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舞台裏の控室。
先ほどまでの狂乱が嘘のように、今野さんは椅子に深く沈み込み、力なく膝を見つめていた。赤く腫れた拳が、彼女が諸星さんに叩き込んだ怒りの激しさを物語っている。
「……久美とは、音大の頃からの付き合いでした。彼女はいつも眩しくて、私はその影にいるだけで幸せだった」
絞り出すような声で、今野さんは語り始めた。
髪飾りを贈ったこと、それが彼女たちの秘められた誓いだったこと。語られるのは、繊細で、けれどどこか危うい、純粋すぎる愛の形だった。
「最近の彼女の様子は? 何か変わったことはありませんでしたか」
私が尋ねると、今野さんは微かに顔を上げた。
「……具体的には何も。ただ、何かに困っているようには見えました。誰かとトラブルになっているのか、あるいは……。一度だけ、逃げなきゃいけないかもって漏らしたことがあったんです。でも、私が深く聞こうとすると、いつもの笑顔で誤魔化されてしまって」
結局、事件に直結するような具体的な名前や場所は出てこなかった。ただの漠然とした不安。私は手帳を閉じ、溜息をついた。
「……ありがとうございます、今野さん。念のため、持ち物の確認をさせてもらってもいいですか?」
形式的な手続きだ。彼女を疑っているわけではない。そう自分に言い聞かせながら、私は彼女のバイオリンケースの隣に置かれたトートバッグを開けた。
楽譜、化粧ポーチ、予備の弦。その奥に、異質な手触りのものがあった。
「……っ、これは」
私の指先が凍りついた。取り出したのは、ベージュの革製の財布。中にあった身分証から見て、篠原久美さんのものだ。そして、その表面には——どす黒い、乾いた血痕が付着していた。
「今野さん。これは、どういうことですか」
私が財布を掲げると、控室の空気が一瞬で剥製のように固まった。今野さんは目を見開き、信じられないものを見るような表情で硬直した。
「え……? なんで、それが私のバッグに……?」
「とぼけないでください! 現場から消えていた遺留品が、なぜあなたの荷物から出てくるんですか!」
私は反射的に立ち上がり、彼女を鋭く睨みつけた。
痴情のもつれ。裏切られた愛。彼女が諸星さんに激昂したのも、自分の罪を他人に擦り付けるための「演技」だったのではないか。そんな疑念が、私の正義感を黒く塗りつぶしていく。
「違います! 私は、私は久美を殺してなんていない! 誰かが、誰かが入れたんだわ!」
「今さらそんな言い訳が通ると——」
「落ち着きなよ、南さん。君の沸点は、相変わらず低いね」
壁に寄りかかり、爪をいじっていた柊さんが、退屈そうに口を挟んだ。彼は私が持っている財布を一瞥もせず、窓の外の闇を見つめている。
「柊さん! これを見てください、決定的証拠ですよ! 彼女には動機も、証拠もある。今すぐ署へ連行して——」
「証拠? ああ、そのあまりにも見え透いた罠のことかい?」
柊さんはゆっくりとこちらを向き、嘲笑うような笑みを浮かべた。
「南さん。君はさっき、今野さんの演奏を聴いて弓が震えていると言ったね。……愛する人を殺した人間が、その人の死を悼むコンサートであれほど純粋に、無様に音を外せると思うかい?」
「それは……動揺していたからでは?」
「違うね。あれは『喪失』の音だ。自分の手で壊した人間が出せる音じゃない。……そして何より、その財布だ」
柊さんは今野さんの前に屈み込み、彼女の震える肩を指先で軽く叩いた。
「今野さん。君、このバッグをリハーサルの間、どこに置いていた?」
「……舞台袖の、共有棚です……」
「だろうね。南さん。犯人は、僕が髪飾りを掲げたあの騒ぎの最中に、これを彼女のバッグに滑り込ませたのさ。僕たちが『今野が怪しい』と思い込むようにね」
私は絶句した。あの混乱の中で、そんな余裕があった人間がいたのか。確かに色んな人間が右往左往していたが。
「……じゃあ、柊さんは真犯人が誰かわかってるんですか?」
「わかっているとも。……このオーケストラの中で、たった一人だけ、最初から最後まで音程を外さなかった人間がいる。……自分の罪を、完璧なアンサンブルの中に隠し通せると信じている、愚かな奏者がね」
柊さんの瞳に、獲物を追い詰める捕食者のような鋭い光が宿った。彼は私の手から血塗られた財布をひょいと奪い取ると、それを放り投げるように机に戻した。
「さあ、南さん。最後のカーテンコールを始めようか」