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不思議な解放感だった。
痛みに泣き叫びながら、翼の心は、かつてないほどに静まり返っていた。自分は今、確かに罰せられている。この厳しい「天使」によって、汚れを削ぎ落とされている。
「あぁ……、ぁ、天使様……! 天使様……っ!」
翼は床を這い、彼女の白いエナメルのブーツに額を擦り付けた。ブーツの先には、彼の背中から飛び散った数滴の鮮血が、点々と赤く輝いていた。
天使様は、冷たい目で翼を見下ろした。その靴先で、翼の顎をグイと持ち上げる。
「いい声ね、子羊よ。もっと鳴きなさい。天に届くまで、あなたの痛みを私に捧げなさい」
彼女の背中の白い羽が、激しい動きに伴ってハラハラと数枚、床に落ちた。それはまるで、地獄に舞い降りた本物の使者のように、翼の目には神々しく映った。
その日、翼は二時間の間、徹底的に調教された。
吊るされ、打たれ、罵倒され、肉体の限界まで追い詰められた。
しかし、プレイの終了を告げるベルが鳴った瞬間、部屋の空気は一変した。
天使様は鞭を置くと、息を乱した翼の拘束を優しく解いた。工程、床にへたり込む彼の身体を、そっと背後から抱きしめたのだ。
背中の傷に、冷たい軟膏が丁寧に塗られていく。彼女の細い指先は、先ほどまでの凶暴さが嘘のように繊細で、温かかった。
「よく耐えましたね、子羊よ。今日の分のあなたの罪は、すべて私が預かりました。もう、自分を責める必要はありませんよ」
耳元で囁かれたその言葉は、慈愛に満ちていた。
翼の目から、堰を切ったように涙が溢れ出た。彼は子供のように声を上げて泣いた。天使様の白いドレスを、自分の涙と鼻水で汚しながら。彼女はそれを拒むことなく、ただ静かに、翼の頭を撫で続けてくれた。
それから、翼は週に一度、必ず『Eden』に通うようになった。
彼にとって、あの白い部屋だけが、息を吸うことができる唯一の場所だった。
日常での翼は、見違えるほど「有能な社員」に戻っていた。どれほど上司に怒鳴られても、どれほど理不尽なトラブルに巻き込まれても、心の中で(構わない。どうせ今週末、天使様がすべてを清算してくれる)と思えば、平気で笑っていられた。
彼の精神は、天使様という劇薬によって、辛うじて均衡を保っていた。
しかし、依存が深まるにつれ、翼の心にはある「歪み」が生じ始めた。
(彼女は、普段どんな生活をしているのだろう)
この部屋での彼女は「天使様」だ。だが、一歩外に出れば、彼女もただの人間のはずだ。服を買い、ご飯を食べ、誰かと笑い、眠る。その日常の姿が、どうしても想像できなかった。いや、想像したくなかったのかもしれない。彼女には、永遠に自分の「天使様」でいてほしかった。
ある雨の土曜日。
翼は、いつものようにプレイを終え、心身ともに満たされた状態でビルを出た。
いつもならそのまま駅へ向かうのだが、その日はどうしてか、足が止まった。ビルの向かいにある喫茶店の軒下で、雨宿りをしながら、彼は『Eden』の裏口がある路地をじっと見つめてしまった。
一時間ほど経った頃だろうか。
傘を差した一人の女性が、ビルの裏口から出てきた。
翼は、息を止めた。
間違いない。あの歩き方、あの切れ長の目。彼女だった。
だが、その姿は「天使様」とはあまりにもかけ離れていた。
髪は後ろで無造作に一つに結ばれ、化粧は薄い。身に纏っているのは、どこにでもあるトレンチコートとジーンズ。足元はスニーカーだった。
彼女はひどく疲れた様子で、猫背気味に歩いていた。自動販売機の前で立ち止まると、缶コーヒーを買い、冷えた手を温めるように缶を握りしめ、小さくため息をついた。その姿は、都会の片隅でストレスに押しつぶされそうになりながら生きている、ごく普通の、どこか影のある二十代後半の女性そのものだった。
翼の胸の奥で、何かが壊れた感じがした。
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