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hotaru🌙
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「ラウール、一寸。」
主人の留守中、執事長を補佐して屋敷を取り仕切っていたラウールは、自分を呼んだ声の方角へ振り返る。
「執事長?…何か?」
「御館様が既に御帰還なさっているらしい。」
「?…三月しか経っておりませんが。臨時召集だった割には随分とお早いですね…。」
「やはり君もそう思うか…。」
予定よりも遥かに早い報せに、ラウールは静かに思考を巡らせる。無事の帰還であれば此れ以上の歓喜は無い。執事長も思う所が有る様子であったが、硬い表情の侭続けて説明をする。
「此度はラウールに迎えに来るようにと、先程本部より名指しで要請があってね。」
「私が御館様のお迎えに、ですか?」
「あぁ。以降の屋敷の務めは私が引き継ぐ。車の手配も済んでいるから、頼まれてくれるかい?」
「はい、勿論です。直ちに行って参ります。」
「宜しくね。」
背中に残る執事長の重い視線を感じ乍ら、ラウールは速やかに玄関へと歩を進めた。
運転手が控える門扉の前で車に乗り込み、エンジン音と共に軍本部へと向かう。
疾走する車窓の景色を眺め乍ら、ラウールは口元に手を宛て乍ら思考を重ねていく。
(…おかしい。やっぱり早過ぎる…。)
最悪の想像が脳裏を掠めては、首を振って打ち消す。自分を名指しで召集したという事実だけが、暗雲の如く拡がる不安の中での唯一の希望の様に感じられた。
ラウールは深く息を吐き出し、胸の動悸を抑え込むように両手を膝の上で強く握り締めた。どんな事態が待っていようとも、主の前では常に変わらぬ従者で居なければならない──そう己に言い聞かせ続けた。
軍本部の重厚な石造りの門前に足を踏み出したラウールは、門前の警備兵へと声を掛けた。
「目黒家執事のラウールと申します。先程召集を受け、参上致しました。」
警備兵はラウールの姿を確認すると、敬礼を交えて静かに頷いた。
「どうぞ、中へ。」
「…えっ?中へ、ですか?」
通常、主人の出迎えであれば車を横付けした玄関前で待機するのが筋であり、民間人が軍本部の内部へ足を踏み入れることは許されない。予期せぬ促しに、ラウールは密かに眉を顰めた。
「連絡を致しました者が、奥にて控えております故。」
「………はい。では、失礼致します。」
足を踏み入れた内部は、外の喧騒が嘘の様に静まり返っていた。ひんやりとした空気が肌を刺し、靴音だけが何処か遠くで響いている。薄暗く重々しい長廊下を進むと、壁際に立って居た一人の将校が、ラウールの接近に気付いて静かに敬礼をした。
「お待ち致しておりました。突然のお呼び出しで申し訳御座いません。目黒少佐のお付きの方で?」
「はい。専属執事のラウールと申します。」
「…御足労頂き有難う御座います。どうぞ、此方へ。」
案内される侭、足音を忍ばせて廊下の奥へと進む。途中で擦れ違う軍人達の視線が、何処か遠慮がちにラウールを掠めては去っていく。最初は混血である自分の容姿に対してかと思ったが、どうやらそうでは無いらしい…ラウールの胸のザワつきは増すばかりだった。
軈て、廊下の突き当たりにある重厚な木製の扉の前で将校が立ち止まり、静かにノックの音を立てた。
「目黒少佐、ラウール殿がいらっしゃいました。」
「…あぁ。入れ。」
「はっ、失礼致します。」
扉を開けて入室した室内。其処には、軍服姿で背筋を真っ直ぐに正し、一点を見つめて椅子に座って居る目黒の姿が在った。其の姿に何も異常は無さそうで、ラウールはほっと胸を撫で下ろす。
「御館様…、」
「早かったな。」
刹那、ラウールは真っ先に違和感を覚えた。入室した際、目黒とは必ず一度は自分と目を合わせる。しかし、向けられた其の視線は微妙に掠めていて、ラウールの少し脇の空間に向けられていた。寧ろ、目黒は尚も彼の位置を探る様に僅かに泳いでいる。
ラウールは息を呑む。主人の纏う空気から《まさか、》と察した。
「ラウール。此方へ。」
「…はい。」
動揺を押し殺し、呼ばれる侭に目黒の直ぐ隣へと進み出る。
目黒は静かな手付きで胸元の衣囊から真鍮の懐中時計を取り出した。
「早い段階で無事に届いた。礼を云う。」
「とんでもない事で御座います。御館様の御命令ですので。」
「一つ、尋ねたい。」
パチン、と慣れた手付きで其の蓋を開くと、
「──時刻は、合っているか?」
目黒は文字盤を見ようともせず、只、虚空を見つめた侭問われ、ラウールは目を見開いた。
「秒針の音や歯車が動いている事は判る。だが…確かに時を刻んでいるのか、其れだけが分からない。」
尚も合わない視線。其れでも変わらない、何処迄も淡々とした声音。
其れは──視力を失った男の静かな諦めと絶望の色が深く滲んだ、彼なりの状況説明だった。
「っ…!」
ラウールは咄嗟に眉を寄せ、必死に天井を仰いだ。震える唇を噛み締め、徐々に水分を含み始める目をぎゅっと力を込めて閉じる。
叫び出したい程の悲痛を喉の奥に押し込め、ラウールは息を整えた。
「………お預かり致します。」
震える指先で主人の掌から時計を受け取り、己の衣嚢から懐中時計を取り出す。視界が揺れて滲みそうになる事に耐え乍ら、二つの盤面を両手に並べて時刻を確認する。
主人の前で決して乱れを悟られぬよう、其の動きは何事も無かったかの様に正確で、静かだった。
「私の時計と、全く相違無い時刻で御座います。秒針の動きも、滞り無く。」
「そうか…良かった。」
ラウールの言葉に目黒が微かに浮かべたのは、安堵に満ちた、切ない微笑だった。
ラウールからの一報は、目黒邸に重い衝撃を齎した。
既に陽は西へと大きく傾き、屋敷全体が朱と群青の狭間に沈み始めていた頃。車を降りた目黒はラウールの差し出す肘に静かに手を置き、導かれるようにして屋敷へと足を踏み入れた。
「ラウール、自室まで頼む。」
「畏まりました。」
廊下を進む間、目黒は何も語らなかった。ラウールも又、掛けるべき言葉を見出せず、余計な言葉を挟む事無く静かに歩調を合わせる。
只、時折目黒の足取りが僅かに滞る度、何処に何が在るのかを短く告げた。
「…三歩先、大階段で御座います。」
「あぁ。」
「間もなく右手に曲がります。」
「分かった。」
嘗てならば、決して必要としなかった言葉。視線を向けさえすれば当たり前に其処にあった景色を、今は誰かの声だけを頼りに手繰り寄せなければならない。
軈て、自室の前へと辿り着く。ラウールが静かに扉を開けると、目黒は彼の腕から手を離し、一人でゆっくりと室内へと歩を進めた。
「…ラウール。」
「はい。」
「御苦労だった、もう此処で良い。」
「………恐れ乍ら、」
「用が有れば呼ぶ。定刻になれば戻れ。」
「…承知致しました。」
ラウールは背筋を伸ばし、深々と頭を下げる。
「では、暫く外に控えております。」
「…あぁ。」
重々しい木製の扉が、静かに閉じられる。カチャリとラッチの収まる音を聞き届け、目黒は其の場にぽつりと立ち尽くした。
静かだった。あまりにも、静まり返っていた。
以前ならば、窓から差し込む夕暮れの斜陽が部屋の何処を照らしているのか、一目で分かった。文机も、椅子も、寝台も。長年使い慣れた調度の位置等、目を閉じ渡っていても歩ける筈だった。
けれど、今は──。
目を開けていても、其の記憶すら疑う程に何も分からない。今が未だ夕暮れなのか、既に夜の闇に呑まれたのか。 目の前に広がる世界が何の様な色をしているのか、何一つ自らの瞳では確かめる事が出来ない。
目黒はゆっくりと手を前に伸ばす。歩数で探るように足を進めると、軈て指先が文机の固い縁に触れた。
(…此処、か。)
確かめるように低く呟き、机に沿う様にして椅子へと辿り、腰掛ける。
── カチ、カチ、カチ…
静まり返った室内に、胸元にある時計の規則正しい駆動音だけが小さく響き渡る。目黒は其れを取り出すと、吸い寄せられるように耳を澄ませた。
秒針は動いている。
歯車も変わらず、時を刻み続けている。
それなのに、どうしてだろう。胸の奥から言葉では到底形に出来ない熱い塊が込み上げてくる。
目黒は掌の中の時計を、痛い程に強く握り締めた。
「──康二。」
無意識の内に、其の名が唇を突いて零れた。
暗闇の脳裏に鮮明に浮かび上がるのは、向井の顔。少し困ったように眉を下げて笑う表情。店先で作業に没頭する真剣な横顔。
そして──召集を受ける前日。最後に見た、目に涙を浮かべ乍らも必死に笑おうとしていたあの顔。
《…幸せになりや?》
「………。」
目黒の薄い唇が、微かに震えた。
あの時、何故あのような顔をしていたのか。
何故、あれ程迄に胸が押し潰されそうに痛んだのか。
今なら解る。全て解るからこそ──。
あの表情が最後だと、誰が思っただろう。あの太陽の様な笑顔を今一度自分の目で焼き付け、最後の記憶を塗り替えたかった。
掠れた声が、誰もいない静寂の部屋へ落ちる。
「…もう一度、見たかった…。」
其の言葉を口にした瞬間、張り詰めていた心の糸が、音も無く切れた。
目黒は深く俯く。肌を濡らす熱い温度だけが、確かに感じられた。
「…っ、」
声を押し殺そうと、口元を強く結ぶ。
いつも通り、何事も無かったかのように。
誰にも弱み等見せる事無く、孤独に耐え抜いてきたように。
「…っ、く…。」
必死に堪えようとしても、咽び泣く声が漏れ出してしまう。握り締めた掌の中で、真鍮の時計が冷たくも確かに刻み続けていた。
変わらず、正確に。自分の絶望等置き去りにする様に、時だけが進んでいく。
「…康二…っ…」
其の声は、今迄誰にも聞かせた事の無い程、弱く、儚かった。
(お前の顔を…もう、見られないのか。)
返事など有る筈も無かった。
当然だ。此処には、自分以外誰も居ないのだから。
目黒は片手で顔を覆い隠し、もう一方の手で時計を胸元へ強く押し当てた。
そして、遂に押し殺していた感情を抑えきれなくなる。
「、ぅ…ぁ…!」
切々とした嗚咽が、静かな部屋にぽつり、ぽつりと落ちていく。感情を爆発させる事は無く、長年深く静かに閉じ込め続けてきた孤独と哀しみが、行き場を失って溢れ出し、崩壊していった。
扉一枚を隔てた、薄暗い廊下。其処で佇み控えていたラウールは、微かな気配にハッと顔を上げた。
「………。」
聞こえてしまった。微かではあるが、扉の向こうから漏れ聞こえる主人の声が。
ラウールはゆっくりと重厚な木枠の扉へ視線を向けた。 けれど、ドアノブに手をかける事はしなかった。足一歩すら踏み出さない。
先程、目黒自身が告げたのだ。《用が有れば呼ぶ。》と。
だから今は、主人が自分を呼ぶ其の時迄、此処で待ち続ける。其れだけが、今の自分に許された唯一の忠義だった。
ラウールは静かに深く目を伏せる。胸の奥が、ぎりぎりと締め付けられる様に痛んだ。
あれ程気高く、何一つ弱さを見せなかった主人が今、たった一人で暗闇の中で泣いている。
扉の向こうから、もう一度だけ、消え入りそうな声が漏れた。
『…康二…。』
ラウールは唇を固く噛み締め、誰の耳にも届かない程小さな声で呟いた。
「…御館様…。」
ラウールは只直立し、静かに扉の前へ立ち続ける。主人が再び自らの足で立ち上がり、自分を呼ぶ其の瞬間迄。
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まさかの───失明? 🖤…一時的なものと願う