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そして合宿が終わり
改めて最初にあったことを考えてみる。
「冗談だよ」と笑ったあの顔。
でも、その後に繋いだ手の、あの熱。
考えれば考えるほど、頭の中がぐちゃぐちゃになって、ボトルのキャップを閉める手がおろそかになる。
「……前原。水、溢れてる」
「えっ!? ……わ、わああ! ごめん聖臣くん!」
不意に横から降ってきた低い声に肩を跳ねさせると、そこにはマスク越しでも分かるほど冷ややかな目をした、佐久早聖臣くんが立っていた。
彼は潔癖症らしく、私の手元から飛び散った水滴を避けるように一歩下がる。
「……お前、さっきから動きが緩慢。効率が悪いし、おまけに不潔だ。……何があった」
「な、なんでもないよ! ちょっと寝不足なだけ!」
「嘘だな。……お前が挙動不審な時は、大抵あいつが絡んでる」
聖臣くんが、コートの端でレシーブ練習をしている人物へ視線を向けた。
そこには、いつも通りの軽やかなフットワークでボールを拾う古森元也先輩の姿。……のはずだった。
「……元也。今の、上げられただろ」
聖臣くんの声に、古森先輩がビクッと肩を揺らす。
今のボールは、リベロの彼なら余裕で拾えたはずの、なんてことないチャンスボールだった。
「あはは……ごめん聖臣! ちょっと、足が滑っちゃって」
「……床の清掃は完璧だ。滑る理由がない。……お前、さっきから一分間に五回は前原の方を見てる。……気が散るなら帰れ」
「ぶっ……! ご、五回も見てないって!」
古森先輩はオーバーにのけぞって笑っているけれど、その耳の先が真っ赤に染まっているのを、私は見逃さなかった。
聖臣くんは、手に持っていたタオルでパタパタと自分のジャージを払いながら、私と先輩を交互に見比べる。
「……隠せていると思っているのは、お前ら二人だけだ。……元也、次は外すなよ。練習の邪魔だ」
「……分かってるよ。厳しいな、聖臣は」
聖臣くんは呆れたように溜息をつき、一瞥もくれずにコートの中央へ戻っていった。
残された私と古森先輩の間に、重苦しくて、でもどこか甘い沈黙が流れる。
「……あーあ。聖臣には敵わないな。あいつ、バレー以外のことでも察しが良すぎるんだもん」
古森先輩が困ったように眉を下げて、とぼとぼと私の隣に歩み寄ってきた。
他の部員たちからは見えない角度。彼はドリンクのボトルを受け取るフリをして、私の指先に、ほんの一瞬だけ自分の指を重ねた。
「……鈴奈ちゃん。……昨日のこと、ずっと考えてた?」
「……それは、はい。……先輩こそ、練習に身が入ってないって怒られてましたけど」
「……だって、しょうがないじゃん。……あんなこと言った後に、普通にしてろっていう方が無理だよ」
先輩は前を向いたまま、ボトルのキャップをいじりながら、誰にも聞こえないような小さな声で囁いた。
「……今日の部活後、校門で待ってて。……昨日言えなかったこと、ちゃんと、逃げないで話したいから」
それは、もう「冗談」という逃げ道を作らない、本気の眼差しだった。
体育館の喧騒の中で、その言葉だけが私の鼓膜に直接響いて、昨日の熱がまた一気に全身へと広がっていく。
「……絶対、来てよ? 鈴奈ちゃん。……リベロは、見逃すのが一番嫌いなんだから」
そう言い残して、彼は弾かれたようにコートへと戻っていった。
彼の背中を見つめながら、私は握りしめたタオルの感触を、ただじっと確かめていた。
部活終了を告げるホイッスルが、夕暮れの体育館に高く響き渡った。
いつもなら、この音を聞くと「今日も終わったぁ!」と大きく伸びをする古森先輩の明るい声が聞こえるはずなのに、今日に限っては、体育館の空気がどこか重く、しんと静まり返っているように感じられた。
(……心臓が、さっきからうるさい)
私はわざと忙しく立ち振る舞おうと、散らばったボールを一つずつ拾い集めては、カゴの中へと放り込んでいく。
けれど、視線の端には、キレのある動きでネットを片付ける古森先輩の背中が、嫌でも映り込んでしまう。
「……前原。……モップ、そこ置いといていいから。俺がやる」
背後からかけられた、いつもより少しだけ低いトーンの声。
私は肩を跳ねさせ、手に持っていたモップを危うく倒しそうになった。
振り返ると、そこには練習終わりの少し乱れた前髪を無造作にかき上げながら、私の隣に立つ古森先輩がいた。
「あ、……はい。ありがとうございます、先輩」
「……ねえ、鈴奈ちゃん」
先輩が、吸い寄せられるように一歩だけ私の方へ踏み込んでくる。
その距離は、部活の先輩と後輩にしては、ほんの少しだけ近すぎる。
体育館の大きな窓から差し込む、最後の一筋の夕光。それが、彼の端正な横顔を濃いオレンジ色に染め上げ、影を深く落としていた。
「……さっき、聖臣が変なこと言ってごめんね。あいつ、口悪いし、何でもストレートに言いすぎるから」
「……いえ。……でも、聖臣くんが言ってたこと……先輩が練習中、私のこと見てたって……本当、ですか?」
私が俯きながら、消え入りそうな声で尋ねると、先輩は一瞬だけ目を見開いた。
そして、困ったように眉を下げて、少し照れくさそうに自分の項(うなじ)をさする。
「……バレてたなら、もう隠さないよ。……見てたよ。ずっと。……鈴奈ちゃんが、他の部員と何を話してるか。……あいつらに、どんな顔して笑いかけてるか」
先輩の声が、いつもの軽やかさを失って、ずしりと重い熱を持って届く。
部室に向かう他の部員たちの足音や、遠くで聞こえるバッシュの摩擦音が、霧の向こう側のように遠ざかっていく。
広い体育館に残されたのは、私たち二人と、埃が舞う夕光の粒子だけ。
「……リベロってさ、ボールだけ見てればいいわけじゃないんだよ。……コート全体の空気とか、誰が今、不安そうにしてるかとか。……全部『拾う』ために、隅々まで観察するのが、もう職業病みたいに癖になっちゃってて」
先輩は、私の手元にあるモップの柄(え)を、上からそっと包み込むように握った。
私の震える指先と、彼の節くれだった、バレーボールを何万回と受けてきた大きな指が、わずかに触れ合う。
「……でも、君に関しては、もう『仕事』でも何でもない。……ただ、見ていたいだけなんだ。……君が流す汗も、一生懸命な顔も。……その全部を、他の誰でもない俺が、一番近くで拾い上げたいって……思っちゃうんだよね」
(ドクン、と胸の奥が跳ねる)
指先から伝わってくる彼の体温が、言葉以上の重みを持って、私の中に波のように押し寄せてくる。
先輩は、握っていたモップから手を離すと、私の耳元に顔を寄せた。
「……更衣室、混むから先に行って。……俺は、聖臣にまた捕まらないように、裏門から回って着替えてくるから」
「……はい」
「……校門の、あの街灯の下で。……待ってるから。絶対、来てよ?」
彼は、私の制服の袖を、名残惜しそうに指先で一度だけ「クイッ」と引いた。
それは、昨日の「冗談」を、今日この場所で本物の「本気」へと塗り替えるための、彼なりの、そして最後の手掛かりだった。
一人残された体育館。
オレンジ色の光がゆっくりと地平線に沈み、薄紫色の夜の帳が静かに忍び寄ってくる。
私は、彼の指が触れた場所を、もう片方の手でそっと押さえた。
そこには、今まで感じたことのないような、甘くて、少しだけ痛いほどの熱が、いつまでも、いつまでも消えずに残っていた。
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