テラーノベル
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夜、炊源は一人で水場に立っていた。
御膳房の火は落ち、湯気も消え、昼間の騒がしさが嘘のように静まっている。水甕の表面だけが、月明かりを受けて薄く光っていた。
炊源は自分の手を見つめた。
指先には、魚の匂いがまだ残っている。酢の匂い。油の匂い。水の冷え。銀の鱗を落とした感触。
帝は褒めた。美しい、と。誠に、美味である、と。
皿には頭と尾、骨ばかりが残っていたという。
その一皿で、炊源の名は上がった。胸の奥には、確かに熱いものがあった。長く火場の隅にいた自分の名が、御前へ届いた。料理人として、これほどの喜びはなかった。
だが、その熱の下で、別のものが静かに沈んでいた。
炊源は両手を水に浸した。
冷たさが、骨に入る。
水面が揺れ、自分の手が歪んで映る。指の節の赤み。小さな傷。黄河の冷えはまだ抜けていない。
あの魚は、もう跳ねない。
黄河の底で光っていた銀鯉。群れが道を開けた魚。漁師たちが殺してよい魚ではないと言った魚。
それを、水から上げ、鱗を落とし、腹を開き、油へ入れた。
自分の手で。
水甕の縁を、夜風が小さく鳴らした。
遠くで、消え残った炭が一度だけ爆ぜた。
炊源はそれでも、手を水から上げなかった。
冷たさだけが、今は正直だった。
しばらくして、背後で足音がした。
「眠れぬか」
頭厨だった。
炊源は振り返らずに答えた。
「……眠れません」
「そうか」
頭厨は水場の入口に立ったまま、炊源の背を見ていた。
「誇れ。お前は、今日の魚を雑には扱わなかった」
胸の奥が、音もなく揺れた。
「だが」
頭厨はそこで言葉を切った。
炊源は続きを待った。
頭厨は、それ以上を言わなかった。
ただ、炊源の隣まで歩き、自分も水甕に手を浸した。
二人分の波紋が、月明かりの中で重なり、やがて一つに静まっていく。
「私は」
炊源は呟いた。
「粗末には、しなかったでしょうか」
頭厨は水面を見たまま、短く言った。
「しなかった」
それだけだった。
炊源は目を閉じた。
喜びもある。罪悪感もある。誇りもある。恐れもある。
そのどれか一つだけなら、どれほど楽だっただろう。
だが、料理人の手にはいつも複数のものが残る。香り。熱。刃の感触。命の重さ。食べた者の笑み。戻らない水音。
炊源は、もう一度、自分の手を見た。
あの魚の命を、自分は確かに終わらせた。
だが、雑には終わらせなかった。
それだけを、今夜は手放さずにいようと思った。
水甕の表面に、月が揺れている。
その揺らぎの中で、隣に立つ頭厨の手も、同じように歪んで映っていた。
コメント
1件
読み終わって、夜の水場の静けさがそのまま胸に残りました。あの銀鯉の命を終わらせた手を、冷たい水に浸しながら「雑には終わらせなかった」と思い直す炊源さんが切なくて…。頭厨さんが隣に立って、何も言わず一緒に手を浸してくれたのが、いちばん沁みました。月の揺れる水面に二人の手が映るラスト、すごく好きです。