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hotaru🌙
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ひやりとした風が街を吹き抜ける秋の夕刻。
下町の小さな時計店の前で、黒塗りの車が静かに停車した。
「…御館様。到着致しました。」
「あぁ。」
車の扉が開き、仕立ての良い洋装の上から黒い外套を纏った目黒が杖と共に足を下ろす。其の横には、痛む様な眼差しを向けながら、さりげなく肘を差し出して支えるラウールの姿があった。
「ラウールは此処で待て。」
「…ですが、御館様──」
「良い。…一人で行く。」
霞む視界の中、目黒は己の記憶、杖の先の感触…そして耳に届く微かな音だけを頼りに一歩を踏み出した。
扉が杖の先に当たる。探るように伸ばされた手で其のドアノブを引き開けると、チリン、といつもの小さな鈴の音が鳴った。
「いらっしゃーい!」
奥の作業場から聞こえた懐かしい声。鈴の音に振り返った向井は、入口に立つ男の姿を目にした瞬間、手にしたピンセットを落としそうになり乍ら息を呑んだ。
漆黒の外套、長い背、そして無事に帰ってきた姿に思わず駆け寄る。
「目黒さん…無事やったんや…!手紙無かったから心配し、た…」
弾む声で目の前に立ち、溢れ出る笑みを隠そうともしない向井。だが、喜びの波が一頻り去った直後、向井の胸に小さな違和感が芽生えた。
先ず、目黒が手にしている杖。しかし、先程の歩みからして脚を負傷している訳では無さそうだった。
次いで、扉の硝子越しから外へ目を遣ると、目が合うなり相変わらず丁寧に会釈をするラウールの姿。しかし、何故か店の中へ入って来ない。秋とはいえ寒風が吹き荒ぶ店先で、複雑な表情を浮かべ乍らじっと此方を見守る様子で控えている。
(ラウールさん…?…何で入って来んの…?)
胸を掠めた不穏な予感。向井はゆっくりと視線を目の前の目黒へと戻した。
「連絡も無く、済まなかった。心配を掛けたな。」
「……う ん…。」
目黒はいつも通り姿勢良く立っている。真っ直ぐに向井の方を向いている。 …只、合っているのは方角だけだった。
其の瞳は、何処か遠く、自分の少し右の空間をぼんやりと泳いでいる。
向井は試すように、目黒の目の前でそっと手を翳してみる。だが、彼の目は此方の動きを一切追わない。只、光と空気の揺らぎを感じ取った様に、僅かに耳を傾けただけだった。
「目黒さん…まさか、目…。」
声が、震える。目黒は静かに瞼を伏せ、懐の時計を探るようにして取り出すと、向井の方へと差し出した。
「戦地で負傷した。」
「…っ!?」
「此の時計の盤面も…もう、見る事が出来ないらしい。」
残酷な現実を告げる目黒の声は、悲しい程に静かだった。
向井は衝撃に目を見開き、差し出された彼の大きな掌と、其処に在る真鍮の時計を見つめた。
「…それでもっ、」
向井は其の手を、時計ごと両手でそっと包み込んだ。
「目黒さんは…生きて帰って来てくれた。こうやって、又うちに来てくれた…、其れだけで…俺は充分やねん…!」
微かに震える向井の声と手。目黒の掌には、向井の温もりと、手の中で今も規則正しく刻まれている力強い歯車の振動が静かに伝わってくる。
直ぐ其処で涙を堪える向井の気配と、二人の手を繋ぐ小さな時計の針音だけが、目黒の光か闇かだけの世界を優しく包み込んでいた。
「…お帰り、目黒さん。今、預かってた時計…持って来るな?」
「あぁ…頼む。」
《此方やで、》といつもの客席へと慎重に誘導されると、目黒は変わらない彼の優しさに何処か穏やかに口元を緩めた。
其の日の夜の事。自室にて着流しの着替えを手伝っていたラウールに、目黒は声を掛ける。
「ラウール。此の後、少し時間を作れるか。」
「はい、勿論で御座います。」
「庭園に行きたい。」
「畏まりました。参りましょう。」
目黒はそっとラウールの差し出す肘に手を重ねた。開け放たれた渡り廊下から吹き込む冷ややかな秋の夜気が、目黒の外套の裾を静かに揺らす。
灯籠の淡い明かりを背に静寂に包まれた庭園へと足を踏み出すと、足下に敷き詰められた砂利がシャリ、シャリと規則正しい音を立てた。
「…今宵の空は如何だ。」
「雲一つ無く、星々が綺麗に見えております。月も澄んでいて、足下を明るく照らしてくれております。」
「そうか。道理で少し視界が明るい。」
目黒は見えない双眸を遠い空へと向け、静かに息を吐き出した。
視力を失った彼の世界にも、満ちた月明かりだけは白霞の様に届いているらしい。其の微かな感覚に安らぎを覚える主人の横顔を、ラウールは心を痛ませ乍ら見つめた。
少しの間、夜風に揺れる竹林の擦れ音と草木のざわめきだけが二人を包み込む。
「ラウール。」
「はい。」
「お前が屋敷に来てもう二十年程になるか。」
「左様で御座います。…随分と長い時が経ちました。」
「…お前は今迄、夢は持った事は有るか?」
不意の問い掛けに、ラウールは歩みを止めず、そっと目黒の歩調に合わせ乍ら首を傾げた。
「…夢、で御座いますか?」
「当時のお前は未だ子供盛りだっただろう。」
幼い頃、母の手を離れて此の目黒家に引き取られた日の事。目黒はふと、孤独だった小さな少年の背中を思い出していた。
「…正直に申し上げますと、当時の事はあまり記憶が。…只、」
「只?」
「今は、何時かは一度訪れて、経験してみたいと思う事は御座います。」
「其処は遠方か?」
「遠方では御座いませんが、…秘密です。」
ラウールは少しだけ肩を竦め、悪戯っぽくくすりと笑った。
「、…そうか。」
静かに頷く目黒の横顔を見つめ、ラウールがふと疑問を口にする。
「ところで、何故庭園に?」
「お前に、協力して欲しい事が有ってな。」
「…何でしょう…?」
「もし、お前が良ければなのだが──」
目黒は不意に歩みを止める。紡がれた言葉に、軈てラウールはふっと笑んだ。
翌朝の執務室。此の日は、祝言の前日だった。
重厚なオーク材の扉の向こうには、肌を刺す程の張り詰めた空気が満ちていた。
長机の中央には、洋装姿で背筋を伸ばした目黒。其の瞳は真っ直ぐに前を向いているが、室内を優しく満たす朝光だけをぼんやりと映している。
其の直ぐ隣には同様に背筋を正すラウールの姿。
「御館様、皆様お揃いです。」
長机の前に有るソファにはどこか誇らしげで厳格な雰囲気を纏った母。向かいには、硬い表情を浮かべて座る亮平と、少し距離を開けて膝の上で手を握り締め、顔を伏せている朔乃の姿。そして、扉の傍には執事長が厳かに立っていた。
「──此度の婚約は破棄する。」
低く重い声が、執務室の静寂を切り裂いた。
早々に結論を発した目黒の言葉に、時間が止まったかのように、誰も言葉を発することが出来なかった。朔乃は驚愕の様子で、ゆっくりと顔を上げる。亮平は目黒の顔を見つめた侭、喉を鳴らして言葉を失っている。
目黒は二人を襲う大きな動揺を意に介さず、前だけを見つめて淡々と続けた。
「家督も亮平に譲渡する。」
「に、兄様…っ?何を、」
亮平が弾かれた様にソファーから身を乗り出し、ガタリと机を揺らした。其の声は酷く掠れ、狼狽に満ちている。
母の誇らし気で優雅だった雰囲気は一瞬で霧散し、絹の和服が激しく擦れる音と共に顔を強張らせた。
「何を…云っているのです、蓮?」
「言葉通りだ。…私は目黒家当主の座を退く。」
「馬鹿なことを…!」
初めて母の声に隠しきれない動揺と怒りが滲んだ。
「貴方は長男でしょう!先代から家督を継いで、朔乃さんとの結納まで終えて、何を勝手な──」
「勝手なのは重々承知している。」
目黒は抑揚のない声で、静かに母の言葉を遮った。
「だが、此れ以上続ける意味が無い。」
「意味が無いですって!?」
「先ず、私は此の婚姻を望んでいない。」
朔乃の華奢な肩の影が、僅かに震えた。目黒は初めて、彼女の気配が在る方向へと顔を向けた。視界は濃い霧に包まれていたが、其の瞳には蔑みも責めるような色も無く、何処迄も澄んだ光を宿していた。
「朔乃嬢には、亮平の方が相応しい。」
「蓮様っ!?」
目黒の低く落ち着いた声が、室内に流れる嫌な緊張感を遮る。
「お前達が互いを深く想っているなら、其れを無理に引き裂くつもりは無い。」
「…兄様、」
「亮平。」
目黒は弟の声がする方を見つめる。
「お前が家督を継ぎ、朔乃嬢との祝言を挙げろ。」
「僕には…兄様を追い出すような真似は、」
「此の侭では私がお前から朔乃嬢を奪う事になる。…お前達は其れで良いのか?」
迷いの無い力強い声で遮られ、亮平も朔乃も言葉を詰まらせた。
「其れに、当主としても…お前の方が向いている。お前は人の言葉を聞き、深く考え、己の判断で正しい道を選べる。当主に必要なのは、父上の教えの様な冷酷な態度ではない。」
兄からの思いがけない全幅の信頼と言葉に、亮平は喉から息が漏らし、強く唇を噛み締めた。
「…兄様は此の先、如何するおつもりですか。」
亮平の問い掛けに目黒は暫し黙ると、僅かに顔を窓の外──温かな朝光が届く方角へと向けた。
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このお話大好きでいつも楽しみにしてます☻蓮さんと康二くんが結ばれると良いなぁ… 続き楽しみにしてます
🖤様、素敵です✨ それは格好良すぎます✨ 次回が気になって仕方がないよ〜😆♪