沙は、千尋にも相談した。
千尋は、話を聞くなり声を低くした。
「それ、かなりまずいね」
「私も、同じことをされるってこと?」
「もう始まってると思う」
その一言に、美沙は背筋が冷えた。
「航平さん、あなたを疑い深いとか不安定だとか、周りに言い始めてない?」
美沙は義母の電話を思い出した。
最近ちょっと不安定なんですって?
航平が心配してたのよ。
「言ってる」
「じゃあ、先回りされてる。離婚の話になった時、自分が有利になるように」
「私が悪いことにされる?」
「可能性はある。だから、記録を続けて。会話、メッセージ、通帳、書類。あと、親戚や知人から変な連絡が来たら、それも保存」
美沙は、胸の奥が重くなるのを感じた。
結婚生活を終わらせるだけでも苦しい。
それなのに、航平は美沙を「おかしな妻」として片づける準備までしている。
美沙は電話を切ったあと、ノートを開いた。
航平の嘘。
義母の言葉。
共有口座。
借入申請。
瀬名里緒の証言。
水野香奈という名前。
書けば書くほど、物語のようにつながっていく。
ただし、それは美沙が読みたい物語ではなかった。
その日の夕方、母から電話が来た。
美沙の実家の母、恵子だった。
「美沙、何かあったの?」
電話に出るなりそう聞かれて、美沙は息を止めた。
「どうして?」
「航平さんから連絡があったのよ。最近、美沙が少し思いつめているみたいだから、気にかけてほしいって」
体温が一気に下がった。
航平は、実家にまで連絡していた。
「何を言ってた?」
「詳しくは言わなかったけど……仕事のことで帰りが遅いだけなのに、美沙が疑っているとか。通帳のことでも少し過敏になっているとか」
過敏。
また、美沙の問題にされている。
「お母さんは、信じたの?」
声が震えた。
母は少し黙った。
「信じたというより、心配になったの。あなた、昔から我慢するところがあるから」
その言葉に、美沙の目が熱くなった。
責められると思っていた。
でも、母の声には戸惑いと心配があった。
「お母さん、私……」
言いかけて、止まった。
どこまで話せばいいのか分からない。
不倫。
お金。
名義。
夜間窓口。
全部を話せば、自分でも信じがたい。
「大丈夫じゃないかもしれない」
美沙は、それだけ言った。
電話の向こうで、母が息を飲んだ。
「帰ってきてもいいのよ」
その一言で、美沙は涙をこぼした。
帰る場所が、まだある。
そう思った瞬間、自分がどれほど孤立していると思い込まされていたかに気づいた。
夜、航平はいつもより早く帰ってきた。
「今日、実家のお母さんと話した?」
靴を脱ぎながら、何気ない口調で聞く。
美沙は、テーブルを拭いていた手を止めた。
「話した」
「そっか。心配してた?」
「うん」
「だろうね」
航平はリビングに入り、ソファに座った。
「俺も心配なんだよ、美沙のこと」
その言い方に、美沙の背中が冷えた。
優しい声だった。
けれど、その優しさは、久枝の煮物と同じ匂いがした。
「最近、普通じゃないよ。夜中に出かけたり、通帳を調べたり、俺の持ち物を触ったり」
美沙は黙っていた。
「俺は責めたいわけじゃない。でもさ、誰が見てもおかしいと思うよ」
誰が見ても。
航平はもう、美沙を周囲の目で囲もうとしている。
「一度、病院に行ったら?」
美沙は、ゆっくり顔を上げた。
航平は心配そうな表情を作っていた。
それが、怖かった。
怒鳴られるよりも、ずっと怖かった。
「私を病気にしたいの?」
「そういう言い方が、もうおかしいんだって」
「私がおかしいことにすれば、都合がいい?」
航平の目が一瞬だけ鋭くなった。
だが、すぐにため息をつく。
「ほら、また被害妄想」
美沙は、その言葉を心の中で記録した。
被害妄想。
あとでノートに書く。
日付と時間も書く。
航平の表情も、声の調子も。
自分を守るために。
その夜、美沙は午前零時を待たずに、家を出た。
市役所の階段は、零時ちょうどに現れた。
夜間窓口で、宮乃はすでに一枚の書類を用意していた。
「前婚約者未受理記録の確認ですね」
「はい」
美沙は言った。
「同じことを、私にもしようとしています」
宮乃は、赤い印を手に取った。
「確認済みとします」
書類に印が押される。
確認済
その瞬間、窓口の奥で、今までとは違う音がした。
紙が擦れる音ではない。
金属の箱が開くような、重く冷たい音。
宮乃は新しい書類を取り出した。
表紙は、これまでよりも白すぎるほど白かった。
その白さが、逆に不気味だった。
美沙は、表題を見た。
妻異常申告書
申請者欄には、夫の名前。
藤代航平
宮乃は、淡々と告げた。
「ご主人は、あなたの正気を差し戻そうとしています」