一時期の院須磨町は不審人物の目撃と怪死事件が相次いでおり、それに伴って学校における部活動の時間は制限されていた。
しかし梅雨が明け、季節が夏に移り変わる頃には落ち着き始め、部活動の練習時間は元に戻り、日が暮れてから下校する生徒も増えている。
未だに不気味な噂は絶えなかったが、ある程度院須磨町は平和を取り戻したと言えるだろう。
そんなある日の夕方、二人の女子生徒が部活動を終えて帰路についていた。
時刻は既に午後七時を過ぎており、辺りも少しずつ薄暗くなる頃合いだ。
二人共噂には無頓着で、口裂け女がどうだのトンカラトンがどうだという噂はあまり気に留めておらず、日々の愚痴や流行りの動画の話で盛り上がりながら住宅街をのんびりと歩いている。
そんな中、一人が不意にこんなことを言い始めた。
「……誰かに見られてない?」
「え、そう? 気のせいじゃない?」
しかしそう答えてすぐに、もう一人もその視線に気がついた。
一瞬で厭な汗が噴き出して、二人は一度足を止める。
きりきりきりきり、と音がして、前方の電柱の陰から視線の主が顔を覗かせた。
「っ……!」
その顔は異様なまでに白く、まるでおしろいを塗りたくったかのようだ。
真っ赤な和服を着たその少女は、生気の感じられない瞳でジッと二人を見つめている。
その顔は美しい、というよりも精巧、と言った方が正しい。
少女が手を伸ばすと、和服の袖から真っ白な手が顕になる。
その手を見た瞬間、二人は同時に息を呑んだ。
「ひっ……!」
古びた球体関節が、きりきりと音を立てた。
***
梅雨が明けると夏だ。
じめじめした季節が終わり、カラッと晴れた日々が始まる……。そう言えば聞こえは良いが、高い気温と強烈な直射日光は年々と容赦なくパワーアップしていく。今年の夏も暑くなりそうなりそうだ。
「暑い時はやっぱりアイスクリームですよ!」
そう言いながら、市販のカップアイスを和葉は幸せそうに口に運ぶ。時刻は午後一時過ぎ、昼食をとってからまだ一時間経ったかどうかという頃合いである。
事務所の中は冷房が効いているが、午前は例によって商店街に出かけていた。そのため、和葉も浸もそれなりに暑い思いをしてきたばかりだ。
「……おお!」
和葉がアイスクリームを堪能していると、不意にデスクで浸が携帯を見ながら感嘆の声を上げる。
「どうしたんですか?」
「赤羽絆菜がついに船に乗ったようです! 釣果に期待しましょう!」
「わぁ! 今から楽しみですね!」
この事務所の一員である赤羽絆菜は現在、釣り仲間のおじさん達と一緒に釣りに出かけている。船を借りて沖での釣りに挑戦するらしく、大物を釣ってくると息巻いていた。
「早坂和葉もこのくらい思い切り有給を使ってくれると安心するのですが……」
「えぇ!? 使いましたよぉ!」
「商店街を食べ歩いた後結局ここにきて作業してたじゃないですか! 作業してくれる分には助かるのですが、休ませた感じがしなくなるんですよ!」
「いやあ……なんか手が空いたら事務所のことが気になっちゃって……」
本音を言うと、その日の和葉は何かをしていないと落ち着かないような気持ちだった。
有給を使って最初に和葉がしたのは、番匠屋琉偉の墓参りだ。
(……中華、琉偉さんと行けなかったな……)
借りた本も返せず、和葉が駆けつけた頃には既に琉偉は事切れていた。結局和葉は、琉偉には助けられるばかりで何かを返せたことはない。
琉偉を思い出すと、ついそんなことばかり考えてしまう。誤魔化すように食べ歩き、結局最後は事務所に戻って一心不乱に書類の整理や掃除に勤しんでいた。
また少し、気分が沈みそうになる。
そのことに気づいたのか、浸はそっと和葉の肩に手を置いた。
「早坂和葉は、もうたくさん頑張りましたよ。何も気に病むことはありません」
木霊神社での戦いの後、院須磨町は一時的に平和を取り戻していた。
毎日町に出没していた怪異達も数が減りつつあり、現在は月乃達霊滅師だけで手が足りるようになっている。
払った代償は大きかったが、和葉達の勝利は町に平和をもたらしたと言えた。
そのため、浸のいない間に事務所を守ってくれていた絆菜と和葉には本来持っている有給とは別に有給休暇何日かとボーナスが与えられ、露子には浸が妥当と判断した額の報酬が支払われた。
「ありがとうございます。でも私、この事務所のことが大好きですから。出来る限りここにいたいんです。浸さんが帰ってきてくれて、本当に嬉しくて……」
「……ありがとうございます」
流石にこう言われると浸も弱い。長い間心配をかけてしまったことが申し訳なくなってきてしまう。
「すみませ――――」
「謝らないでくださいって何回も言ったじゃないですか! 私はとにかく、帰ってきてくれて嬉しいんですから!」
謝罪を遮られ、浸は打つ手がなくなって困ったように笑みを浮かべる。
「流石に回数を重ねすぎると先手を打たれてしまいますね……」
「そりゃそうですよ! 私だって、毎日成長してるんですから!」
そう言って胸を張る和葉は、本当に強く成長したと浸は思う。
出会ったあの頃から大きく成長した彼女は、名実共に浸の自慢の助手だ。
「……では、大きく成長した早坂和葉にご褒美です。私の分のアイスも食べて良いですよ」
「え!? ほんとですか!?」
「構いませんよ。私はお昼でお腹いっぱいですので」
「ありがとうございます!」
大喜びで冷蔵庫にアイスを取りに行く和葉を見ていると、不意に事務所の固定電話が鳴り始める。
「あっ」
「私が出ますから、早坂和葉はアイスを」
和葉が反論するよりもはやく、浸は立ち上がって電話を取る。
「……はい。ええ、大丈夫です」
しばらくやり取りをした後、電話を切る。
「依頼ですか?」
するとすぐに、アイスを食べながら和葉がそう問うてきた。
「ええ、久しぶりの依頼ですよ」
雨宮霊能事務所、数日ぶりの除霊依頼であった。
***
場所は院須磨町の商店街の骨董品店。ここの店主と浸は面識があったが、店主はもう既に高齢で、今年に入ってからは体調不良を理由に店をずっと閉めていたため浸もしばらく会っていない。
依頼主は店主の息子である寺井紀彦(てらいのりひこ)だ。彼は浸達が店に訪れると、すぐに中へ案内した。
「先月、父が亡くなったんです」
妻の牧江(まきえ)がお茶を出した後、紀彦はそう話を切り出す。
「……そうでしたか」
「それでこの店を続けるかどうか、しばらく妻と話し合っていたんです。僕もそろそろ定年だし、子供ももう町を離れてしまっていて、特別することもありませんし」
紀彦は五十代後半、と言った風貌だ。彼は妻と話し合った結果、定年を迎えた後再びこの骨董品店を父の代わりに営業する予定だったらしい。
「ですが、奇妙なことが起こったんです」
そう言いながら紀彦が取り出したのは一枚の写真だ。
そこにはこの店の店主であり紀彦の父である源三(げんぞう)が笑顔で写っている。比較的最近取られた写真なのだろう、浸の記憶にある源三とあまり変わらないように見えた。
源三の隣にいるのは、赤い和服を着た真っ白な肌の少女だ。一瞬孫か何かかと思ったが、それでは先程の話と少し食い違うことになる。よくよく見れば、その少女は人形のようだった。
「お人形さん……ですか?」
「はい。生前、父が大切にしていたものです」
和葉の問いにそう答え、紀彦はそのまま続ける。
「父のコレクションの一つです。他のものは店に出していたんですけど、この人形だけは飾るだけで一度も商品として出したことはありませんでした」
そこまで話してから、紀彦は一息ついて話を切り出す。
「この人形が、先日急に消えたんです」
「ひとりでに、ですか?」
「はい。ひとりでに、です。僕も妻も、この人形には触りませんから……」
紀彦のその言葉には、どこか人形を疎ましく思っているような響きがあった。
どこかその人形を、恐れているかのようにも聞こえる。紀彦にとって、人形は得体のしれない何かなのかも知れない。
「父は死ぬ寸前までこの人形を大切にしていました。とても貴重なものらしくて……。でもこう言ってはなんですが、僕や妻にとっては薄気味悪いばかりで……」
精巧な人形であるからこそ、人間との僅かな差異が強烈な違和感となり、独特の不気味さを感じさせてしまう。人間に近ければ近い程、人形というのは不気味に見えてしまいがちだ。
「それでその……もしかしたら心霊現象なんじゃないかって。一応警察に盗難届は出したんですけど、盗まれたような形跡はなかったんです」
「なるほど……確かにその可能性はあり得ますね」
「……窓と部屋の障子が、開いていたんです。でも、外から誰かが入ったような形跡はなかったみたいです」
事件の後、紀彦はすぐに人形について調べた。
源三は人形を高価なものとして扱っていたようだが、実際には大した値段はついていなかったらしい。流石に二束三文というレベルではなかったものの、店頭の様々な骨董品を差し置いて盗むような人形ではなかったらしいのだ。
犯人に個人的な事情があって人形だけが必要だったという可能性もあるが。
「一応父の遺品ですから、このままにはしておけないと思って、依頼しようと思ったんです」
「でしたらまず、本当に霊的な現象なのかどうか確かめる必要がありますね」
そう言うと、浸は和葉に目配せをする。意図を汲み取った和葉は、小さくうなずいて見せた。
「あの、何か人形が身につけていたものとか残っていませんか? なければ人形の飾ってあった場所を見せてもらえればわかるかも知れません」
「ものはありませんが、場所なら大丈夫です。父の部屋へ行きましょう」
それからすぐに、二人は源三の部屋へと通された。
源三の部屋は畳の部屋だ。入ってすぐに仏壇が目に入る。
和葉も浸も、すぐに人形の飾られていた場所がわかった。何も飾られていない、がらんどうになった床の間があったからだ。
「あそこ……ですか?」
和葉が床の間を指差すと、紀彦は頷く。
「ええ、あそこです」
和葉はそっと床の間に近づいて行く。
霊的なものが長時間いた場所には、それなりに残滓のようなものが残る。近づいてそこに意識を集中させれば、和葉くらいの霊力があればそれを感じ取ることが出来るのだ。
「……」
「早坂和葉、どうですか?」
和葉はしばらく黙り込んだままだったが、やがてゆっくりと首肯する。
「……微かですけど、感じます」
「え、じゃあやっぱり本当に……」
紀彦はわずかに表情を引きつらせ、ゴクリと生唾を飲み込んだ。
「どうやら私達の仕事で間違いないようですね」
そう言って浸は、紀彦に対して不敵に笑って見せる。
「ご安心ください。必ず我々の手で解決して見せましょう」
こうして雨宮霊能事務所は、紀彦からの依頼を受けることになった。
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