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草原草原(くさはらそうげん)

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local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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「あの夜のこと?」
梢は、笑いを顔に戻した。戻すのに、少しかかった。
「火事のこと? あんたが、あたしの部屋に火をつけた夜の」
「私は、つけていません」
千歳は言った。
「倒した覚えも、ありません。倒さなかった覚えも、ありません。あの部屋に入ったとき、もう、燃えていました」
「母様が言ってたわ。あんたが行灯を倒したって。あんたが、熱で寝てるあたしの部屋に入って、行灯を――」
「梢」
千歳は、式台を下りた。
下りて、梢の前に立った。玄関の灯りが、二人の間に落ちている。梢は、千歳より少し低い。十年前は、もっと低かった。
「あの夜。あなたを抱えて、煙の中を出たのは、私です」
梢の口が、止まった。
「あなたは、熱で眠っていました。呼んでも、起きなかった。だから、抱えました。戸が、煙で見えなくて、手で探って」
千歳は、右手を出した。
灯りの下に、痕がある。赤く、引きつれた痕。
「この手は、そのときのものです。あなたを抱えて、戸に手をついたときの」
梢は、その手を見た。
長く、見た。千歳は、待った。梢が、何かを思い出すのを。梢の中のどこかに、あの夜の煙が、残っているのを。十年、そう思っていた。梢が、知らないだけだと。知れば、何かが、変わると。
梢は、顔を上げた。
「……だから、何?」
千歳は、手を下ろさなかった。
「だから、何なの。あんたが抱えて出たから、何? その手が気味悪いのは、同じよ。燃えてる部屋に入った人の手なんて、気味が悪いに決まってるじゃない」
梢は、扇を開いた。持っていたのだ。開いて、口元を隠した。
「母様が言ってたわ。あんたが倒したって。あたしは、母様を信じる。あんたのことなんか、信じない。十年、台所にいた人の言うことなんか」
玄関の灯りが、梢の扇の上で、揺れていた。
千歳は、手を、下ろす。
変わらない。梢は、変わらない。知っても、変わらない。そういうものなのだと、千歳は、今、知った。知らなかったのではなく、知りたくなかっただけなのだと。
胸の中で、何かが、一つ、静かに畳まれた。十年、広げたままだったものだ。梢が知れば、という、たたみ損ねた布のようなものだ。
「それに、どうでもいいの、そんなこと」
梢は言った。
「桂木様とのお話は、止まったわ。新聞のせいで。それと、血筋がどうとか、あちらの母御が。母様が、何とかするって言ってるけど」
口が、滑っていた。梢は、気づいていなかった。
「だから、あたしは、御堂夫人になるしかないの。分かる? あんたの身代わりのせいで、あたしの縁談は壊れかけて、だから、あんたがどいて、あたしがここに座るの。それで、全部、元どおり」
千歳は、梢を見ていた。
元どおり。梢の言う元どおりは、千歳が台所にいて、梢が座敷にいる、あの家だ。あの家には、もう、とよもいない。鏡台も、琴も、帯留めもない。藤乃の着物も、二枚、ない。元どおりになるものが、あの家には、もう、ほとんど残っていない。それを、梢は、知らない。知らないまま、御堂夫人になる、と言っている。
怒りは、来なかった。来るかと思った。来なかった。代わりに、一つの言葉が、静かに、座った。
お帰りなさい。
「お帰りなさい、梢」
千歳は言った。
「権田が、門まで送ります」
梢の扇が、止まった。
「……あんた、今」
「お帰りなさい」
権田が、玄関の脇から出てきた。帽子を取って、頭を下げた。梢は千歳を睛んで、それから、きびすを返した。
「明日、覚えてなさい」
梢は、千歳の腰の鍵束を、最後にもう一度見た。見て、何も言わずに、権田の後ろを歩いていった。
人力車が、門を出ていった。
振り返ると、三人、立っていた。
お初。文。とよ。玄関の奥に、並んでいた。いつから、そこにいたのか。千歳と梢の、全部を、聞いていたのだろう。
誰も、何も言わなかった。
文が、先に口を開いた。
「奥様は」
声が、震えていた。震えたまま、言った。
「奥様は、奥様です」
お初が、文を止めなかった。止めずに、自分で言った。
「膳は、明日も、奥様が。離れのは、あたしが運びます。奥様の整えた膳を」
とよは、何も言わなかった。前掛けで手を拭いて、千歳の袖に、触れた。袖の先を、指で押さえた。濡れていないのを、確かめるように。
「咲子様も」
とよが、小さく言った。
「お嬢様くらいの歳に、あの屋敷で、同じように、立っておいででした。後ろに、あたし一人を置いて」
千歳は、三人を見た。
十年、後ろに誰もいなかった。台所で、土間で、一人だった。今、三人いる。
「……ありがとう」
それだけ言えた。言って、頭を下げた。奥様が、使用人に、頭を下げる。柘植がいたら、何と言うだろう。
文が、「奥様、顔を上げてください」と言って、自分が先に泣いた。お初が「文」と言ったが、お初の声も、少し、おかしかった。
廊下の奥に、柘植がいる。
時計を、出している。見て、懐に戻して、何も言わない。
言わずに、廊下を、こちらへ歩いてくる。三人の後ろに、立つ。立って、言った。
「明日」
時計を、もう一度、出した。
「私が、門に立ちます」
コメント
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第28話、読み終えました。 「だから何?」—— 梢のあの一言が、ずしんと来ました。千歳が十年抱えていた「知れば変わる」という願いが、音を立てて折れた瞬間。でも千歳は怒らず、恨み言も言わず、「お帰りなさい」と挨拶を返す。その静かさと強さに、切なくなりました。 最後の三人(お初、文、とよ)の「奥様は奥様です」「膳は明日も奥様が」という言葉も沁みます。台所に一人だった千歳の後ろに、今は彼女の味方が立っている。柘植の「明日、私が門に立ちます」という締めも、頼もしくてじんわり来ました。 梢が「元どおり」と言った家には、もう何も残っていないという皮肉も効いていて、構成が本当に巧いなと。続きが気になる — いや、もうこの一話だけでも十分な重みがありますね。