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一般客が去り、重い静寂に包まれた深夜のアムール・ホール。
舞台上では、団員たちだけによる「追悼コンサート」が始まろうとしていた。空席となったコンサートマスターの椅子が、剥き出しの欠落としてそこにある。
急遽、篠原さんの代役としてその席に座ったのは、副コンサートマスターだった今野という女性だ。だが、リハーサルの音色は惨泐たるものだった。
「……素人の私でも今野さんが演奏に身が入ってないのがわかります。弓が震えているし。やっぱり、彼女が……」
客席の端で、私は声を潜めて呟いた。
「罪悪感、と言いたいのかい? 南さん」
「そう見えます。自分が代わりにその座に就くことへの葛藤か、あるいはもっと直接的な……。柊さん、そんな楽しそうに身を乗り出さないでください。不謹慎ですよ」
「まさか。僕は音楽に浸っているだけだよ」
柊さんは舞台上の今野を、検品でもするかのような冷めた目で見つめた。
「彼女の呼吸、瞬きの頻度。あれは自分の出世を喜んでいる人間のそれじゃない。心臓を半分えぐり取られたような、純粋な喪失の表情だ。……さて、南さん。この中で、絶対に犯人ではないと言い切れる人間は誰かな?」
唐突な問いに、私は手帳のメモを脳内で素早く整理した。
「……消去法で行くなら、指揮者の諸星さんです。昨夜の犯行推定時刻、音楽業界の関係者たち数名と銀座の店にいました。店主の証言もあり、完璧なアリバイです」
「なるほど。アリバイがある、ということは……」
柊さんは満足げに頷くと、ポケットから先ほどロッカーで見つけた純銀の髪飾りを取り出した。
「——心置きなく、彼を使わせてもらおう」
「……え? ちょっと、何に使う気ですか。返してください、それは大切な証拠品で……」
私の制止など、最初から聞こえていないようだった。
指揮者の諸星が新しいコンサートマスターの今野に声を荒げていた。
「なんだ、その演奏は! 君はコンサートマスターなんだ、自覚を持て! そんなことなら手塚に代わってもらうぞ」
今野さんはもちろん、手塚と呼ばれた女性もバツが悪そうにしていた。
「皆さん、一度手を止めてください!」
ホールに、柊さんのよく通る声が響き渡った。団員たちの視線が、不快感とともに彼に集まる。
「またあの人か……」
「警察のコンサルタントだって?」
ざわつく楽団員たちを余所に、柊さんは舞台へ上がり、諸星さんのそばまで駆け寄って髪飾りを掲げた。
「指揮者の諸星さん。失礼してあなたのバッグを拝見したところ、これが出てきました。非常に豪華な、女性用の髪飾りだ」
ホールが、今朝の訃報の時以上の衝撃に包まれる。
「諸星さんのバッグから……?」
「それ、篠原さんがつけてたやつじゃ……」
「柊さん、何やってるんですか!」
私はステージの袖で頭を抱えた。諸星さんのバッグにはそんなもの入っていなかったはずだ。彼がさっきから握りしめていた「証拠品」を、あろうことか全員の前で捏造して見せたのだ。
柊さんは、凍りつく諸星さんに追い打ちをかけるように、さらに声を張り上げた。
「諸星さん。これは篠原さんへのプレゼントですか? あるいは、彼女から奪い返したものですか?」
「な……何を馬鹿な! それは私の物ではない! そもそも、私のバッグになど——」
諸星さんの弁明は、一人の女性の絶叫によって掻き消された。
「お前かッ!! 諸星ッ!!」
バイオリンを投げ出し、狂ったような形相で飛び出したのは、今野だった。
「久美を殺したのは……っ!」
今野は指揮台へ駆け上がると、自分より頭一つ大きい諸星さんの胸ぐらを掴み、そのまま無防備な顔面に拳を叩き込んだ。
「うわあああっ!」
諸星さんが派手に転倒し、譜面台がガシャガシャと音を立てて崩れる。今野は馬乗りになり、怒号を上げながら何度も拳を振り下ろした。
「ちょっと! 待ってください! やめなさい!」
私は咄嗟にステージへ走り、狂乱する今野の背後に回った。
「放して! 殺してやる!」
羽交い締めにし、彼女の体を諸星さんから引き剥がす。細身だが、逆上した人間の力は凄まじい。柔道で鍛えた筋力で、激しく抵抗する今野をなんとか抑え込んだ。
「今野さん、落ち着いて! 警察の前で暴行を重ねるつもりですか!」
騒然となる舞台。泣き叫ぶ団員や、右往左往するスタッフ。その混沌とした光景を、柊さんは客席の最前列で、まるで最高の喜劇を見ているかのように優雅に眺めていた。
「いい熱量だ。……ねえ、南さん。見てごらん」
彼は、私が必死に抑え込んでいる今野を指差した。
「……柊さん、笑ってないで手伝ってください! 私、今本気で彼女に指を噛まれそうなんですけど!」
「噛まれても勲章だと思って耐えるんだ。それより注目すべきは、諸星さんに殴りかかった時の彼女の顔だよ。あれは裏切られた女の顔だ」
「……柊さん、本当にいい加減にしてください! 私の腕、もう限界です!」
私は、暴れる今野さんの細い体を必死に抑え込みながら叫んだ。彼女の絶叫はもはや言葉にならず、ただ獣のような慟哭となってホールに響き渡っている。
柊さんは悠然とした足取りで舞台に上がり、床に転がった諸星さんのすぐ側で、ひょいと銀の髪飾りを指先で回してみせた。
「今野さん。落ち着いて。諸星さんは、犯人じゃない」
その氷のような冷たい声に、今野さんの動きがピタリと止まった。彼女は床に這いつくばったまま、乱れた髪の間から血走った瞳で柊さんを睨みつける。
「……何を、言ってるの。あんたが、あいつのバッグから……っ!」
「嘘だよ。僕の得意技だ」
柊さんは悪びれる様子もなく、私の手から髪飾りをひったくるように奪い返した。
「諸星さんには完璧なアリバイがある。そんな彼に濡れ衣を着せれば、本当の持ち主が死に物狂いで怒るだろうと思ったんだ。……ねえ、今野さん。この純銀の細工、特注品だね。篠原さんの好みを完璧に把握した、世界に一つだけの贈り物だ」
今野さんの顔から、急速に色が失われていった。
「彼女を失った後の、あの魂が抜けたような音色。……それを聴いていれば、君が彼女に特別な感情を抱いていたことくらい、元詐欺師の僕には容易に想像がつく」
「……柊さん、それって」
私は抑えていた手を少し緩めた。今野さんはもう暴れる力も残っていないのか、ただその場に崩れ落ち、震える手で顔を覆った。
「君は彼女を愛していた。友情やライバル心なんて言葉では片付けられない、もっと深い場所で。……だからこそ、彼女が殺された時、その犯人が自分たちの愛の証である髪飾りを持っていたとしたら、絶対に許せないはずだ」
柊さんは屈み込み、今野さんの耳元で残酷なまでに優しく囁いた。
「この髪飾りを贈ったのは、君だね? 今野さん。……僕は、君から本当のことを聞きたかったんだ。誰よりも彼女の近くにいて、誰よりも彼女の秘密を知っていた、君からね」
「……う、……ああああ……っ!」
今野さんは、舞台の床に額をこすりつけるようにして、嗚咽を漏らした。
それは、失った恋人への、そして自分の想いが招いた悲劇への、血を吐くような悔恨の調べだった。
「……最悪なやり方です、柊さん」
私は立ち上がり、乱れた制服を整えながら、吐き捨てるように言った。
「でも、これで音は揃いましたね。……今野さん。あなたが知っていることを、すべて話してください」
柊さんは満足げに立ち上がり、再び無機質な「協力者」の顔に戻って、夜の闇が降りた客席へと視線を向けた。