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狼の勇猛な唸り声が、クレイをひどく苛立たせた。剣を向けて、余裕のある笑みを引きつらせながら。
「たかが死にぞこないのデミゴッドの犬っころ風情が、俺の邪魔してんじゃねえ。今度こそ確実に息の根を止めてやる!」
「ぬしも随分余裕がなくなってきたのう」
背後に感じた殺気に飛び退く。傷だらけではあるが、まだまだ余力のあるイルネスの蹴りは、その振りかぶった勢いだけで周囲の瓦礫を吹き飛ばして荒野のように変えた。二体のデミゴッドに挟まれる形で、クレイはぎりぎりと歯を鳴らす。
「イルネス……! ディオナはお前に負けたみたいだな」
「勝てぬと見て、とっとと逃げおったわ。ぬしなど捨ててのう」
「いいや。そう指示を出したまでだ。仕事は他にもある」
彼が空高く指をさす。今に雨でも降りだしそうな空を、いくつもの影が飛び回った。イルネスとシャロムがみあげた先には、ワイバーンの群れがいる。彼らは獲物を探すように首都の上を飛んで、その鋭い爪をぎらりと光らせた。
まだ健在な首都の避難区域では、いまだ多くの人々が残っている。そして、吹き飛ばされたイーリスたちもまた、どこかで気を失っていることだろう。それをワイバーンに狩らせるつもりで、ディオナに待機させていたのだ。
『どこまでも腐った性根をしているな、クレイ……!』
「おい、シャロム! 儂がこいつを引き付けて──」
前を向いた直後、クレイの剣が眼前に迫ったのに気付いたイルネスは、咄嗟に首をひねって、額に伸びた角で弾いてみせる。しかし、その代償に剣と接触した左の角が、高く宙を舞って、ごとんと落ちた。
追撃にと振られた斬撃は、駆け抜けた閃光によって阻まれる。
「ぬおおっ! 助かったぞ、シャロム! よだれまみれなのはちと不快じゃが!」
くわえられながらホッとひと息つく。
『余裕ぶってる場合じゃないだろう、ワイバーンはどうする!? 俺たちでは二人でクレイを相手にするのが精いっぱいだぞ!』
長らく戦場とは縁のなかったクレイも、次々と並ぶ強者を前に本来の実力を取り戻していく。いくらデミゴッドとはいえ、今のイルネスとシャロムでは、ワイバーンまで気を配っていられない。だが、放っておくわけにもいかず、このままでは無力な人間が襲われてしまう、と焦燥感に襲われた。
だが、そこへ四人の冒険者が、避難区域へ向けて駆けていく。
「そこのあんたら! 首都の人たちの救助は俺たちに任せてくれ!」
「おう、よく知らぬが助かる! 名はなんという!?」
先を行く冒険者たちをクレイに追わせないために立ち塞がり、振り返って尋ねたイルネスに、先頭を走る冒険者が一度だけ足を止めて「エルン・クロウバードだ! ヒルデガルドに会ったらよろしく伝えてくれ!」と強気に笑った。
「ふん、どの時代にも骨のある連中ってのはおるもんじゃのう!」
『まったくだ。おかげで、俺たちもやる気が湧いてくる!』
たかが人間。されど人間。たとえ弱かろうとも、どんな苦境に立たされようとも、彼らは気丈にも立ち上がり、決して止まらない。その姿に希望を見たイルネスは、ふう、と大きく深呼吸をして──。
「こりゃあ、生きて帰るのは無理じゃなあ」
ふとミモネの顔が脳裏をよぎる。生きて帰ると約束して村を出てきたが、その約束を守るには、いささか熱にあてられすぎた、と楽しそうに。
『なんだ、帰りたいなら帰っていいぞ』
茶化したシャロムの前足をごつんと蹴った。
「ナメるな。儂はイルネス・ヴァーミリオン。たとえ弱ったとしても、この魔王としての強さ、誇りは決してくすんでおらぬ!」
『は、ならば良し! では派手にいくとしよう!』
圧倒的な強さ。届かない存在。勇者と呼ばれ、英雄と呼ばれ、今は|禍《わざわい》そのもの。のちには神に至ることさえできたであろう男、クレイ・アルニム。デミゴッド二体を前にしていまだ余裕をみせ、軽やかなステップと剣捌きで、猛攻を悠々と凌ぐ。
「弱いなあ、お前たちは。なのになぜ戦う。なぜ抗う。ヒルデガルドが来てくれると信じているのか? 彼女はとっくにお前たちなんか見捨てたってのに」
安い言葉。薄っぺらな挑発をイルネスは小馬鹿にする。
「儂は信じたい者の言葉を信じるだけじゃ。ぬしのような小さき器に盛れるものなど限られておる、戯言でかき乱そうとするのは愚か者の業よ!」
頭目掛けて放った蹴りをクレイは掴んで、地面に叩きつけた。「だったら信じたまま死ね」と、剣で彼女の片足を切り落とそうとする。
『よそ見とは余裕だな!』
鋭い牙が背後に迫る。彼はとっさにシャロムの牙に剣を打ち、圧し折って、傍を駆けようとする瞬間に、脇腹を刃で切り裂いた。
「よそ見がなんだって? よく聞こえなかった」
転がって倒れたシャロムは、げふげふと血を吐きながら、よろよろと起き上がる。イルネスも同じだ。限界を迎えつつあるふたりは、それでもなお諦めようとしない。どちらも『ヒルデガルドならばまだ戦っている』と己を鼓舞した。
「ヒルデガルドは立派だな。お前たちみたいなクズでもお友達にできるんだから。あいつはやっぱり懐が広いよ。だからこそ奪わなくちゃなあ、全部。お前たちのような不要なものがいくつもあるから、ヒルデガルドはいつまで経っても俺を見てくれない。俺を頼ってくれない。邪魔なものは全部壊さなきゃ。そう思うよな?」
もうまともに立ち上がることさえままならないイルネスが、ぎろりと彼を睨む。全身を真っ赤に染め、息も絶え絶えになりながら、なお瞳に輝きを失わない。
「フッ、ぬしは本当に可哀想な奴よのう。愛情も知らぬ、一人遊びばかり上手くなった、哀れなガキじゃ。そんな奴に振り向くなど、同じ馬鹿しかおらぬわ」
「だったらもう死ね。話す価値もない」
容赦のない冷たい刃が振り下ろされた。その首を刎ねて、ヒルデガルドに見せてやろう。きっと感涙に咽ぶことだろう、と。
「──それは困るな。私の友人が減ってしまうだろう?」