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第6話、読み終えました……。青鱗と炊源の再会、すごく静かで重みのある場面でしたね。鯉料理の献立から始まる空気感が、読んでいるこちらまで息を詰まらせました。特に「申し訳ございませんでした」と頭を下げた炊源が、最後に「ありがとうございました」と詫びと礼を両方出すところ、胸がぎゅっとなりました。墨兎の距離の取り方も、絶妙なバランスで好きです。次、どうなるんだろう……。
天灯食堂の昼時は、相変わらず少しだけ騒がしい。
湯気が立ち、盆が行き交い、誰かが椀を取り落としかけ、どこかの席では霊獣が香草の量について真剣に揉めている。
青鱗は、入口の献立札から目を離した。
本日の昼餉。
黄河鯉の甘酢あんかけ。
その字は、もう見た。十分に見た。
「やめとくか」
隣で墨兎が言った。
「何を」
「黄河鯉」
「頼むと思ったのか」
「思ってない。けど、おまえなら変な意地を張って頼む可能性が一割くらいある」
「ない」
「ならいい」
墨兎は耳を揺らし、献立札の下に小さく書かれた別献立を見た。
「魚の入ってないものもあるな」
「それにする」
「よし。無難な判断だ」
軽口はそこで終わった。
二人は列へ並んだ。
甘酢餡の匂いは、食堂の奥からまだ漂っている。黒酢の酸味、砂糖の照り、生姜の熱。先ほど青鱗の記憶を黄河へ引き戻した匂いと同じものだった。
けれど今は、完全には沈まなかった。
澄んだ湯。白い豆腐。火を落とした鍋。
その向こうに、見覚えのないはずの手があった。
青鱗は顔を上げた。
配膳口の向こうに、一人の男が立っていた。
人間で言えば、四十を幾つか越えたあたりに見える。髪にはわずかに白いものが混じり、袖は清潔に整えられている。だが、指先には古い傷がいくつも残っていた。生前の年月が、そのまま手に刻まれているような男だった。
男が、青鱗を見た。
手が止まる。椀へ汁をよそう杓子が、湯気の中で静止した。
青鱗も、動けなかった。
顔を知っているわけではない。生前の自分には、人の顔を見分ける知恵などなかった。
けれど、その手を知っている気がした。
冷たい水で泥を落とした手。鱗に刃を当てる前、一度止まった手。銀の尾を、壊さぬよう支えた手。
男の唇が、かすかに動いた。
「もしや……あの時の、銀鯉さま」
食堂の音が、少し遠のいた。
墨兎の耳が、ぴんと立つ。
青鱗は男を見つめた。
「今は、青鱗と呼ばれている」
男は、はっとしたように目を伏せた。
「失礼いたしました。青鱗さま」
「あなたが、私を黄河から上げた料理人か」
「はい」
「私を、皇帝の膳へ出した人か」
男――炊源は、杓子を置いた。
それから、食堂の床へ深く頭を下げた。
「はい。炊源と申します」
青鱗は黙っていた。
炊源は額を上げなかった。
「申し訳ございませんでした」
墨兎が、盆を持つ手に力を入れた。けれど、口は挟まなかった。
少しして、墨兎は低く言った。
「青鱗。席を取ってくる。無理なら呼べ」
青鱗は墨兎を見ずに、小さく頷いた。
墨兎は少し離れた席へ向かった。ただし、完全には背を向けなかった。青鱗の声が少しでも強張れば、すぐ戻れる位置にいた。
青鱗は、それに気づいていた。気づいた上で、何も言わなかった。
「詫びられるとは思わなかった」
青鱗は言った。
声は静かだった。だが、配膳口の湯気が一瞬だけ薄く揺れた。
「私は、あなたの功名のために泳いでいたわけではない」
「はい」
「皇帝の膳に上がるために生きていたわけでもない」
「はい」
「なら、なぜ詫びる」
炊源は、ゆっくりと顔を上げた。
目元に深い皺があった。笑って刻まれたものではない。火場の熱と、水場の冷えと、長く包丁を握ってきた者の皺だった。
「詫びだけでは、足りない気がしておりました」
「足りない?」
「はい」
炊源は一度、唇を結んだ。
「ありがとうございました。それしか、今は出てきません」
青鱗の目が、わずかに見開かれた。
「詫びと、礼と。両方か」
「はい」
炊源は顔を上げたまま、まっすぐに青鱗を見た。
「両方とも、本当のことでございますので」
沈黙が落ちた。
配膳口の湯気だけが、二人のあいだで静かに揺れていた。
怒りはあった。嫌悪も、たしかにあった。だが、炊源がそれを避けようとしていないことだけは分かった。
黄河の中で泳いでいた自分。針にかかり、水面を破り、泥の上へ落ちた自分。俎板の上に置かれ、鱗を落とされ、油へ入れられた自分。
そのすべてが、今の青鱗の中にある。
けれど、その記憶の大半は、言葉ではなかった。
水が遠ざかったこと。光が途切れたこと。尾が動かなくなっていったこと。
それだけだった。
やがて、青鱗はふと思い出したように言った。
「命を預かる、というやつか」
「……どこかで、お聞きになりましたか」
「あなた自身が、夜に水場で言っていた」
炊源の指が、かすかに震えた。
「あれを、ご覧になっていたのですか」
「覚えているのは、私だけの記憶ではないのかもしれない」
青鱗はそう言ったきり、それ以上は説明しなかった。
「分からない言葉だ。だが、軽い言葉ではないことは分かる」
炊源は深く頭を下げた。それ以上は、何も言わなかった。
沈黙が、答えの代わりになった。
「私は」
青鱗は、ゆっくりと言った。
「あなたにとって、ただの食材だったのか」
炊源は、すぐには答えなかった。
その沈黙に、青鱗の指が盆の縁を強く押す。
「答えろ」