テラーノベル
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仕事中、楓のスマートフォンが震えた。
画面に表示されたのは、三歳の娘・澪が通う保育園の名前だった。
「……はい、黒川です」
電話を終えると、楓はすぐに夫の悠真へ連絡した。
「澪が熱出したって。ねえ、今日だけお迎えお願いできない?」
『今日は無理。このあと会議も入ってるし』
「最近、澪の体調不良が続いてて……私も早退ばっかりで、そろそろ会社に迷惑かけるの限界なの」
『でも、そっちは代わりになる人いるだろ?』
「私だって――」
『周りもワーママにそんな働き期待してないって。悪いけどよろしく』
電話が切れた。
「……何、それ」
楓はしばらく、その場から動けなかった。
*
「すみません、娘が熱を出してしまって……」
何度も頭を下げ、仕事を引き継ぐ。
「まあ、しょうがないよ。お子さんもまだ小さいし」
「今日も残業かぁ」
「でもさ、一応黒川さんのとこって共働きのはずだよね?」
囁き合う声が、断片的に耳に入る。
(そうだよ。私だって、悠真と同じように働いてるのに)
それでも保育園へ駆けつけると、熱で真っ赤になった澪が「ママ」と手を伸ばした。
楓は娘を抱き上げる。
「遅くなってごめんね」
*
その夜、悠真はスポーツドリンクやゼリーを買って帰ってきた。
「澪、どう?」
「熱は下がった。今は寝てる」
「そっか、よかった」
不機嫌な楓の様子を窺い、悠真が続ける。
「明日は俺がお迎え行くよ。そんな忙しくないと思うし」
「……本当に?」
「うん。任せて」
その言葉に、楓もようやく少しだけ笑った。
*
翌日の十九時過ぎ。
楓のスマートフォンに、再び保育園から着信が入った。
『本日はお父様のお迎えと伺っていたのですが、まだお見えにならなくて……』
「……え?」
血の気が引いた。
『先ほどからお電話しているのですが、連絡も取れないんです』
「すぐ行きます!」
楓は仕事を放り出すようにして会社を飛び出した。
*
「ママ……!」
閉園時間を過ぎた保育室で、一人待っていた澪が駆け寄ってくる。
「ごめんね……!」
楓は娘を抱きしめ、そのまま保育士たちへ何度も頭を下げた。
*
「……悪かったって。ごめん」
帰宅した悠真に、楓は静かに問いかけた。
「どうして連絡しなかったの?」
「会議が思ったより長引いて……お迎えのこと、頭から飛んでた」
「忘れてたじゃ済まされないでしょ? 私が行けなかったらどうしてたの?」
#子育て
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「でも、現に間に合ったわけだし」
「それは私が周りに頭下げて、必死に間に合わせたからでしょ!」
悠真も苛立ったように息を吐いた。
「俺のは仕事なんだから仕方ないだろ」
「……私だって仕事してるよ?」
「俺は家族のために働いてるんだよ。出世もかかってる」
「じゃあ……私の仕事は?」
悠真は答えなかった。
その沈黙だけで、楓には十分だった。
*
翌日の昼休み。
悠真は一人、デスクで弁当を食べていた。
(楓が澪のために仕事をセーブしてるのは分かってる)
それを当然だとまでは思わない。
けれど――仕方のないことだとは思っていた。
(実際、俺の方が年収は上なんだし)
そのとき、一通のメールが届いた。
件名:《あなたの人生、少しだけ交換してみませんか?》
必要なあなたに、痛みを知る時間を――
Re:Birthプログラム体験を開始します。
「……何だこれ」
悠真はろくに読まず、スマートフォンを伏せた。
「それより眠い……」
昼休みが終わるまで、少しだけ。
そう思って目を閉じる。
『ようこそ、反転した世界へ』
『痛みを知らぬ者に、痛みを与える。それが、この世界のルールです』
けれど悠真は、その声に気づかなかった。
*
「……やべ」
悠真が目を覚ますと、昼休み終了まであと三分だった。
「危な……」
慌てて仕事へ戻る。
何も変わっていない。
――そのはずだった。
*
夕方。
「黒川さん、保育園からお電話です」
「……保育園?」
悠真は怪訝に思いながら電話を取った。
『お迎え予定の時間を過ぎていますが、何時頃お越しいただけますか?』
「え?」
時計を見る。
「今日のお迎え……俺ですか?」
『……? はい、そう伺っていますが』
慌ててスマートフォンを確認すると、保育園から何度も着信が入っていた。
「なんで……」
楓へ電話をかける。
出ない。
「なんで出ないんだよ……!」
時刻は十八時半。
閉園まで、あと三十分しかない。
「クソ……!」
悠真は慌てて上司のもとへ走った。
「すみません! 娘のお迎えがあって……!」
「ああ、いいよ。こっちはやっとくから」
「え……」
「黒川は子どものお迎えがあるんだから、仕方ないだろ」
あまりにも当然のように言われ、悠真は戸惑った。
「……ありがとうございます」
急いで会社を飛び出す。
(何だ……?)
自分がお迎えに行くことを、誰も不思議に思っていない。
その違和感は、帰宅後さらに大きくなった。
*
「ただいまー」
楓が帰ってきたのは、澪を寝かしつけたあとだった。
「なんで電話出なかったんだよ! 何回もかけたんだぞ」
「あー……会議だったし、しょうがないでしょ」
「だから俺が周りに頭下げて、迎えに行ったんだぞ?」
「うん、ありがとう。でも悠真の方が調整しやすいよね?」
「……は?」
楓は何でもないことのように続けた。
「私、明日も遅くなるから。お迎えよろしくね」
「ちょっと待てよ――」
「疲れた。シャワー浴びてくる」
一人残され、悠真は呆然とした。
「……何だよ、これ」
スマートフォンが震える。
《Re:Birthプログラム体験中の方へ》
《“理解”は、痛みの中にある――》
《交代された人生をお過ごしください》
「交代された……人生?」
悠真は画面を見つめた。
そして、ようやく気づき始める。
この世界では――自分と楓の立場が、完全に逆転しているのだ。
コメント
1件
「立場逆転、めちゃくちゃ刺さりました……!」最初は楓さんの気持ちに寄り添って読んでたけど、悠真が「なんで出ないんだよ!」って焦ってるシーンでハッとさせられた。自分が当たり前にやってたことの重みを、痛みを通して知るってこの設定、本当に上手いなって思います。ラストの楓さんの「お迎えよろしくね」がシンプルに効いてる。次話、どうなるか気になりすぎる🔥