テラーノベル
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控えめに扉が叩かれた時、私は窓辺の椅子に座っていた。
閉めたカーテンを何度も開けて外を確かめ、とうとう椅子まで運んできてしまったのだ。
「マチルダ。灯りがついているが、まだ起きているか?」
控えめなノックの後に、小さいお兄様の声。
私は立ち上がり、扉を開けた。
お兄様は、もう黒い鎧を着ていなかった。白いシャツに黒い上着。髪が少し乱れているけれど、怪我はない。
そこでようやく、扉の取っ手を離せた。
「お帰りなさいませ、お兄様」
「ただいま。遅くまで起こしてしまったな」
「いいえ。ご無事なら、それで十分です」
そう言って微笑もうとしたのに、うまくできなかった。
お兄様は私を見て、少し首を傾げた。
「俺が戻らないと考えていたのか?」
「お兄様が負けるとは思っておりません」
「ならば、待たずに休んでいればよかったのに。王宮へ事後処理に行ったので思ったより、遅くなった」
私はお兄様を見つめた。
真顔だ。冗談ではない。本当に、そう思っていらっしゃる。
「どうすれば眠れたのか、教えていただけますか」
お兄様が何か言う前に、私は続けた。
「夜中に鎧を着て出ていかれたのです。いつお帰りになるかも分からないのに、私だけベッドに入って、朝まで眠っていればよかったと?」
「マチルダ。今夜、俺に危険はなかった。正式な任務でもない」
「それを私は、どこで確かめればよかったのですか!」
廊下に響いた自分の声に、私自身が驚いた。
けれど、もう自分の気持ちを引っ込める気にはなれなかった。私は部屋の中へ下がった。
「お入りください。まだお話は終わっておりません」
お兄様が入ってから、扉を閉めた。思ったより大きな音がしたが、謝らなかった。
「ご無事なら十分だと申し上げたのは、私です。でも、待たなくてよかったとまで言われるのは、心外です」
「そんなに心配させたとは思わなかった。すまない」
「そんなに?」
私は聞き返した。
「どのくらいだと思っていらしたのですか。少し気になって、たまたま起きていたとでも?」
「いや、そういうつもりでは――」
「何度も窓を見ました。馬の音がすれば、お兄様かと思って立ち上がりました。違うと分かって座り直して、そのたびに、こんな心配は必要ない、お兄様なのだからと、自分に言い聞かせていたのです」
椅子は窓に向けたままだった。
お兄様もそちらを見た。私は椅子の背を握り、続きを言おうとして、一度息を吸った。
「それなのに、お帰りになったお兄様まで、心配する必要はなかったとおっしゃるのですね」
「マチルダ」
「私が待っているのは、ご迷惑ですか」
「迷惑なものか」
「出る前に理由を教えて下さればよかったのに!」
「今日の件に、お前を関わらせたくなかった」
「せめて、お戻りになる時間を伝えて下さい!」
言った途端に涙がこぼれた。
悔しくて、すぐに拭った。泣きたくて話しているのではない。ちゃんと聞いてほしいのに、これでは慰められて終わってしまう。
「お兄様は、私が一人で出かけても平気なのですか。私が勝てる相手だと分かっていれば、何時に帰るかも聞かずに、お休みになれるのですか」
「……眠れないだろうな」
「でしたら、どうして私には、そうしろとおっしゃるのですか!」
お兄様は言い返さなかった。
私は椅子から離れ、お兄様の前に立った。
「私だって、お兄様が大切なのです。守っていただいて、ありがとうございますと申し上げるだけでは嫌なのです。どうして、そんなことまで言わせるのですか」
最後は、まともな声にならなかった。
お兄様が上着からハンカチを取り出した。私は受け取らず、顔を背けた。
「マチルダ、涙を」
「放っておいてください」
お兄様が困ると分かっていて、言った。
いつもなら、差し出してくださるものは何でも嬉しい。けれど今は、それを受け取って、お礼を言うことさえしたくなかった。
「悪かった。俺が無事を確信しているなら、そのまま安心して眠れると思っていた。待っている間のことを考えていなかった」
「私が泣かなければ、お気づきにもならなかったのですね」
お兄様は答えなかった。
責めすぎている。そう思ったのに、振り向くと、また言ってしまった。
「いつも私には、大丈夫か、困っていることはないかと聞いてくださるのに。ご自分のことになると、私には何もさせてくださらない。待つことまで、しなくてよかったなんて……!」
「待っていてくれたことは、嬉しい」
「今になって、おっしゃらないでください!」
お兄様の上着をつかみかけて、やめた。自分で放っておいてと言ったばかりだ。
私は両手を握り、俯いた。お兄様がすぐそばにいるのに、どうすれば普通に話せるのか、もう分からなかった。
「……どうして、こんなことになるのですか」
お兄様に聞いたのか、自分に言ったのかも分からない。
「帰っていらしたら、お帰りなさいと申し上げようと思って。それだけだったのに」
「俺が余計なことを言った。お前の顔を見て、ただいまと言えた。それを喜べばよかったんだな」
私は返事をせずに、袖で涙を拭った。
お兄様はハンカチを差し出したままだった。私が今度は受け取ると、お兄様が小さく「ありがとう」と言った。
「……私の方がお礼を申し上げるのが普通ではありませんか」
「受け取ってくれたから」
そんなことにまでお礼を言わせてしまった。
私はハンカチを目に押し当て、しばらく黙っていた。お兄様も、もう泣くなとも、早く寝ろとも言わなかった。
「次も、黙って出ていかれるのですか」
「出る前に、お前に話す。急ぐ時でも、伝言は残す」
「お帰りになる時間も、教えてください」
「ああ。分かる時は伝える。分からない時は、約束できないと言う」
必ず何時までに戻ると言われても、信じて待つしかない。守れない時間を告げられるよりは、その方がよかった。
私は頷いて、それでも言い足した。
「私が待つかどうかは、私に決めさせてください」
「分かった。帰ったら、先にここへ来る」
「起きていても、早く寝ろとはおっしゃらずに?」
「ああ。ただいまを言いに来る」
私はハンカチを下ろした。
お兄様はまだ目の前にいて、私が話し終えるのを待っている。あれほど声を荒らげたのに、一度も怒らなかった。
「私も、大きな声を出して申し訳ありませんでした」
「謝らなくていい。それだけ待たせたんだな」
「ひどいことも申し上げました。迷惑だなんて、本当は思っていません」
「ああ。それは訂正してくれると嬉しい」
私は頷いた。今度はためらわず、お兄様の上着をつかんだ。
「放っておいてと申し上げたのも、取り消します」
「ああ」
「もう少し、いらしてください」
「もちろん」
その返事を聞いてから、お兄様に抱きついた。
お兄様は何も言わず、抱きしめてくれた。顔を上げられるまで、私はそのまま甘えさせてもらった。
椅子を窓から戻そうとすると、お兄様が動かしてくれた。私はそこへ座り、お兄様にはベッドの端を勧めた。
向かい合って座ってからも、しばらくハンカチは手放せなかった。
「クララも、無事ですか」
「ああ。一緒だったことに気づいていたんだな」
「窓から、お二人が出ていくところを見ました。クララはまだ戻らないのですか?」
「後の処理を任せてある。もう少しかかる」
「分かりました」
後の処理。その言葉で、何をしてきたのか尋ねかけた。
聞けば、お兄様は私に隠さず話してくれる。けれど、私はハンカチを畳み直しただけだった。詳しいことを聞くのは、やはり恐ろしかった。
「もう大丈夫です。お兄様も、お休みください」
「一人で平気か?」
「はい。どちらにいらっしゃるか、今度は分かっていますから」
お兄様は苦笑した。
「自分の部屋にいる。用があったら、いつでもおいで」
「では、このハンカチをお返しに伺います」
「明日でいいぞ」
「はい。明日、お返しします」
お兄様を扉まで見送って、おやすみなさいと挨拶をした。
今夜は怒ってばかりだったけれど、明日の朝は普通にお話ししたかった。お兄様が廊下の先の自室へ入るのを見届けてから、私も部屋へ戻った。
カーテンを閉め、燭台の火を消す。今度こそ、ベッドで休むことができた。
翌朝、私はお兄様と同じ馬車で学園へ向かった。
ナイジェル・フェアファクス様が夜会から帰らないまま行方不明になったというニュースが、学園の掲示板に張り出されていた。
そして数週間後、学園では別の噂が広がった。
「灰狼傭兵団が捕まったそうです」
昼休み、生徒会室でジュリアン会長が静かに告げた。
「どこの国にも属さない、悪名高い傭兵団ですよね?」
私が聞き返すと、ジュリアン会長は頷いた。
「ええ。この国へ無断で入った直後、団員全員が逮捕されたそうです。過去に他国で行った戦争犯罪も明らかになり、全員の処刑が既に決まったと聞きました」
アリス様が厳しい表情で腕を組んだ。
「そんな連中が王都の近くまで来ていたなんて。捕まったのが入国直後でよかったわ」
隣に座るお兄様は、本を読んだまま顔を上げなかった。
「そうだな。何も起きなくてよかった」
穏やかな、いつものお兄様の声だった。
私は返事の代わりに、自分の机へ置いていたカップを口元へ運んだ。温かい紅茶を一口飲んでから、お兄様の横顔を見る。
お兄様は私の視線に気づくと、何事もなかったように微笑んだ。
自転車和尚
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コメント
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うわぁ…今回のマチルダちゃんの感情爆発、めちゃくちゃ刺さった😢 普段あんなにお兄様に気を使ってる子が、心配で眠れずに待ってたのに「心配する必要なかった」なんて言われて、溜まりに溜まった想いが溢れ出るシーン、すごくリアルだった。 抱きついて「もう少しいて」って素直に言えたのも、兄妹の絆がちゃんと深まってる証拠だよね。 最後の傭兵団の件、お兄様のあの穏やかな微笑みが逆に怖かった…!さすがです🔥