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空の彼方に目を遣るが特に異常はなかった。丘の上の王城の、高い塔の頂上にある部屋に今日も一人、サミラニヒマはいた。サミラニヒマは人の形をしているが、粘土で出来ている。本来は苔に覆われて鳥の翼のような鰭を持つ脚が七本生えた海鷂魚の姿なのだが、その姿になることはまずない。
増改築を重ねたサミラニヒマの仕事場は物で埋め尽くされている。白くなった鳩小屋、山と積んだ狼の糞、一人でに蠢く粘土、真っ新な羊皮紙、太鼓、喇叭、主要な道路の記された地図。
狼煙を見れば、壁に架けられた地図に照らし合わせ、翻訳し、報告書を積み上げる。鳩の持ってきた手紙を受け取り、餌をやって新たな手紙を持たせる。定期的に太鼓を叩き、喇叭を吹き、粘土板に書き記す。
そして時折、塔へとやって来る名ばかりの賢者たちが報告書を持って行く。
「おはよう。サミラニヒマ。昨夜の報告書を貰っていくぞ」「こんにちは。サミラニヒマ。今朝の報告書を貰っていくね」「こんばんは。サミラニヒマ。今日の報告書を貰っていくよ。おやすみ」
それが全てだ。儀式めいた挨拶と新たな報告を伝える以外に言葉を交わすことはない。
サミラニヒマは茸砦王国の情報網の要だった。王都では王の次に重視され、王よりも秘匿された、王国の繁栄を支える礎だった。
仕事は絶えず続く。王都から地方へ、地方から王都への情報伝達だけではなく、地方間の中継も担っていたからだ。磨り減ることのない魂と時折補充される粘土の肉体を限りなく動かし続ける。
命令には絶対服従のサミラニヒマだが、命令自体には抜け道がないわけでもない。ただし、仕事量のために抜け道を探す時間もない。
そんなサミラニヒマに転機が訪れたのは、魂に新たな魔術が刻み込まれた時だ。そのようなことは今までにもあった。が、未だにその理由は分かっていない。その全てが、情報伝達に関わる魔術だった。今度もそうだ。それは心を伝える魔術だ。読唇術や表情から動作から読み取る読心術とは比べ物にならない。遠方の、姿も見えない相手に言葉を伝え、受け取ることのできる魔術だ。
本来は多くの修行と準備を必要としながらも制限の多い高度な魔術だったが、サミラニヒマにとっては違った。本来の海鷂魚らしき姿になればその全ての手続きを無視することが出来た。
初めは王城で働く者たちの心の声を聞いた。サミラニヒマの報告書に基づいた議論を聞いた。王の浮名を聞いた。王の子供たちの無邪気な声を聞いた。良からぬ企てを聞いた。サミラニヒマですら知らなかった王の武勇伝を聞いた。
「ハバトラの歴史随一の寛大なる王万歳」「サンヴィアに類を見ない知と美の保護者、賢君に幸あれ」「諸王の王たる勇猛果敢なる王の戦に祝福あれ」
サミラニヒマが伝えた生の情報のいくつかは王の都合の良い形に加工され、世間に流布されていることを知る。とはいえ予想していたことだ。元々各地から届く情報は賢者たちによって精査され、矛盾や綻びが発見されれば警戒し、痛手を負う前に対処されていた。それこそがハバトラ王国の平穏を保ってきた。
しかし王城に渦巻く陰謀から離れるため、この新たな魔術を使わずにいようと決めかけたその時、不思議な声を聞いた。
「嗚呼、うんざりだ。馬鹿々々しい。何が名君だ。忌々しい」
王城の最奥、裏庭近くの書庫からその声は聞こえている。サミラニヒマは心の耳を立てて、その声を盗み聞きする。多くは愚痴だった。王と、賢者と、自身の仕事への不満。
サミラニヒマは自身の書いた報告書の流れ着く先を知る。報告書は賢者たちによって加工され、美辞麗句で彩られた王の武勲や英雄譚はその者によって編纂され、最終的には都合の良い歴史書が記されている。大なり小なり歴史書というのはそういうものだ。
気が付けばサミラニヒマは言葉の内容ではなく、言葉の話し方に聞き耳を立てていた。それは相手への関心が生まれた証であった。その声の主が何者なのか、何故王城の内部で不満を漏らしているのか、サミラニヒマは興味を抱いた。
「この城で仕事に不満を持っているのは僕だけじゃなかったらしい」
サミラニヒマは初めて伝心の魔術を呼びかけに使った。
「誰だ!?」
鋭くも素朴な問いに素直に答える。「サミラニヒマだ。塔の頂上で働いている。国中の情報をあちらこちらへと伝達しているんだ」
迂闊だということは分かっていた。伝心の魔術が賢者たちに伝われば、仕事がさらに増えることとなる。だがサミラニヒマの心の中の言葉は既に塔の頂上から飛び出していた。
「もしかして、報告書を書いているのは君か?」
「うん。そうだ。僕の書いたものを賢者たちが手直ししているようだけどね」
「君は相当の魔術師だろう? 見た事もない相手の心に直接話しかけるなど、並大抵の所業ではない」
魔術を称賛されるなど滅多にないことだ。
「ありがとう。よければ君の仕事についても聞かせてくれないか?」
「ただの物書きだよ。嘘の話を書いているの」
歴史書を記していることは分かっていたが、サミラニヒマは黙っておく。そして誘うように話しかける。
「不満そうだ」
「よく分かったね。仕事に不満を持つ者なんて珍しいだろうに」
サミラニヒマは僅かに唇の端を持ち上げて、塔の頂上の散らかった部屋で黙々と仕事を続けていた。
「やめようとは思わないのか?」
相手が黙る。サミラニヒマは緊張し、次の言葉を待つ。
「もちろん」
どちらともとれる言葉だ。
「そういえば、君の名前は?」
アデロマイア。それが書庫で働く歴史の編纂者の名前だった。
林泉を見出し、初めてここは砂漠だったのだとサミラニヒマは気づいた。塔の頂上から湧き出る情報は、王城で権謀術数を巡らせる者たちにとっては貴重な水源だが、サミラニヒマにとっては砂漠の砂粒でしかなかった。
一方でアデロマイアの愚痴がサミラニヒマを潤す泉の水となった。体は働き続けながら、魂はアデロマイアのそばで多種多様な愚痴と罵り言葉に耳を傾けていた。
長年の仕事もアデロマイアと結びつけて考えると神を称える音楽のようだ。いつも目を遣る空の彼方が薔薇色に染まっていた。
初めはただ愚痴に耳を傾けるだけだったが、次第に言葉を交わすようになり、それでもお互いの深い領域には触れないでいた。
「いつまでもこんな所にいたくない。どこか遠くへ飛んでいきたい」
アデロマイアとの出会いから何年目だったか。歴史の編纂者から愚痴ではなく、願望を聞くのは初めてだった。
その時、伝書鳩の世話をしていたサミラニヒマは、鳥が自由とは限らないと呟きそうになり、堪える。鳩か雀の他には王都で鳥を見かけることもない。
「君……、アデロマイアは囚われているのか?」
今更だ。だが、アデロマイアからの信頼が築かれる前に話を切り出せば、疑われ、言葉を交わせなくなるのではないかと恐れていた。
「もしそうだったら、君に何かができる? サミラニヒマ」
「約束はできない。だけど、僕にできることを探してみる」
それがサミラニヒマの限界だった。
唯一自由なのは伝心の魔術だ。これを足掛かりにアデロマイアを救う手立てを見つけなければならない。計画は慎重に進める必要がある。失敗すれば伝心の魔術が露呈し、終わる。
王城と関わりのない者たちの心を実験台にし、伝心の魔術の仕組みを探る。何ができ、何ができないかを把握し、役に立ちそうな使い方を見定める。実験と観察を重ね、アデロマイアの自由に至る道筋を立てる。
伝心の魔術を完全にものにすると、まずは王城の中で野心を秘めている者を探す。野心を秘めているだけなら探すまでもないが、王に弓を引くだけの大胆さが必要だ。最も相応しいのは賢者の一人だった。前王の血を引き、今の地位ですら物足りないと感じている。
そんな賢者の心の中で呟く。最初は賢者自身の心の中の言葉を繰り返した。初めは驚きや戸惑いがあったが、伝心の魔術など知らない者は次第にそれが自分の心の言葉だと思い込む。
もはや区別がつかなくなった段階で、サミラニヒマは少しずつ言葉を力強くし、賢者の野心を高めていった。
十分に王への反意を育てれば、次に具体的に変化した世界を思い描かせる。新たな王となり、栄誉と贅沢、あるいは理想の君主として崇められる姿を想像させる。
いざ、具体的な計画を進める段階になれば、サミラニヒマの力へと注意を向けさせる。情報の掌握こそが王の力であり、王城の力であり、王国の力なのだ、と。サミラニヒマの魂が封じられた札を手に入れさせようと仕向ける。
あとは賢者の賢しさに任せるばかりだ。諸侯に通じ、民草の不安を煽り、賢者は徐々に陰の勢力を強める。全ての企ては放っておけばサミラニヒマによって筒抜けになるが、次代の王とならんとする賢者自身が情報を握り潰すことのできる地位にある。
その時は来た。各地で反旗が翻った。王都も王城も火に包まれた。戦いは一方的で、火に巻かれたものも含めて千人ほどが死んだだけだった。
塔の頂上からサミラニヒマはその光景を眺める。塔の頂上だけは静まり返っている。誰も何も伝えて来ない。だが見れば分かる。情報網によって雁字搦めになっていた人々が自由を得たのだ。それを象徴するように、赤く燃える空に目を遣ると一羽の鶴が飛び去るのが見えた。
計画通り、賢者が塔の頂上へとやって来る。賢者に札を貼り変えさせて出し抜き、アデロマイアを迎えに向かうのだ。
しかしサミラニヒマの仕事場を開いた途端、賢者はその場に倒れ伏した。背中を斬られたのだ。埃の溜まった床に血溜まりができる。サミラニヒマには、賢者を斬り捨てたその男が誰だか分からない。名も無き反乱者の一人に過ぎない。
「貴方は?」と男に問われる。
「私はハバトラ王国の情報伝達を担う魔性、サミラニヒマです」と決められた通りの台詞を返す。
そのように命令されているからだ。
「ああ、貴方がサミラニヒマですか。噂には聞いております。愚王によって散々に悪用されてきたようですが、これからは自由ですよ」
それに対してサミラニヒマは何も答えない。決まりきった問いかけ以外には何も答えないように命令されているからだ。
反乱者の男は首を傾げる。「では、また」
立ち去ろうとする反乱者を伝心の魔術で制止する。「待て! 札を剥がしてくれるんじゃないのか!?」
反乱者はどこから声が聞こえて来たのか、と少し困惑しつつも迷いなく答える。
「ええ、もちろん。ですがそれは新王自身が行います。ご安心ください。アデロマイアの方は既に解放されたそうですから。直に貴方も――」
「アデロマイアが解放された!? アデロマイアも僕と同じ存在なのか!?」
今度はサミラニヒマの粘土の唇が動いていないことに反乱者も気づき、不気味そうに眺める。
「ええ。ご存じなかったのですか? まあ、そういう訳ですから暫くお待ちください。全ては我々の計画通りに事が運んでおります。ご心配なく」
そう言い残して反乱者の男は塔を降りて行った。サミラニヒマは無力感を抱きながら空の彼方に目を遣る。