テラーノベル
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豪奢なシャンデリアが天井で冷たく輝き、会場を埋め尽くす貴族たちの笑い声が耳を刺す。
華やかな夜会の隅で、私はただ、足元の影を見つめて絶望の中にいた。
結婚して2年。
「男は遊びも仕事のうちだ」という父の言葉を飲み込み、浮気癖のある夫・ロニーを信じてきた。
彼がいつか家庭を顧みてくれる日が来ると信じ、孤独な夜を幾晩も耐え忍んできた結果がこれだった。
柱の影、人目に付かない薄暗い場所で
私の夫は知らない女の細い腰を強引に抱き寄せ、むさぼるように熱烈なキスを交わしている。
ドレスの裾を握りしめる私の指先は、感覚を失ったかのように冷たく震えていた。
翌朝───…
朝食のテーブルには、重苦しい空気が澱のように溜まっていた。
向かいに座るロニーは、昨夜の情事などなかったかのように、無造作に食事を口に運んでいる。
私はカトラリーを置くことさえできず、震える声で切り出した。
「ねえ、ロニー。……また、変なことしてない? 最近帰りも遅いし、お酒の量も増えたわ。私、どうしても不安なの」
せめてもの牽制のつもりだった。
「そんなことはない」と嘘でもいいから否定してほしかった。
あるいは、少しでも申し訳なさそうな素振りを見せてくれるだけで、私は自分を騙し続けることができたのに。
しかし、ロニーは口に放り込んだパンを咀嚼したまま、吐き捨てるように言い放った。
「……はあ? しょうがねえだろ! お前が全然ヤらせてくれねえんだから、外で飲んで発散するしかねえんだよ!」
「えっ……」
予想だにしない卑猥で身勝手な逆ギレに、私は絶句した。
視界が急速に滲んでいく。
胸の奥が、鋭利な刃物で掻き回されたように痛む。
「な、何よそれ……。私は、あなたの体が心配で……っ」
「ほら、そうやってすぐ泣く。いいよな~女は。都合よく涙が出てきてさぁ」
ロニーは椅子を引きずり、嘲笑いながら立ち上がった。
私を人間としてではなく、ただの便利な道具か
自分を苛立たせるだけの障害物であるかのような冷たい目で見下ろす。
「そんな言い方、しないでよ……っ」
「お前がふっかけてきたんだろうが。これから仕事だってのにやってらんねえ。サボっちまおうかな」
「そ、そんな、謝るから! 仕事には行ってよ……!」
私が必死に縋ると、ロニーは勝ち誇ったように鼻を鳴らした。
「は? なんで俺がお前に指図されなきゃいけないんだ? はあ、女ってそんなに偉いわけ? じゃあ俺も女になろうかな」
「ち、違っ…」
「あ、でもそんな醜い性格になるくらいなら死んだ方がマシだな」
「だ、だって……ロニー、また浮気してるんじゃないかって……不安で…っ」
「いや、夫疑うんだ。疑り深い女とかマジで無理だわ」
鋭い舌打ちの音だけをダイニングに残し、ロニーは背を向けて出ていった。
一人取り残された広い部屋で、私は声を殺して泣いた。
朝陽が差し込む美しい邸宅の中に、私の居場所なんて、どこにもなかった。
現実から逃げ出したくて、私は導かれるように街へ出た。
華やかな洋服店で、流行のシルクのドレスを眺めている間だけは、耳の奥に残る夫の罵声が遠のく気がした。
(……あ、あの人)
ふと、雑踏の中に、燃えるような鮮やかな赤髪の男性を見かけ、私の心臓が大きく跳ねた。
その色彩に、封じ込めていた遠い記憶が呼び起こされる。
幼い頃、隣の屋敷に住んでいた初恋の少年───
エレン。
いつも私の歩幅に合わせて歩き、困った時には優しく手を引いてくれた彼。
(エレンだったら、あんな酷いこと言わなかったのにな……)
今の自分の惨めさと対比するように、美しく色鮮やかな思い出が蘇る。
「あの人と付き合えていたら、今頃こんなに泣かなくても済んだのかな……」
叶わぬ願いを小さく呟き、私は逃げるように店を後にした。
◆◇◆◇
数日後───…
ロニーに無理やり連れてこられた酒場で、私はさらなる地獄を味わっていた。
荒々しい笑い声が響く騒がしい店内で、ロニーは私の目の前で別の女を侍らせ、堂々と酒に溺れている。
「……飲み過ぎだよ。それに、人目もあるし…もう帰ろうよ…?」
勇気を振り絞って控えめに注意すると
ロニーは顔を真っ赤にし、持っていたジョッキをドォン!!と凄まじい音を立てて机に叩きつけた。
「可愛げねえ女は黙ってろよ!! こっちはなぁ、親に言われて仕方なくお前を妻にしてやったんだよ! 」
「!…そ、そこまで言わなくても…っ」
「しかも?浮気ぐらいでガタガタ騒ぐしよぉ!! 泣いてばっかのみっともねぇ女が!」
周囲の酔客たちの視線が一斉にこちらに突き刺さる。
冷笑、同情、好奇の目。
私はあまりの羞恥と恐怖に耐えきれず、肩を震わせて小さく縮こまることしかできなかった。
「おら、こっち来いよ!」
ロニーが乱暴に私の腕を掴もうと手を伸ばした、そのとき
「お嬢さん、大丈夫ですか?」
低く、深く、耳元に心地よく響く落ち着いた声がした。
私の目の前に、真っ白で清潔な香りのするハンカチが差し出される。
「え……?」
溢れる涙で視界がぼやけ、相手の顔はよく見えない。
ただ、差し出されたハンカチの、日向のような温もりだけが指先に伝わってきた。
「あ? なんだおめぇ! 俺の妻になんの用だ!」
ロニーが犬のように食ってかかるが、その男性は無造作に伸ばされたロニーの手を鋭く叩き落とした。
そして、震える私を慈しむように、自分の広い背中の後ろに隠した。
「彼女が怯えているのが分からないのか」
「あぁ!? んなの演技だろ! その女はすぐ泣いて怯えたフリすんだよ!!」
酒場中に響き渡る大声を上げるロニーに対し、男性は呆れたように深くため息をついた。
「無駄に図体のデカイ君に怒鳴られたら、女性なら誰だって怯えるだろう。周りを見てみなさい。みんな引いているぞ、君の醜態に」
「あぁ?!」
「……なにより、か弱い女性に手を上げようとするなんて、紳士のすることではない」
「てめぇ……っ!!」
逆上し、理性を失ったロニーが殴りかかった。
しかし、男性はそれを紙一重の動きでかわすと、一瞬の澱みもない動作でロニーの腕をとり、そのまま床にねじ伏せた。
「ぐわっ、痛てぇ……! 離せ! 離せよ!!」
言われた通りに彼はロニーを解放すると
「くそっ!畜生、覚えてろよ!!」
無様に床を這い、捨て台詞を吐きながら、ロニーは逃げるように酒場を飛び出していった。
静寂が戻る中、男性はゆっくりと私の方に向き直る。
私は動悸が止まらないまま、慌てて頭を下げた。
「あ、あの! ありがとうございます……助けてくださって……っ」
「礼には及ばないよ、スカーレット」
その瞬間、私の思考が止まった。
初対面のはずの男性が、なぜ私の名を呼ぶのか。
「え……どうして、私の名前を……?」
震える声で聞き返すと、男性は深く被っていた帽子を、ゆっくりと脱いだ。
そこには、あの日、街で見かけたのと同じ、夕陽を閉じ込めたような綺麗な赤い髪。
そして、記憶の奥底にある少年が、そのまま凛々しく、気高く成長したかのような───
紛れもない初恋の人の面影があった。
「僕だよ。エレンだ」
「え、エレン……!? エレンって、昔、隣に住んでた……?うそ……」
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