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草原草原(くさはらそうげん)

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local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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門の外で、自動車の大きな音がした。
一台ではなかった。二台。それに、人力車が一台。
千歳は広間の窓から、それを見ている。柘植が門に立っている。背筋を伸ばして、懐に時計をしまったまま。
恭介が、先に降りる。新しい扇子を持っている。その後ろに、年寄りが一人。それから、見たことのない男が二人。背が高く、恭介の供だと、一目で分かる。
人力車から、藤乃が降りた。
襟を正している。髪を結っている。藤乃だけだ。梢は、いない。
柘植が、何か言う。恭介が、扇子で柘植を押しのける。押しのけられた柘植は、倒れない。倒れずに、一歩、下がる。下がって、一行の後ろから、ついてきた。
お初が、千歳の後ろに来て、小さく言った。
「奥様。あたしたちは、ここにいますよ」
千歳は、窓から離れた。
腰の鍵束が、鳴った。
「玲司は、留守だな」
恭介は、広間の椅子に座らなかった。立ったまま、言った。
「大阪だ。あと二日は帰らん。その間、当主不在の御堂の家は、分家が預かる。親族もそう決めた」
年寄りが、頑いた。一人だけの年寄りが、恭介を見て、頑いた。
「夫人。奥向きの鍵を、こちらへ。それから、離れの鍵もだ。柘植が持っているのだろう」
千歳は、広間の真ん中に立っていた。
座らなかった。膝も、つかなかった。腰の鍵束に、右手を置いた。
「預かりものでございます」
声は、小さかった。
「お渡しできません」
「預かりもの。誰から」
「旦那様から。留守を、と」
叔父が来ても、渡すな。玲司は、そう言った。鍵束を、この両手の上に置いて。それから、電報で、信じている、と。
千歳は、鍵束の上の右手に、力を入れた。
恭介が笑った。
「身代わりの女が、留守を預かるか。玲司も、落ちたものだ」
扇子が、掌を打った。
「ついでに言っておく。有明の屋敷は、御堂の抵当だ。分家が預かれば、差し押さえる。奥方は、それで承知しておられる。娘御を、この家の奥に入れる代わりにな」
藤乃は、何も言わなかった。言わないことが、答えだった。
「有明の奥方。この女のことを、親族に、聞かせてやってくれ」
藤乃が、一歩、前に出た。
整った声で、言った。
「この女は、十年前、有明の家で、行灯を倒して火を出し、熱で寝ていた妹を、焼き殺しかけた女でございます」
広間が、静かになった。
「御堂様は、火で、お父上を亡くされたとか。その御堂の家に、火を出した女を、置いておくわけには。また、火を出す前に」
千歳の手が、震えた。
鍵束の上で、震えた。震えているのが、分かった。分かっても、止められなかった。十年、聞き続けた言葉だ。お前が、倒したのね。不吉な手。穴埋め。
「嘘で、ございます」
声がした。
広間の戸口に、とよが立っていた。前掛けをしている。お初がくれた、新しい前掛けだ。腰を曲げたまま、戸口から、一歩、中へ入った。
「あの夜、奥様は、家に、いらっしゃいませんでした」
藤乃の顔が、とよに向いた。
「お嬢様が、梢様を抱えて、煙の中を出てこられたとき、奥様は、いらっしゃいませんでした。あたしが、この目で。あたしが、十年、口止めされて」
「とよ」
藤乃の声が、変わった。整いが、剥がれた。
「お前、誰の飯を食って、十年」
「咲子様の、お嬢様の」
藤乃が、動いた。
とよに向かって、手が上がった。
千歳は、動いていた。
考える前に、足が出た。とよの前に、体を入れた。藤乃の手と、とよの顔の間に。
手は、来なかった。
千歳の顔の前で、止まっていた。藤乃の手が、千歳の目の高さで、止まっている。
千歳は、見上げなかった。同じ高さだ。藤乃の目が、すぐそこにある。
「奥様」
千歳は言った。
「とよには、手を上げないでください」
藤乃の手が、下りた。
「奥様に」
柘植の声だった。柘植が、いつの間にか、千歳の前に出ていた。千歳と藤乃の間に、背筋を伸ばして、立っていた。
「手を上げる方は、御堂の敷居を、跨がせません。お引き取りを」
恭介が、扇子を閉じた。
「柘植。お前も、落ちたな」
「私は、御堂の家令でございます」
「ならば」
恭介は、庭のほうを見た。窓の向こうに、梅の木の列。その奥の、離れ。
「離れだ。鍵がなくとも、戸は破れる。開けて、狂女を出せば、玲司は終わりだ。親族の前で、終わる」
恭介が、顎で合図した。
供の二人が、動いた。広間を出て、庭へ。足が速かった。
千歳は、走る。
鍵束を抱えたまま、広間を抜けて、縁側から庭へ下りる。草履を履く間が、ない。足袋のまま、土を踏んだ。
梅の木の間を、抜ける。焦げた一本の横を、抜ける。
離れの戸が、ある。
千歳は、その戸に、背をつけた。
供の二人が、追いつく。千歳の前で、止まる。背の高いほうが、千歳を見下ろした。
「どいてもらう」
千歳は、動かなかった。鍵束を、胸に抱えていた。
後ろから、恭介の声がする。藤乃の足音がする。柘植の声が、お初の、文の、とよの声がする。全部、遠い。
背中の戸は、冷たい。内側で、何かが、動いた気がした。
目の前の男が、手を、上げた。
千歳は、戸から、離れなかった。
コメント
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第29話、読み終えました。鍵束を胸に、離れの戸に背をつけて立つ千歳の姿に、ぐっときましたね。とよが「あの夜、奥様は家にいらっしゃいませんでした」と証言する場面、あれは本当に重かった。十年、口止めされていた言葉が、ようやく千歳の側に届いた瞬間。恭介の「鍵がなくとも戸は破れる」という冷たい言葉と、それでも動かない千歳。鍵束が単なる道具じゃなく、玲司からの信頼そのものに感じられて、最後まで目が離せませんでした。続き、気になります。