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行って帰ってくるまでが〈任務〉である。
しかし王女を無事オルドレイ国に送り届けたグレンシス達騎士団とティアの足取りは、とてものんびりとしていた。
小まめに休息を挟み、日暮れと共に宿や要塞を借りて休む。
(……いいのかな?)
ゴトゴトと揺れる馬車の中で、ティアは困惑していた。
困り果てて、途方に暮れていた。幸せすぎて──
王都を出立した時は、まだ初夏の季節だったけれど、一ヶ月も経てば日差しは強くなる。
青く澄んだ空には、真っ白な入道雲がヤカンの口から溢れた湯気のように沸いている。
視線を下にすれば、まばゆい陽光が、街道に等間隔で植えられたポプラの木の葉に反射して、キラキラと輝いている。
本格的な夏の到来。もう、めっきり夏である。
「……暑い」
ティアは、汗ばんだ身体を冷ますように、パダパタと胸元を仰いだ。
けれど、むっとする車内の中でそんなことをしても意味はない。
逆に、無駄に動いたせいで、ティアは更に汗ばむ羽目になった。ポタリと額から汗が滴る。
少し悩んで、ティアは窓に手を伸ばした。
関所出借りた馬車の窓は、立て付けが悪くて、なかなか開いてくれないし、カーテンもない。
窓と格闘する自分の無様な姿を、ティアは騎士達に見られたくないが、この暑さには勝てなかった。
うんうんと唸りながら、窓の取っ手に力を込める。しばらく格闘して、どうにか半分ほど開けることに成功した。
途端に、木々の葉の爽やかな匂いと、ほのかに甘い花の香りが車内を満たす。
馬車が軽快に走っているおかげで、心地よい風が車内に入り、ティアの額に浮いた汗をあっという間に乾かしてくれた。
「……ふぅ」
額に、うなじに、そして胸元に爽やかな風を感じて、ティアはそのまま、窓枠に顎を乗せて息を吐く。
心地よさからくるものが半分。残りは、それ以外の気持ちから。
アジェーリアを隣国オルドレイに送り届けるためのこの旅は、往復で一か月半を予定していた。配分は、往路が一か月で、復路が半月。
往路は何だかんだあって短く感じたけれど、復路の半月はとても長く感じてしまう。
嫌なことや、辛い時間は時間の経過を遅く感じるものだが、今のティアは何一つ苦痛はない。ただ困っているだけ。
──カクン……!
馬車が小さく跳ねて、ティアは慌てて身を起こした。
車輪が小石を踏んでしまったようだ。たったそれだけでも、車内ではびっくりするほどの衝撃となる。
でもそれは、仕方がない。この馬車は丈夫さだけが取り柄で、乗り心地の良さまで考慮していない、戦のためのものだから。
けれどそれを補うかのように、座席には素朴な柄のパッチワークで作られたクッションが2つと、肌触りの良いアイボリー色の膝掛けが隅に置かれている。
これらは帰路についてすぐに、グレンシスから与えられたもの。どこかの村で手に入れたそうだ。
世話を焼かれることに慣れていないティアにとって、グレンシスの優しさは天変地異の前触れでしかない。
クッションの一つを抱えたティアは、そのまま、身体を横に倒す。すぐさま、ぱふんっともう一つのクッションがティアを受け止める。
柔らかく、ひんやりとする感触を頬に感じでティアは、ほぅっと息を漏らした。
熱気がこもる車内でも、こんなふうに不快感なく肌触りが良いと思えるのは、きっとグレンシスが上質なものを選んでくれたから。
(私なんかのために……)
ここ最近のグレンシスの行動を思い出して、ティアは、抱えていたクッションに力を入れる。
ぎゅーっとしすぎて、クッションは歪な形になってしまったけれど、ティアの気持ちのほうがそれより、ひっちゃかめっちゃかだ。
なにせグレンシスは、もうティアを無視したりせず、嫌な顔もしないし、話しかけるなというオーラも出さない。
それどころか、率先して世話を焼こうとするし、微笑みさえ向けてくる。
「……嬉しいって思っていいのかなぁ。でも……」
与えられる優しさを甘受してばかりではいけない。きちんと弁えないと……後で、自分が辛くなる。
ティアは、更にクッションを抱え込む腕に力を込めた。
物言わぬクッションは、ティアの腕の中で大人しくしているけれど、あまり嬉しそうではない。
同じくティアも、嬉しさを素直に出せなくて、しかめっ面をしている。
このグレンシスの奇怪な行動は、いわば、神様が気まぐれによこしたご馳走のようなもの。
けれども出された料理を完食したあげく、皿まで舐めるような、はしたない真似などできようか。
きっとグレンシスは、機嫌がいいだけなのだ。
無事に任務を遂行することができ、3年前の出来事にも終止符を打てたから。
胸のつかえが取れたグレンシスが、自分に優しくしてくれるのは旅の間だけ。王都に戻れば、全部おしまいなのだ。
エリート騎士の彼は、この任務が終われば、また新しい任務を与えられる。そうすれば、もう会うことなんてない。
だから自分も、いつでも日常に戻れるように、そろそろ身体も心も慣らさないといけない。
……なのに、なのに、だ。グレンシスは、優しさの大盤振る舞いをする。
その優しさが、どれだけえげつないものか、きっと本人は気付いていないのだろう。
「……まったく、イケメンなんてクソ喰らえだ」
グレンシスが聞いたら絶句しそうな暴言を吐いて、ティアはぎゅっと目を瞑った。
カタカタと馬車が小刻みに揺れる。すっかり慣れてしまったそれは、ティアにとって子守唄のようなもの。
窓を開けたせいで、車内はとても快適で、やることがない。
そんなわけで、ティアは馬車の揺れに合わせて、うつらうつらし始め──そのままゆっくりと瞼が落ちてしまった。
「ティア、起きろ。休憩するぞ」
「……ん……っ……!!」
うたた寝をしていたティアは、グレンシスの声で目を覚ます。
ティアの居眠りにすっかり慣れたグレンシスは呆れ顔にならないが、寝起きにイケメンのアップをおみまいされたティアはギョッとする。
ビンタよりも強烈な目覚めに、毎度あたふたしてしまうのだ。
今更遅いとわかりつつ、手櫛で髪を整えたり、スカートの皺を無駄に音を立てて払ってしまうティアを見て、グレンシスは柔らかく目を細める。
目に映る少女が愛しくて愛しくてたまらないといった感じで──ティアの口の端に付いている涎すら、指先で拭いそうなほどだった。