テラーノベル
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自分が普通の人間でないと察するのに、あまり時間はかからなかった。そして歳を重ねるごとに無情な現実を知った。世間からの好奇の目、馬鹿にしたような言葉の数々、存在自体を不可視化される同胞の人々。嘘で塗りたくって生きてきた俺の人生は、価値のないゴミ同然だった。
閉店後の店内は薄暗く、窓の外へそっと目をやると月は夜を迎えに来ていた。今日は誰の相手をするのだろう。床に残った髪の毛を箒で片付けていると、ふと一人の男の姿が脳裏に蘇った。
さらりとした焦げ茶の髪に、優しい光を灯した瞳。綺麗な指先で俺の頭を撫でるその男の名前を、俺は知らない。もう何度も逢瀬を重ねて熱を交わしているというのにだ。知っていることといえば、住所と職業くらい。
俺は時折、気まぐれに彼の勤めているバーに出向いては、決まった酒の名を告げる。今やそれが、俺達の誘いの合図となった。とはいえ、俺からしか誘うことはないんだけれど。身体の関係でしかない男は溢れるほどいて、こういった経験も決して初めてではないのに、いつからか俺は、この男を求めるようになってしまった。
ウリセンを始めたのは数年前のことで、物陰に身を隠すように入り込んだ発展場で「金がない」とこぼした際に、その時相手をしていた男に勧められたのがきっかけだった。セックスは好きだし一夜の相手を探す手間も省けるし、同時に金も手に入る。俺にとっては好都合なことでしか無かった。電話で呼ばれて身体を重ねて、おしまい。それで十分に満たされていたはずなのに、あの男と出会ってから、物足りなさを感じるようになってしまったのだ。
「んー、テルくん。今日はあんまりだった?」
「え、なんで、ですか」
「なんとなく。あ、別に不満とかではないんだけど、なんかあったのかなーって感じだったから」
勘が鋭い人には、こうしてすぐバレる。その度に俺は曖昧な微笑みを浮かべて、話題を逸らすようにキスをして相手の唇を塞ぐ。そうすれば基本的に相手は皆、流されてくれる。それは優しさとかそういうことではなく、ここはそういう世界で俺達はそういう関係性というだけだ。相手に深入りはしないし依存もしない。聞かされている連絡先はいつか突然に繋がらなくなるだろうし、互いに呼び合う名前だって偽りのものだろう。それを分かっていながら俺達は、馬鹿になって欲をぶつけ合う。
共犯者のような彼らと別れるとき、次に会う約束は決してしない。そんな些細なことに物寂しさを感じながら、夜明けとともに俺達は他人へ戻っていく。それが普通だと分かっている。それに、彼をこんなタブーな世界に巻き込んで彼の人生を壊すわけにはいかない。苦しみも面倒も諦めも全部知っていて、そう分かっているはずなのに。ふと目線を上げた先にいたのは、鏡に映ったどうしようもない俺の姿だった。鏡を拭いていた手を力なく下ろす。
……会いたい。そう思ってしまえば最後で、それを止める術もなく感情が吹きこぼれはじめるだけだ。あの日、雨の中あの男に手を伸ばしていなければ。そんな後悔と苦しみが胸の中で黒く渦を巻く。
店の照明を消してジャケットを片手に外へと出ると、秋の色を含んだ風が街路樹を揺らしていた。四方八方に伸びた枝が自由に見えて、ぼんやりと羨ましくなる。自分の意志でそこへ向かっているはずなのに、なぜだか足取りは重たかった。自宅への帰路から少し逸れたその道を進む足は、彼のバーへと向かっていた。
◇
カウンター席の左から四番目。特にこだわりや理由はないけれど、俺の中ではそこがいつもの定位置となっていた。いつもならすぐに目が合うはずの彼が一瞬見当たらず、軽く辺りを見回すと今は他の客に対応しているようだった。心の中に靄がかかった感情が現れたと同時に、そんな馬鹿馬鹿しい自分自身に言い聞かせた。俺は彼の特別ではないし、彼の中の何者でもない。ただのバーの常連で、運よく身体を重ねているだけだと。しかし、理性と感情は水と油のように分離して、やがて争いを始めた。
少し前までは同じような場面に遭遇してもこんなことにはならなかった。客が世間的にいう美女だったからだろうか。好みからは外れていようと、容姿の良し悪しは分かる。いや、容姿に点数をつけるのがどれほど愚かなことかは十分に理解しているけれど。
頬杖をつきながら目の前に並べられている酒瓶をぼんやりと眺めていると、落ち着きのあるあたたかな声が小粒の雨のように降り掛かってきた。目線を合わせるように顔を上げると、花ような柔らかな微笑みを浮かべられて思わず目眩がしそうになった。
溺れる。そう自覚した頃にはもう遅く、必死に藻掻いたとしても沈んでいくだけだった。
「こんばんは。今日は何になさいますか」
「……酔えれば、なんでもいい」
男の表情が微かに揺らぐ。こんな投げやりな注文をしたのは、今日が初めてだったから。酔って、酔って、酔い痴れて、何もかも分からなくなってしまいたい。抱えた痛みも夜空より黒い感情も、曖昧なこの関係も、波に呑まれるように全部捨ててしまいたい。
縋るような瞳のままに再び男を見上げると、なぜか彼の瞳も同じような色を灯していた。どこへ向かえばよいか分からないような、暗い瞳を。いや、そういう風に俺が錯覚しただけなのかもしれない。都合のいいように思い込んでいるだけ、なのか。それとも……。まだ素面なはずなのに、なぜか現実が上手く捉えられない。
「とりあえず、今夜も」
「かしこまりました」
そう言って目線を手元に下げて酒を作り始めた男を俺はじっと見つめた。横から突き刺さる視線は、俺に向けた興味かそれとも彼に向けた好意か。あれだけ普段恐れている”世間の目”が、今真横にあるというのに俺は彼から目を離せずにいる。白い陶器のような肌に美しい線を持った輪郭。切れ長の瞳が俺だけを見つめる瞬間を、身体は待ちわびている。注がれたウォッカにオレンジジュースが溶け込んでいく。彼の長細く綺麗な指先から作り出されるカクテルをじっと見つめた。
首を横に振られたり、困った表情を浮かべられたらどうしようかという不安は未だに心に残っている。彼に無理をさせてはいないだろうか。そんなことを考えていながらも、言葉にして問いかけることはできなかった。もしも「無理をしている」と肯定が返ってきた場合、そこで俺達の関係が終わってしまうのが怖いから。
fk視点
お客さまから誘いを受けることは、あまり高頻度ではないものの特別珍しいことではない。こんなことが堂々とできるのも、相手が異性だから。そんな些細な事実に俺は複雑な感情を抱いた。それはワンナイトであったり、その延長線上で交際が始まることもある。世間的に良き行為かどうかを置いておけば、それを受けるも受けないも結局俺次第なのだが、俺の心は名前も知らぬ男に奪われたままだった。緩慢な動きで首を横に振ると、女性は余裕を浮かべたまま静かに微笑んだ。そんな小さな動きでさえ気品が漂うこの人にはきっと、俺よりもっと素敵な人がいる。断りを入れることに申し訳なく思いながらも、今の俺は彼以外を抱く気になれずにいる。まるで健気な恋のような名前のない感情が、きつく俺を縛り付けている。
そのまま少し目線を横へとずらすと、いつもの席には彼がいる。今日も変わらぬ表情で店へと現れたのだが、話してみると様子が少し違っていた。何か嫌なことがあったのか、もしくはそういう気分なのか、男は自ら酒に溺れたがっていたのだ。「酔えればなんでもいい」なんて自棄になったような言葉を彼はこぼした。今までにそんなことは一度もなく、いつも酒は愉しむ程度であったのに。
はじめにいつものスクリュー・ドライバーを飲み干してから、強い酒を所望して、飲み込んで、その繰り返し。苦く瞑った瞼には力が込められていた。ストレートのウォッカを煽りながら、ぼんやりと壁を見つめてはどこか物悲しそうな表情をしている。そんな彼を俺は今すぐにでも抱きしめたくなった。そうでもしないと、ふらりとこのままどこかへ消えてしまいそうな、そんな気がしてならなかった。しかし、現実でそんなことが叶えられるはずもなく、俺はただ秒針が駆け足になるのを待った。店が明かりを消して、静かな夜が深まるまでのこの時間がもどかしくて仕方がない。
不自然にならないようにそっと男へ目線をやると、酒に蕩けた瞳がくらくらと揺れていた。
◇
まだ電気もついていない部屋。履いたままの靴。夜の静けさが秘めた感情を象るように、ふたりを包みこんでいく。酒に酔っているせいなのか普段よりも乱れた彼の呼吸とテンポに呑まれるように俺は舌を絡め取られた。布越しにするりと身体を撫で上げる彼の指先は、いつものように俺を夜へと誘っている。頬に沿わせていた指で耳元にやさしく触れると、男は微かに身体を震わせて熱い息を吐き出した。離れた唇は妖艶に濡れていて、静まり返った玄関に二人の呼吸だけが木霊する。
仕事が終わり、例の路地裏へと出ると男は酔っておぼつかない足取りのまま俺の方へと向かってきてもたれ掛かるように弱々しく抱きついてきた。酔いが回っての行動かと思ったのも束の間で、男は俺の耳元に息を吹きかけるように「はやく」と弱々しい声で呟いた。
街灯の光も届かないような人通りのない細道。キスくらい、しようと思えばできるのかもしれない。けれど、俺はできなかった。こんなにも想っているのに、薄暗い”もしも”という不安が脳裏を占めていく。俺の知らない彼が今まで大切に積み上げてきた虚像の生活を、俺は壊したくなかった。その代わりとでもいうように俺は男の手を取って返事として微笑み、名残惜しさを抱えながらその手を離していつもより幾分か広い歩幅で足を進めていった。
「ねぇ、なに考えてんの」
「……なんでもないよ。行こっか」
俺が思い耽っていたことにどこか不服そうな愛らしい表情を薄っすらと浮かべた男の手を優しく取り、今度はちゃんと繋いだまま行き慣れた寝室へと向かった。手のなかで溶け合った互いの体温は熱くて、僅かに伝わってくる脈拍はトクトクとこの瞬間を刻んでいた。
マットレスの上に座り込むと男は、丁寧に纏っていた衣服を脱いでいく。ストリッパーのようなその姿に毎回見惚れそうになりながら、その間に俺は棚からローションやゴムを取り出して準備をする。そして美丈夫な男の上半身が露わになった頃、海に沈むようなキスをしながら彼をやさしく押し倒す。いつもなら、そのまま唇を重ねて徐々に行為へと耽るのだけれど、今日はやりたいことがあって中途半端なままにキスを止めた。濡れた唇から舌を曝け出している男の淫猥な姿に煽られて自身の欲を高めながらも、俺は覆い被さっていた身体を起こして男の目を見た。熱と湿度を含んだ男の瞳がゆらゆらと揺れて言葉にせずとも、それは困惑を表していた。
「なに、しないの」
「ごめんね、する。するんだけど、ちょっと気になってたことがあってね」
そう言った後、俺は確かめるような緩慢な動きでそっと胸の突起の周りに円を描いた。すると男は身体をびくびくと震わせて甘い声を息を吐き出した。あぁ、やっぱり。
「感じるんだね、ここ」
「っぁ、まっ、っは、ぅ゛、ん、やめっ、て」
「誰かにされたの?それとも自分で?」
「っは、あっ゛しごと、っだから、ん゛っ、ぅあっ」
「……へぇー」
おもしろくない。この男が”そういうこと”をしていることはあの日から知っていたけれど、俺以外の男に触れられてほしくないとどうしようもなく思ってしまう。所詮、身体の関係だ。そんなこと無理だって、分かってるはずなのに。
核心を避けるように彷徨わせていたせいで刺激に期待するように膨れ上がった先端に指先で掠めるように触れると、男の腰がへこへこと揺れ動いてマットレスが軋む音がした。今この瞬間だけは、俺に染まっていてほしい。そんな無茶苦茶な願いを胸に秘めたまま、誰かの手によって性感帯になったそこを口内に含んで、唾液を絡ませては嬲るように貪った。舌を動かす度に漏れ出す嬌声が、俺の思考を溶かしていく。
「あっ、っは、やだ、っん、ぅ、っやめ、って、んっ」
「やめない。気持ちいね、これ」
「んっ、やだ、ぁ、っはや、く、なか、ほしっ、んっ、ぅ」
「ふっ、かわいいこと言うね。いいよ。腰、浮かせて?」
俺の言葉通りに腰を浮かせた男からズボンと下着をするりと脱がせる。普段なら膨れ上がっているであろう彼のソコがなんの反応も示さず弱々しく項垂れているのは、恐らく多量の酒を飲んだからだろう。萎えているソコに指先と手のひらで刺激を加えると、どうしようもなく欲してしまう彼の熱っぽい声が耳を侵した。いつものように解かされている後孔へと指を沈めて内壁を指のはらでやさしく押し潰すように進めていくと、きゅーっと中が収縮して指先はその体温に包まれていった。
長い両腕でキスを求められて、ぼんやりとした思考のまま彼の唇に触れた。いつか、いつかきっと消えてしまうこの色濃く儚い関係が、物足りなくて。身体が、心が求めている彼は今ここにいるのに、いつまでも満たされない。上辺だけのキスが冷たく感じて、俺は何かに急かされるように彼と身体を重ねて、熱を求めあった。
互いの存在が熱い体温に溶かされて輪郭を失い始めた頃、聞き慣れない電子音が二人の間に切込みを入れた。音の鳴る方へ横目で目線をやると暗い部屋にチカチカと緑色の光が点灯している。電話だ。そう思ったまま壁にかけられた時計へと目を向けると時刻は午前一時を回っていた。こんな時間に彼にかけられる電話の意味なんて、嫌でも察してしまった。いやだ、まだ、まだ行かせたくない、離したくない。
心の奥底で絡まった感情が自滅するように燃えていく。突然空間に漂った着信音を掻き消したくなって、感情的に激しく腰を彼の奥へと打ち付けた。壊してしまわないように大切に抱いてばかりだったからか、慣れない速度で打ち付けられる熱に彼は涙を浮かべて腰を反らせていた。
「あ゛っ、あぅ゛っ、っあ゛ぁっ、っとまってぇ、っう゛」
「っごめん、止まれない」
「っあ゛、んん゛っ、っはぁ゛、あっ、ん゛ぅっあぁ゛っ」
もう着信は切れているというのに、苛立ちに似た感情は燃え尽きることなく脳に靄をかけて、俺は本能に呑まれたまま腰を打ち付け続けた。激しく揺れる彼の身体に、俺の頬を伝った液体がこぼれ落ちていった。もう秋に入りかけているというのに身体は熱くて、荒ぶる熱が汗を浮かべている。……あれ、なんで?
徐々に視界がぼやけて、やけに目が熱くなっていく。熱に犯されたまま驚いたような表情を浮かべている彼にキスをして、その塩っぱさに気が付いた。なんで、俺、泣いてるんだ?
名前を呼びたい。名前を呼んでほしい。それなのに、俺達は何も知らない。泡立ったローションがだらしない音を立てる中、曖昧な関係に酔っていたはずの思考がさめて、絡まった舌の感覚さえもよく分からなくなったまま、俺はただ意味もなく涙を流した。
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