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カレンさんとのあの激動の和解から、1週間が過ぎた。
あの日から数日私もお休みを貰っており、昨日仕事を再開したばかりだった。
屋敷を覆っていた刺すような緊張感は嘘のように消え、驚くほど穏やかな空気が流れている。
カレンさんは現在、ディオール様の配慮で長期休暇を取っているけれど
時折キッチンや廊下で顔を合わせると、少しだけきまり悪そうに、けれど真剣な眼差しで私に声をかけてくれるようになった。
「……昨日の窓拭き、少し拭き跡があったわよ。四隅から円を描くように磨きなさい」
それは以前のような、私を追い詰めるための棘を含んだ罵倒ではない。
経験に裏打ちされた、本当の先輩としての、厳しくも温かい助言だった。
自分を大切にすること。美味しいものを食べ、温かい場所で眠り、誰かに必要とされること。
その喜びを少しずつ覚え始めた私だったけれど、ある日の午後、その平穏を鋭く切り裂くように「それ」は届いた。
「──ラヴィ。少し、話がある。中へ入っておいで」
執務室から聞こえてきたディオール様の声は、いつになく低く、重かった。
扉を開けると、そこにはかつてないほど険しい表情を浮かべたディオール様が、一通の手紙を机に広げていた。
目を凝らして見なくてもわかった。
その手紙の封蝋に刻まれているのは、思い出すだけで吐き気がする、私の実家の紋章。
私を地獄へ突き落とした、あの忌まわしい家からの便りだった。
「君の父親からだ。『行方不明だった娘が騎士団長の屋敷にいると聞いた。連れ戻しに行く』……とな」
その言葉が鼓膜に触れた瞬間
私の全身から、まるで魔法で抜かれたかのように血の気が引いていった。
指先から震えが始まり、膝がガクガクと音を立てる。
視界がちかちかと歪み、部屋の空気が急激に薄くなったような錯覚に陥った。
「嫌……っ、いやです……。戻りたくない、あそこには……っ」
喉の奥が引き攣れ、悲鳴に近い拒絶が漏れる。
またあの地下室に閉じ込められるのか。
また食事を抜かれ、髪を切られ、ゴミのように扱われる日々が始まるのか。
恐怖で過呼吸になりそうな私に、ディオール様は逃げ場を失った私の両手を、大きな掌で包み込むように握りしめた。
「ラヴィ、落ち着いて。大丈夫だよ、僕がついている」
その圧倒的な体温と力強い声。
熱を帯びた彼の掌が、私の震えを物理的に押さえつけるように伝わり、辛うじて意識の糸を繋ぎ止めてくれる。
「彼らはこうも書いている。『娘は精神を病んでおり、騎士団長に迷惑をかけているに違いない。治療のために引き取る。迷惑料として相応の金子を用意しろ』と。……呆れた言い分だ」
ディオール様の碧眼が冷たい氷、研ぎ澄まされた剣の刃のように鋭く細められた。
彼らが私を心配して連れ戻そうとしているはずなんてない。
彼らにとって、私はただの「金蔓」に過ぎないのだ。
行方不明だった出来損ないが、運良く騎士団長の屋敷に転がり込んだと聞き、私を返してほしければ金を払えと───
そんな「揺すりの道具」にするつもりなのだ。
「いいかい、ラヴィ。僕は君を渡すつもりなど毛頭ない。彼らの不当な要求など、力ずくで追い返すことも容易だ。……だが、それでは君の心の中にある『恐怖』は消えないだろう」
ディオール様は私の目をじっと見つめ、魂に語りかけるように、優しく、けれど力強く言葉を紡いだ。
「彼らは明日、この屋敷にやってくる。……ラヴィ、君はどうしたい?」
「……っ」
「もちろん逃げて部屋に隠れていてもいい。私がすべてを終わらせよう。だが、もし君が『自分の足で立ちたい』と願うなら、僕は全力でその背中を支える」
「……私の、足で……」
「そうだ。君はもう、一方的に踏みつけられるだけの無力な存在じゃない。僕の大切な専属メイドであり、一人の尊い女性だ。君が自分の口で『拒絶』を示すことができれば、それは君の呪いを解く鍵になる」
私は震える手で、ディオール様の完璧に整えられた騎士服の袖をぎゅっと掴んだ。
怖い。
想像するだけで、お父様たちの顔を見るだけで、あの冷酷な声を聞くだけで
私はまたあの「無能なゴミ」と呼ばれていた自分に逆戻りしてしまう気がする。
けれど。
絶望の海から私を拾い上げ、ボロボロだった私の手を「素敵な名前だ」とお世辞だとしても、愛しんでくれた人がいる。
私のために、ここまで激しく怒り、守ろうとしてくれる人がいる。
この人の隣で、いつか胸を張って、ふさわしいメイドとして生きていきたい。
いつの間にか、そう思っていたのだ。
「……私、会います。会って、言いたいです。私はもう、あなたたちの人形じゃないって」
絞り出すような私の言葉に
ディオール様は今日一番の、そしてこれまでで最も誇らしげな微笑みを浮かべた。
その碧眼には、私を信じる揺るぎない光が宿っている。
「よく言ってくれた……途中で不安になったとしても、安心してほしい。君の後ろには、帝国最強の騎士団がついている。何一つ恐れることはないよ」
◆◇◆◇
その夜───…
私は期待と不安で一睡もできなかった。
けれど、孤独ではなかった。
明日、私は過去を捨てる。
この黄金の騎士様…ディオール様が、私にくれた「自由」と「居場所」を守るために。