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「…これからどこに行こう?」
行かなくちゃ、と言ったものの、足を向けるべき場所に迷ってしまった。何の記憶もない私にとって、下手に動き回るのは危険だという直感だけはあった。
とにかく、歩いてみよう。
私はまだ少しふらつく足を支えながら、すぐそばの丘へと移動した。
丘の上から見下ろした森は、思わず息を呑むほど幻想的だった。青く澄み渡った空を背に、若葉色の木々が波に揺れる海藻のように広がっている。柔らかで波のような風が葉を揺らすたび、きらめく海の中にいるかのよう。私はまるで森という大海を泳ぐ小さな魚になったような気分に包まれた。
胸の内で静かに高鳴る興奮。その一方で、不思議な感覚が忍び込んでくる。見たこともないはずなのに、どこか懐かしい…落ち着く匂いがした。
丘から少し離れたところには大きな滝が虹を作っていた。金色の光に包まれた 水流は力強く落下し続け、轟音を響かせながら大地を揺らす。けれど、その音は決して不快ではなく、むしろ胸の奥のざわめきを鎮めてくれるようだった。
水しぶきが頬にかかると、光が跳ね返り、小さな虹が一瞬浮かんでは消える。まるで「ようこそ」と告げるかのように、森と滝が一体となって私を迎えている気がした。
「……扉、みたい」
思わず言葉が零れる。透明な滝つぼの奥に、知らない世界へ続く道が潜んでいる。そんな幻が頭をよぎり、心臓が高鳴った。
私は膝をつき、水面にそっと指先を沈めた。冷たい感触が一瞬で体を包み込み、指先から腕へ、さらに胸の奥へと沁み込んでくる。その感覚は、どこかで覚えている…それなのに思い出せない。懐かしいのに遠い、霧の向こうのような記憶だった。
「私は……」
その言葉の答えは返ってこなかった。まるで「まだ知ってはならない」と告げられているかのように、水面が揺れた。
私は水面に伸ばした手をさらに深く沈めた。この奥に何かがある、なぜかそう思ったから。けれど掴み取ったのは答えではなく、ただ冷たく澄んだ感触だけだった。
「……これは、私……?」
ふと目を上げると、水面に映る顔がこちらを覗き返していた。白銀の髪に薄緑色の瞳、そして薄汚れたワンピース。それは確かに私と呼ぶべき少女だった。けれどその表情はあまりにも無垢で、幼い。まるで触ったら壊れてしまいそうな、ガラスのような存在だった。
信じられなくて、水面を乱暴にかき混ぜた。波紋が広がり、顔は揺らいでいって、そのまま消えたはずだった。だが静まるとまた同じ姿が現れる。幾度繰り返しても、映るのは同じ少女。
「……私、なんだ……」
思わず声が震えた。「じゃあ私は誰?」という問いかけだけが頭をうるさくたたく。
重苦しい沈黙から逃げるように、私は滝を離れ森の中へと足を向けた。空気は瑞々しく、草木の匂いが心を落ち着けてくれる。それでも胸の奥のざわめきは消えず、ただ歩くことで必死に誤魔化していた。
やがて、一際鮮やかな赤が目に飛び込んできた。枝に連なる小さな果実。陽光に照らされて宝石のように光り、瑞々しい香りを漂わせている。
「……食べられるのかな」
無意識に手を伸ばし、一つもぎ取って口へと運んだ。
パクリ、と果皮が裂ける。瞬間、甘酸っぱい果汁が口いっぱいに広がり、舌を震わせた。冷たさと芳醇さが混じり合い、胸の奥まで潤していく。
「…美味しい!」
初めての食べ物がこんなに美味しいものだとは思ってもいなかった。思わず、もう一つもぎ取って口に運ぶ。心の中が、小さな幸福で満たされていくようだった。
けれど、その幸福は長くは続かなかった。 風のざわめきとは違う。規則正しく枝を踏みしめる音が聞こえた。
私は慌てて木陰に身を隠し、息を潜めた。心臓の音がいつもよりも大きく聞こえる。
視線の先に現れたのは、一人の少年だった。まだ幼い顔立ちだが、背には大きな薪を背負っている。額には汗が光り、歩みは少し重そうだった。
「……村人?」
その言葉が頭に浮かぶ。
記憶を失った私にとって、初めて出会う人間の姿。胸の鼓動が速くなり、緊張と期待が入り混じる。
少年は滝の近くまで来ると、薪を下ろして大きく息をついた。
その横顔はどこか真剣で、同時に寂しげにも見えた。
声をかけるべきか、それともまだ隠れているべきか。
胸の内で迷いが渦巻く。けれど、再び心の奥であの声が囁いた。
「世界の真実を知れ」
まるで背中を押すかのように、声は強く響いた。
私はそっと一歩、少年の方へ踏み出した。