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食欲がそそられる巨人どもが敗れ去り、風味豊かな神々がその傷を癒すべく、冷めても美味しい北方の神秘の土地に引き揚げていた時代、戦場跡には多くの燻し味のふくよかな魔性と怪物たちが跋扈していた。まるで刺激の効いた戦争の続きを再演するように人間たちとしつこく争う者もいれば、さっぱりと逃げ隠れする者もいた。
その中で、神々の戦に参戦した肉々しい英雄さえも恐れさせた、後に飢饉と呼び称される怪物の雛が誕生していた。
ファムは飢えていた。井戸の如く、さらりとした口当たりの胃は常に空っぽで、ずっしりした苦しみから逃れるべく何かを喰っていた。初めはただ地面に這いつくばうしかできなかったファムは地を這う素朴な味の芋虫を喰い、地に落ちて蕩けた甘すぎない果実や腐りかけて苦みのある木の実を喰った。口の届く範囲に食べ物が無くなると、噛むと解ける蛙を捕まえ、枝から落ちてくる前につい手の伸びる果実や木の実を採った。手の届く範囲に食べ物が無くなると、汁気たっぷりな鴨を追いかけ、骨まで解れる柔らかな比売知に頭からかぶりつき、素材本来の味の芋茸を齧った。しかし喰っても喰ってもファムの飢えが消えることはなかった。
ある日、癖になる味の人間を追いかけた先に行きついた集落で、沢山の食物を蓄えていることを知った。うま味が閉じ込められた牛、脂身の甘やかな豚、野性味溢れるしっとりした羊、淡白ながら香ばしい鶏、濃い味わいでしっかりとした食感の家鴨、さらさらの麦、ふんわりした芋、もっちりした豆、数多のしゃきしゃき野菜と瑞々しい果物。塩漬けにしたり、干したものもあった。
全てを喰った。ついでに人間も喰った。ファムはぶくぶくと太ったが、飢えは大きな体の中にずっと居座っていた。
「いつまで喰うんだ」「どれだけ喰うんだ」「満腹にはならないのか」
人間の叫びの馥郁たる香りに鼻孔を膨らませつつ、ファムは喰らい尽くす。
満腹という食物があるらしい。飢えの苦しみから逃れられるそうだ。ファムはその言葉の魅惑的な味わいに舌なめずりした。
人間だけが知っていた秘密の食物をファムも欲しがった。どんな形でどんな色をしているのか、ついぞ分からなかったが、喰い続ければいずれ見つかり、手に入るのだという。
もちろん、ファムに散々食い荒らされた人間たちもただ黙って耐え忍ぶわけではなかった。
煮炊く者ほど何にでも合う者もいない。あらゆる料理と調理の有する神秘を手にし、口にした者だ。優れた料理人であり、魔法使いでもあった。その上で更なる高みを目指し、多くの料理人と交流を持った。きりっとした師匠も、ほっとする弟子も、まったりとした仲間も得た。志を同じくする者たちの全てが絡みつくような時の流れに押し流されてしまったが、それでもなおピーセギトーは他者と協同し、協力することで頂の更に上を目指していた。
ファムという怪物を知り、それに苦しめられる者たちに同情したが、何より料理と調理の前に立ちはだかる噛み応えのある苦難としてこれ以上のものをピーセギトーは知らず、乗り越えねばならない使命と見定めた。
あらゆる食物をファムに喰われ、ピーセギトーの刺激的な評判を知った人々に助けを乞われる。
「して、どのようにファムを止めましょう」ピーセギトーは骸のように窶れた人々を眺めて相談する。
飢えに苦しむ者たちは口々に言葉をかわす。
「毒を喰わせるのはどうだ」「喰わせるまでもなく奴は毒も喰っているぞ」
「ピーセギトー殿の料理に夢中になっている間に殺せないか」「我らの剣は何度も彼奴の鱗を貫いた。だが彼奴が何かを喰えばすぐさま癒えてしまうのだ」
「殺せなくたっていいんだ。我らの食料を奪われさえしなければ」「ではこうするのはどうだろう……」
今日も今日とて舌の上で踊る人間の村々へやって来て、抵抗など意にも介さず貯蔵した食物を掻き込むファムのもとにピーセギトーは現れた。その手には得も言われぬ馨しい料理を携えている。
誰に倣ったわけでもないが、ファムはその料理を奪おうと手を伸ばし、口を伸ばし、飛び掛かるがピーセギトーはひらりとかわす。忌まわしい魔法使いだ。他の人間と違って魔法を剥くのに手間がかかる。
「あなたにこの料理を喰わせてやっても構いませんが、一つ条件があります」
ピーセギトーの不思議な香りを嗅ぎつつファムは応える。
「腹の足しにもならねえが聞くだけ聞いてやる」
「これからはわたしの料理だけを喰い、味わい、必ず感想を述べることです。他のものを喰えばおさらばです」
ファムはこの宇宙で最も大きな口を開けて笑う。
「喰ってやる。味わってやる。だが感想を述べなければおさらばだと? そうすればいい!」
ファムはピーセギトーの携えた皿ごとぺろりと食べる。と同時にファムは脳天に衝撃を受ける。咀嚼を止められない。唾液が止まらない。舌の上で味わい続けたいが、丈夫な歯と牙の前にピーセギトーの料理はきっちり磨り潰され、飲み込む惜しさに抗うも耐えられない。その喉越しにまで魅了され、もう存在しないピーセギトーの料理の影を、拭い難い幻の味覚を咀嚼してしまう。
「おかわり。おかわりはないのか?」まるで後味と残り香を失うまいと恐れるようにファムはもごもごと問いかける。
「感想は?」
「美味かった! 美味かったよ! おかわりをくれ!」
「それだけですか? もっと語り尽くしてもらいたいのですが、まあ最初は良いでしょう」
ファムの食べる速度にピーセギトーの調理速度が遅れを取ることはなかった。満たされることのない底なしの井戸にものを放り込み続けるようなもので、永遠のおかわりの果てに御馳走様がやって来ることはない。
「いったいこれは何だ? 何という食べ物だ?」頬張りながらファムは尋ねる。
「名前なんてありません。全てが新しい料理ですからね。獣の毛と骨。鳥の羽根と骨。魚の鱗と骨。あらゆる野菜や果物の枝や弦。そういったものを調理しています」
食べた物が何であるかなど気にしたのはファムにとって初めてのことだ。永久に追いかけてくる飢えから逃れるのに、そんなことを気にする必要はない。何だっていいんだ、とファムは考え直す。ともかく食べ続ければいつか満腹と出会えるはずだ、と。
人間の食べない物ならいくら喰わせてやっても構わない。それがファムに怯える人々とピーセギトーの考えだった。そのために人々はせっせと食べ頃など来ない食べない物を運び込み、ピーセギトーは持ち前の魔術と機転と想像力で、ファムを飢えという鞭ではなく、味という飴で調教することとしたのだ。
切って、砕いて、混ぜて、濾して、搾って、焼いて、茹でて、炒めて、揚げて、煮て、和えて、蒸して、焙って、燻して、漬けて、干して、盛りつけた。ピーセギトーも家畜の餌を作ったことくらいはあるが、今ほど不思議な体験ではなかった。人間にとってのごみを怪物ファムにとっての食事にしている、という訳でもない。少なくともこの時点では人間にとっても美味しく食べられるものに仕立て上げていた。栄養や毒性に目を瞑ればだが。
ともかく企て通り、人間の食物は守られている。長らくピーセギトーと痩せさらばえた者たちの協同作戦が実行された。しかしやがて人間は協力を放棄した。無限の食事と無限の調理に付き合える人間などはなからいなかったのだ。
何より協力を重んじるピーセギトーには堪える出来事だったが、今やファムの感想を楽しみにしている自分がいた。
「じゅわぁっと肉汁のようなものが溢れ出す羊の骨の焙り焼きはとてもお腹に優しい。まるで乾いた大地に降りしきる雨のようにおれの胃袋を慰めるのだ」
「渡り鳥どもの羽根の羹は口の中で張り付いて調味し続ける。美味しさの磔刑の如きだ」
「葡萄の弦と甘蘭の根の和え物は何もかもを押し流す洪水の如く口直しに良いな」
仕方がないのでピーセギトー自身が食材の準備もこなすしかない。
臭みのない花崗岩、噛むほど美味しい石灰岩、こりこりとした歯応えの鉄鉱石。
ピーセギトーの手にかかれば王宮の食卓に並ぶ豪勢な食事にも劣らない御馳走へと変わる。
ばりばり、ぼりぼり、がりがりとファムは喜び勇んで食べ尽くす。
「やはり花崗岩は今朝採れ立てが一番だ!」
「さっきまで生きていたかのように新鮮な石灰石!」
「鉄鉱石の照り感と滑らかな口当たり、濃厚な風味が堪らない!」
あとを引く美味しさの野原、一見こってりしているがしつこくない河川、どこか懐かしい山々。
むしゃむしゃ、ごくごく、がぶがぶとファムは浮き立ちながら食べ尽くす。
「野原の焼き菓子は味わいを舌の上に残しつつも他の素材を邪魔せず、むしろその組み合わせ次第で新たな発見をもたらすな」
「河川茶は一見薄味ながら下流の甘味、中流の酸味、上流の苦味が絶妙に調和のとれた洗練された仕上がりだ。鮮やかな香りがまとまりを生んでいる」
「そしてこの山々の氷菓子。季節の移ろいを表した彩りで目を楽しませるだけではない。どこから攻めるか次第でまるで山道ごとに違った楽しみ方のある山登りのごとく挑戦し甲斐のある芸術だ」
かつては料理人として武者修行をし、料理仲間を求めて旅していたピーセギトーも、もはやファムを試食者、批評家という更なる高みを目指すための新たな協力者として受け入れていた。
しかしながら気が付けば辺り一面砂漠と化して、もはや人間はどこにもいなかった。食材も、雲には手が届いたが、星には手が届かず、砂料理が続いた。
ピーセギトーにかかれば千を超える砂料理を生み出せたが、無限には至れない。万に至る前にはピーセギトーは頭を悩ましていた。
「さて、どうしたものでしょう。ファムは飽きることのない大食漢。同じ料理を作ったところで気づきもしないでしょう。しかし問題は、仮に無限の調理法があったとしても、砂は無限にありはしないということ」
ファムもまたピーセギトーが悩んでいる姿を初めて見て、初めて気づく。満腹などという食べ物はどこにも存在しないのかもしれない、と。そしていずれ世界の全てを喰い尽くした時、永遠の飢えに苦しむことになるのかもしれない。ファムは初めて飢えの苦しみ以上の恐怖を覚えた。
「作り手の思いが入っている。これが欲しかったんだと思わせる。何だ? これは? これは肉じゃないか?」ファムは肉を噛み締め、うま味に震える。
「ええ、久しいでしょう?」
いつの頃か、多くの作り置きを残してピーセギトーは旅立った。ファムは疑いも持たずに待った。そして約束通りにピーセギトーは戻って来ると早速ファムのために料理を用意したのだ。
「もうこの世のどこにもないのかと思った」
「大袈裟ですよ。肉など無限にあります。好きなだけ食べてください」
「ああ、ああ、喰うとも。だがどこから持ってきたのだ?」
「あちらですよ」
ピーセギトーはファムの背後を指したが、太りに太った怪物ファムは振り返るのも億劫だった。どこから持ってきたにせよ、いくらでも肉が喰えるのはありがたい。
今日も明日もどこかの砂漠でファムは不思議な肉に舌鼓を打つ。