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私は落ちてきた髪を指先で払いつつ、意を決して木陰から一歩踏み出した。心臓がやけに大きく鳴り、耳の奥でどくどくと波打つ。
ゆっくり、ゆっくり、相手を驚かせないように静かに歩を進める。けれど緊張で足先が震え、力の入らない足は無情にも小枝を踏みしめてしまった。
パキッ――。
乾いた音が森の空気を裂く。その瞬間、少年の肩がびくりと揺れ、怯えた瞳がこちらを射抜いた。
「だ、誰……?」
幼さを残した声。けれど必死に張りを持たせ、恐怖を押し殺そうとしているのが伝わってくる。勇気を振り絞ったその言葉は、私の胸に突き刺さった。
「あっ……」
口を開きかけたが、すぐに言葉が詰まった。喉が張り付いたように動かない。
どうしても思い出せない自分の名前。頭を掻きむしりたくなるほど霧が濃く、指先さえも掴めない。
「わ、私は……」
そこで声が途切れ、胸が締め付けられる。自分が何者なのか、どこから来たのかさえ答えられない。まるで空っぽの器のように、ただここに立っているだけ。私は…白紙の存在なんだ。
その瞬間、忘れたい問いが再び頭を支配する。
――私は誰?
少年はおびえたように一歩後ずさった。肩にかけていた薪の束がガサリと揺れ、乾いた音を響かせる。
その顔は恐怖でいっぱいだった。瞳が怯え、震える唇が何かを訴えかけるように震えている。
「お、お兄ちゃんっ!!」
張り裂けそうな声。助けを求める必死の叫び。
胸の奥で黒い靄が渦を巻いた。ぐるぐると、暴れるように広がっていく。
――私は、こんなにも幼い子供にすら恐怖を与えてしまう存在なのか?
その思いが針のように心臓を突き刺し、黒い影となって心を覆い尽くす。
これは何だろう。自分に対する恨み? それとも……。
少年の恐怖に歪んだ顔を見て、胸を締め付けていた靄の正体が少しだけわかった気がした。
――私は、自分自身を恐れている。
正体のわからない自分を。 どこから来たのかもわからず、何者かさえ知らない自分を。
その得体の知れなさが、自分自身を追い詰め、恐怖となって現れているのだ。
息が荒くなり、胸が強く締め付けられていく。堪えきれず、薄汚れた白いワンピースをぎゅっと握りしめた。
「……っ、ごめん!!」
気づけば声を上げ、体は勝手に 森の方へ駆け出していた。木々の根に足を取られ、何度も躓きそうになる。枝が頬をかすめ、草が足首を切る。俯く視界に赤い一筋の水が流れたが、痛みを感じる余裕もなく、ただひたすらに走った。
後ろを振り返ることはできなかった。振り返れば、またあの恐怖の顔と向き合ってしまう気がしたから。
「ま、待って!」
少年の声が追いかけてくる。小さな足で懸命に追いすがる音が、葉をかき分ける音と混じってどんどん近づいてきた。
ーーごめんね…
そんな思いとともに、私の足は更に震えを帯びていく。
「来ないで……っ!」
必死に叫んだ声は震えて、涙混じりだった。懸命に走る足はもう限界で、視界が揺れ、喉は焼けるように乾いていく。
その時だった。
「リオ!」
低く、落ち着いた声が森を切り裂いた。私は、はっとして立ち止まる。前方の木々の隙間から、一人の青年が現れたのだ。
彼は少年と似た顔立ちをしていた。けれど背は高く、体は引き締まり、片手には小さな斧を握っている。その姿は幼い弟を守る盾そのものだった。
「お兄ちゃんっ!」
少年――リオは駆け寄り、青年の後ろに隠れるようにしがみついた。肩で息をしながらも、必死に兄の服を掴んでいる。
青年は私を鋭く見据えた。黒曜石のような瞳が森の光を反射し、まるで心の奥まで見透かすようだった。
「……お前は誰だ?」
短く放たれた問いに、体が凍りつく。答えようとしても、何一つ言葉が出てこない。胸の奥で霧が渦巻き、喉を塞いでいく。
「私は…誰?」
かろうじて絞り出した言葉は弱々しく、中身のない空っぽな言葉だった。
「…自分の名前も、好きなものも、何もかも知らない…。私は誰?」
困惑した頭を抱えるようにしてうずくまる。もう、何もかもがわからない。ずっと白紙の存在。
「えっ、おいっ!」
――えっ…?薄くかすんだ目に映ったのは青年たちの足元。土の匂いがやけに近く感じて、体の半分が冷たい土に触れる。
「あれ、私倒れて…」
最後まで聞こえたのは消えない問い。
――私は誰?
その問いは私の意識を段々と奪っていった。