テラーノベル
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あの耽美な果実のような男とは一夜限りの関係で、きっと互いにその既視感の正体に気が付いていたから、二度と再会することはない。そう、俺は思い込んでいた。それなのに、なぜか今目の前に、その記憶の中の男が存在している。
「……何か」
「いえ、失礼しました」
あれから数週間が経った頃、男は再び俺の前に現れた。薄暗いカウンター越しにその姿をじっと見つめて驚いている俺とは対照に、男は凪いだ水面のように落ち着いている。カウンターチェアに腰掛けて視線をふわりと漂わせる男を、俺は不自然なほどにじっと見つめてしまった。
俺がここのバーテンダーだと気付いていなかったのかと一瞬疑ってみたものの、男の表情には俺と顔を合わせた今も一切動揺の色が見られず、分かった上で再び店を訪れたのだと確信した。でも、一体なんで。あぁ、普通に酒を飲みに来たのか。それだったら他の店でも良かったんじゃないか?
思考の中に疑問が渦を巻く。先日とは違い、スタイリング剤で前髪がかき上げられているおかげで男の鋭い眼光が顕になっている様を見て、記憶と重なることのない男の姿に何か不思議な感覚を抱いた。
数週間前の色褪せた記憶が危うくリフレインしそうになり、それを理性は必死に止めた。本人を前にして流石にそれは、色々と良くないだろう。
「最初は何になさいますか?」
「アレクサンダーで」
「かしこまりました」
お決まりの問いかけの回答として、どこかやつれたような退廃的な声色から出てきたカクテルは、意外にも甘口のものだった。こんな職業であるし、多少のポーカーフェイスは身についているから顔には出さなかったものの内心驚きはした。
アレクサンダーはカカオの風味を持った甘めのリキュールとブランデー、生クリームを使って作る。女性のお客様がデザート感覚で注文されることが多いが故、なんとなく意表を突かれたような感覚がしたのだ。
バーでの注文には、様々な理由が隠れていたりする。思い出の味であれば、想い人が気に入っている酒であることも。はたまた、それは自分を労る褒美であったり、逆に自ら付ける枷であったり。
ただ単に甘いものが好きなのか、それとも何か思い入れがあるのか。この男はどちらなのだろうかと、想像をしながら俺はシェイカーを振った。
幸か不幸かカウンター席にはその男しかおらず、俺は職務の内として話しかけた。
「最近は雨の日が多いですね」
「……そうですね」
「よくお酒を飲みに来られるんですか?」
滞りながら進む会話の中、空間に浮かない程度の明るい声色でそう問いかけると、男は軽く頷いて口を開いた。そこから出てきた言葉は重たげで、煙を吐き出すように男は言った。
「……忘れたいことが、多すぎて」
その表情には、憐れむような切ない笑みが灯っていた。そんな男の表情が引き金になったように、数週間前の記憶が再び俺の脳裏に蘇った。そして、思い出した。
そうだ、あの時。雨に打たれながら路地裏に座り込んでいたあの時も、こんな顔をしていた。自身を苛むような、呆れたような、柔らかく儚く、脆い微笑みを。
カウンターに肘をついて頬杖を付いている男にカクテルグラスを差し出すと、虚空を見つめていた視線がグラスではなくこちらを向いて、突然のことに俺は思わず息を呑だ。やっぱり、綺麗な瞳だ。
「お待たせました、アレクサンダーでございます」
「……ありがとうございます」
男らしく関節が感じられる手が、カクテルグラスに触れていく。そんな些細なことさえ様になっている姿をそっと見た後、俺はカウンター内で簡易的な片付けをした。
以前よりも肌色が悪く見えるのは、気のせいだろうか。以前と言っても、会うのはまだこれが三回目だけれど。男のことを考えていたら先程向けられたばかりの瞳を思い出してしまい、変な方向に思考が傾かないように気をつけながら俺は考えに耽った。
男の瞳が、熱が奥底で燻っているような危険な色をしているように見えてしまったのだ。あの男がただの客で、彼が同性愛者だと分かっていただけなら、こんなの勘違いで済ませた。けれどあの日、どちらからともなく互いに身を委ねて、夜を共にしてしまったがため、俺はそう疑うことしかできずにいる。
男のグラスが空になっていることに気が付き、その声に変に色が乗ってしまわないように努めながら、俺は再び声をかけた。しかし、そんな俺の努力を無にするように、雨に打たれたアスファルトような瞳で男は答えた。その瞬間に、記憶と重なった。男は今、あの夜と同じ瞳をしている。
「お次は、いかがいたしましょう」
「……スクリュー・ドライバーを」
え、……誘われてる???
一瞬、唖然としたように動きを完全に止めた思考を引きずるようにして必死に回らせながら、俺は材料を取りに男へ背を向けた。氷を入れたタンブラーグラスにゆっくりとウォッカを注ぎながら、背中に突き刺さる男の視線に気が付かないふりをする。
バーテンダーとして活かせるだろうと思った俺は、カクテル言葉というものを一通り頭に入れている。花についた言葉と同様、それぞれのカクテルに意味をもたせる言葉である。俺の記憶が間違っていなければスクリュー・ドライバーは「あなたに夢中」だったはず。こういった意味を持つカクテルは夜の誘いに使われることも多く、このスクリュー・ドライバーも例外ではないのだけれど。まさか、本気で言ってるのか。別に嫌というわけではないけれど、その誘いはどこか現実味がなく夢現としていた。
オレンジジュースを加え数回混ぜ合わせたたグラスを男の前に差し出すと、まるでキスをするかのように顔を寄せられて、反射で退いてしまいそうになった。囁くように呟かれた声はどこか寂しそうで、その言葉によってこのカクテルが確実にそれを意味しているのだと理解した。
「だめ?」
「……今は、仕事中なので」
「じゃあ待ってる」
肯定とも否定とも取れる曖昧な言葉で答えると、男は表情を変えずに頷いた。数人の話し声と、天井から流れるサックスの音色が薄暗い店の中で木霊している。そんな空間の中で、男はグラスを持ち上げて店の微かな照明に液体を透かすようにしてそれを眺めていた。口付けたグラスから黄色く不透明な液体が男の口内へと流れ込んでいく。どこか艶っぽいその様子から目を逸らして、俺はグラスを磨いた。
相手に困ることがなさそうなこの男が、なぜわざわざ俺を求めてくるのか分からない。身体の相性が良かったのか、それともただの気まぐれか。俺は特段優れた容姿をしているわけでもないから、好みだというわけではないのだろうけど。
いつか飽きがきたら、静かに終わっていくのだろう。これ以上踏み入ってしまえばきっと、この男を探す手がかりもないまま、ひとり取り残されるだけ。
◇
冷めた夜風が肌を撫でる。身体を透き通るように駆けてきた方向へなんとなく顔を向けると、そこには一つの人影があった。待たせてしまった申し訳なさと、これからするであろう行為に咲き出した熱が体内で渦巻く。店の外壁に背中を預けて無機質な街灯に照らされながらアスファルトをじっと見つめている長身のその男は、他でもない彼だ。
「……本当に待ってたんですね」
「なに。嫌だった?」
「いえ、お待たせしました」
鋭いのにどこか繊細な彼の瞳はいつも空虚な色をしていて、不安定に揺れる蝋燭の炎のように心許なく感じる。何か言いたげなその視線をかいくぐるように足を進めると、静まり返った夜空には月が燦然と輝いていた。俺と彼の行方を監視するように、その視線は延々と空から降り注ぐ。
満月ではなかったものの、綺麗な月だった。けれど、それを伝えるにはまだ早く、俺達の関係は青く未熟過ぎた。
絶妙な距離で俺の後を歩く男に声をかけることもなく、俺は自宅へと足を進めた。本当ならその隣を歩いて、聞きたいことが山程ある。けれど世間の目というものは恐ろしい凶器のようなもので、危ないことはしたくなかった。社会で生きていくためにはそうするしかないと、溜め息混じりに昔の恋人は言っていた。男を好きになることは罪で、世間から与えられる視線こそがその罰だ、とも。
心が重たい。抱えた感情に名前はなく、正体が確かなものといえば、何に向けたわけでもない物寂しさだけだった。
◇
部屋に着き玄関へ上がると、男はすぐにキスを求めてきた。拒む理由も特になく、熱を交わすように唇を重ねるとアルコールの香りが仄かに漂った。抱き寄せるように背中に腕を回すと僅かに膨らんだそこ同士が触れ合って、欲は徐々に高まっていった。誘うような腰の動きに煽られるがままに舌を絡めて口内を貪ると、言葉にならない声が男の濡れた唇から漏れ出してくる。
数分間そのまま熱に浮かされたように深いキスを繰り返していると、背中に回されていた手で合図をされ理解よりも先に唇を離すと、男は俺の肩に顔を埋めるようにして静かに呼吸を整え始めた。苦しかったのかと申し訳なく思いながら優しく背中をさすると、男はそのままの体制でこう言った。
「……そろそろ、っしたい、んだけど」
「いいよ、こっちおいで」
あたたかな男の手を引いて寝室まで歩いていく。もうここなら誰にも見られる心配はないのに、なぜか指を絡ませることはできなかった。たぶん、恋人じゃないから。靄がかかったような煙たい感情が曇天の空のように心を覆っていく。しかし、男をベッドへとやさしく押し倒すとそれらは一気に消えて行き、目の前の男に釘付けになっているという事実に気付かされた。ベッドサイドの棚からゴムとローションを取り出すと、男はなぜか安心したような微笑を浮かべて、小さな言葉をこぼした。そんな彼に俺はというと、その笑みの理由が分からず困惑したまま、取り敢えずいつものように微笑み返した。
「ゴム、買ったんだ」
「え?あぁ、もう前回ので最後だったから」
「俺のため?」
「……え?」
「恋人いないって言ってたのに、買ってるから。俺とまたしてくれるつもりだったのかな、って」
「言われてみれば、そうだね」
照れ隠しなんてことではなく、本当に、今こうして指摘されるまで意識していなかった。そうだよ、無くなったからと言ってすぐに買う必要なんてなかったのに。自分で捉えていたはずの自身の輪郭が途端に曖昧になっていく。水平線に溶けた月が波に映るように、知っているはずのその姿が分からなくなってしまうような不安に心がざわついた。俺はこの男のことを、知らない間に求めていたのか?
一向に纏まらない思考は一度放っておくことにして、俺は彼のシャツのボタンを丁寧に外していった。浮かせた腰からボトムスと下着を抜き取って、反応しているそれを弄りながら露わになった胸の突起を口に含むと、男は耐えかねたように熱い息を吐き出した。やっぱり、ここも感じるんだ。売り専をしていると聞いたときからそうなんだろうとは勘付いていたけれど、いざ胸で感じている姿を目の前にすると、どこか普段の行為とは違った煽られ方をされる。甘噛みをするように刺激を与えると上擦ったような弱々しい男の声が聞こえて、その優越感に俺は思わず笑みをこぼした。
マットレスの軋む音が聴覚を刺激して、そのまま目線を落とすと男は本能に呑まれたように腰を揺らして快楽に溺れていた。そんな姿に誘われるように後孔へと指を沈めると、前回と同様に十分な程やわらかくなっていた。欲を受け入れる側としては慣れたことなのかもしれないけれど、わざわざ準備してきてくれたことがなぜか特別なことのように思えて俺は男の髪をそっと撫でた。そして、心地よさそうに目を細めた男を見て、なぜか胸が詰まるような感覚が差した。
「準備、してきてくれたんだ」
「じゃないと、っできない、だろ」
「そうだけどさ、ありがとね」
互いの傷を舐め合うようなキスを繰り返しながらそう言葉を吐くと、突然男は猫のように目を丸くして驚いた。え、なに、俺なんか変なこと言っちゃった?
動揺を胸に秘めてとりあえずのポーカーフェイスでやり過ごしていると、再び仄暗いようないつもの表情を取り戻した男が口を開き、溜め息を吐くように言った。
「想像以上に罪な奴だな」
「え?なに、罪??」
「……なんでもない」
拗ねたような、または呆れたような表情を浮かべて俺から目を逸らした男の瞳はなぜか震えていた。行為が怖い、なんてことではないのだろうけど。それは何かを恐れて、怯えているように見えた。
答え合わせの代わりに瞼を閉じさせて体温を確かめるように口付けを交わすと、次に合った男の瞳はいつも通りに腰を据えていた。大丈夫だよ。何が怖いのかも、何に怯えているのかもわからないけど、今のこの瞬間なら俺は必ずここにいるから。
深まった夜に互いに身を投げるように俺達は再び繋がりあった。なにも知らないことへの安心と不安が同時に姿を現して、湿った空気に混ざり溶けていく。暗闇を照らす月明かりから身を隠すように、密やかに熱を求め合う。
ふと、抱えた感情の名前に気が付いてしまったのは、今宵のことだった。
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