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翌朝。
沙織はいつものようにスーツへ袖を通した。
(会社、行かなきゃ)
ネクタイを結ぼうとする。
けれど、指が震えてうまく動かない。
(行かなきゃ……)
そう思えば思うほど、呼吸が浅くなっていく。
「……あ」
視界が揺れ、その場に崩れ落ちた。
「沙織!?」
直樹が駆け寄り、身体を支える。
「ごめん……今日も、行かなきゃなのに……」
「大丈夫」
背中をゆっくりさすられた瞬間、張り詰めていたものが切れた。
「私……私ばっかりつらいって思ってた……」
涙が溢れる。
「直樹はちゃんと家族のために働いてたのに……私、何も知らなかった」
直樹は責めなかった。
ただ、静かに沙織の言葉を聞いていた。
「……俺も、つらかったよ」
沙織が顔を上げる。
「でも、沙織を責めたかったわけじゃない。分かってほしかっただけなんだ」
「……うん」
「俺も一緒に、家族を守ろうとしてたって」
「……ごめん」
沙織は涙を拭った。
「“外で働いてるだけ”なんて思ってた。毎日こんなに追い詰められてたなんて、知らなかった……」
「俺も同じだよ」
直樹は苦笑した。
「湊と一日中いるのが、こんなに大変だと思ってなかった」
そして、テーブルの上のカステラへ目を向ける。
「最初は、今日だけかなって思ったんだ。でも次の日も、その次の日も、カステラしか食べなくて」
沙織は俯いた。
「違うものを出すと泣いて、怒って、最後には何も食べなくなる。栄養のこと考えたら、このままじゃ駄目だって思う。でも、何も食べないよりはって……」
「……うん」
「何が正解なのか、全然分からなくなるな」
その言葉に、沙織の目からまた涙がこぼれた。
「私も……ずっとそうだった」
ちゃんと食べさせなければ。
ちゃんと育てなければ。
そう思うほど、できない自分を責めていた。
「湊、他の子と違うんじゃないかって怖かったの」
声が震える。
「癇癪も、偏食も、こだわりも……私の育て方が悪いんじゃないかって。相談しても“様子を見ましょう”って言われるだけで……」
直樹は、付箋だらけの育児書を手に取った。
「これも読んだよ」
「……」
「こんなに調べてたんだな」
何度も読み返した跡。
《感覚過敏》《偏食》《こだわり》《発達障害》――ページには、沙織の不安がそのまま残っていた。
「怖かったよな」
直樹が、そっと沙織の手を握る。
「ずっと、一人だったよな」
「……うん」
その言葉を聞いた瞬間、堪えていたものが溢れた。
「誰かに……そう言ってほしかった……」
沙織は直樹の胸に顔を埋めた。
しばらくして涙が落ち着くと、直樹が言った。
「どっちが大変とかじゃなかったんだよな」
「……うん」
「比べるものじゃ、なかった」
外で働くことも。
家で子どもを育てることも。
見えている苦労が違うだけで、どちらも同じ家族を守るためのものだった。
「だから、これからは一緒に考えよう」
「一緒に?」
「湊のことも、仕事のことも、家のことも。“どっちかが頑張る”んじゃなくて、二人で」
沙織は涙を拭い、頷いた。
「……うん。私も、もう一人で抱え込まない」
「俺も。つらいときは、ちゃんとつらいって言う」
ようやく二人は、顔を見合わせて笑った。
(初めて、“分かってもらえた”と思った)
(そして初めて――私も、直樹を分かろうと思えた)
*
数日後。
沙織は、直樹として再び会社へ向かった。
怖くないわけではない。
それでも、このまま元の世界へ戻れば、直樹はまた同じ環境で働くことになる。
「加藤。昨日の分の埋め合わせ――」
「ひとつ、はっきりさせてください」
上司の言葉を遮り、沙織は立ち上がった。
「私のミスは私の責任です。その点はきちんと受け止めます」
「だったら――」
「でも、過剰な業務を一人に押しつけて、人格や家族まで否定するのは業務指導じゃありません」
上司の顔が険しくなる。
「……調子に乗るなよ」
「仕事の指摘なら受けます。でも、それ以外まで受け入れるつもりはありません」
声は震えていた。
それでも、最後まで言えた。
後日、以前からの言動も含めて問題となり、上司には異動が決まった。
業務分担も見直され、直樹の机を埋め尽くしていた仕事は少しずつ減っていった。
(一人で抱えなくていい)
それだけで、見える景色はずいぶん違っていた。
*
湊のことも、二人で考えることにした。
療育教室を見学すると、湊はブロックを一つずつ丁寧に積み上げていた。
「湊くん、すごく集中力がありますね」
「集中力……?」
「はい。困りごとだけじゃなくて、こういうところは湊くんの強みですよ」
直樹と沙織は、夢中になって遊ぶ息子を見つめた。
できないこと。
周りと違うこと。
そればかり気にしていた。
けれど、この子にはこの子なりの“できる”がある。
「焦らなくても大丈夫ですよ。一緒に、湊くんのペースを作っていきましょう」
「……お願いします」
二人は顔を見合わせ、自然と笑った。
*
帰り道。
夕焼けの下を、三人で並んで歩く。
「また、あそこいく?」
「うん。また行こう」
「次は何して遊ぼっか」
「ブロック!」
湊が嬉しそうに笑った。
その小さな手を挟むように、沙織と直樹が歩いていく。
(もし、この入れ替わりがずっと続いたとしても)
沙織は隣にいる直樹を見た。
(きっと、やっていける)
(この人となら。この子となら)
その瞬間、景色がふわりと揺れた。
二人のスマートフォンが、同時に震える。
《Re:Birthプログラム体験は終了しました》
《現実世界へ戻ります》
「……来た」
「うん」
二人は顔を見合わせた。
そして、どちらからともなく手をつなぐ。
白い光が、三人を包み込んだ。
*
次に目を開けたとき、沙織は自分の手を見つめた。
細い指。
見慣れた、自分の身体。
「……戻ってる」
「沙織?」
隣では、直樹も元の姿に戻っていた。
二人はしばらく見つめ合い、やがて同時に笑った。
「夢じゃ、なかったね」
「うん。ちゃんと覚えてる」
*
朝食のテーブルでは、湊がカステラを食べていた。
「今日は、少しだけにしよっか」
沙織が言うと、湊はカステラを見つめてから、こくんと頷いた。
「うん」
「少しできたら、それで十分」
直樹も隣へ座る。
「焦らなくていいよね」
「うん。一緒にやろう」
「……うん。一緒に」
湊が笑う。
その笑顔につられて、二人も笑った。
誰か一人が、家族のすべてを背負う必要なんてなかった。
完璧な父親にも。
完璧な母親にも。
完璧な子どもにも、ならなくていい。
(“正しい家族”じゃなくていい)
(支え合える家族でいよう)
三人でなら、きっと大丈夫だ。
*
終電が去った、無人のホーム。
長いコートをまとった店主が、スマートフォンを眺めていた。
《Re:Birthプログラム》
《Case4:終了》
《理解度:100%》
《価値観の更新:完了》
『……お疲れさまでした。沙織さん、直樹さん』
画面を滑らせる。
《成功:相互理解》
《変化:定着》
『互いの痛みを知った人は、もう以前と同じ人生には戻れません』
店主は静かに微笑んだ。
『だからこそ――未来は少しずつ、優しく書き換わっていくのでしょう』
スマートフォンを閉じる。
無人のホームに、風が吹き抜けた。
『けれど、人生に迷う人は今日もどこかにいる』
どこからともなく、列車の近づく音が聞こえる。
けれど、線路の先に列車の姿はない。
店主は暗闇へ向かって歩き出した。
『次にこのホームへ降り立つのは――誰でしょうね』
その姿が、夜の闇へ溶けていく。
――Case5『じゃあ、あなたがワーパパしてみて』
コメント
1件
みぅ🤍🥀です。 今回も読ませてもらいました…。 最後、本当によかった。 「一緒に考えよう」「支え合える家族でいよう」って、沙織と直樹がやっと言葉にして、胸の奥でつながれたのがすごく伝わってきました。 湊くんの「ブロック!」って笑った顔、じんわりくる。 あと、ラストの店主のセリフ、リーディングとかケース5のタイトルで「まだ続くんだ…」ってちょっと期待しちゃいました。 今回はとくに、お互いの痛みを知ってやっと歩き出せるっていうのがテーマだったのかなって。 温かくて、それでいて切なくて、すごく刺さりました。
#子育て
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