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「宏章さん、顔を上げて」
宏章はゆっくりと、そして恐る恐る顔を上げた。
「君がさくらを大切に想ってくれている事は、充分伝わったよ」
佳臣はそう言って、穏やかな笑みを浮かべた。隣で聞いていた遥子は、感動からうっすらと涙を浮かべていた。
「僕たちの知らなかった、さくらの姿を教えてくれてありがとう」
佳臣は目を閉じて、静かに宏章へ語り始めた。
「宏章さん……僕はね、まだ雅高とさくらが幼かった頃は仕事が忙しくて、家族と充分に向き合う事が出来なかったんだ。というよりも、向き合おうとしなかったと言った方が正しいかな。当時は大きな企業の役員を務めていてね……、そのプレッシャーとストレスから、家族に辛く当たる事もあった。そんな事、何の言い訳にもならないんだがね……」
佳臣は苦笑いして、ため息をついた。
「子どもたちの事は、すべて妻に任せきりで……何かあれば全て妻のせいにして……僕は仕事も家庭も上手くいっていると思い込んでいた。僕が感じていたプレッシャーを、そのまま妻と子ども達にも同じ様に与えてしまっていたんだ。だけどさくらも年頃になって、だんだんと意思表示をする様になって……。さくらが芸能界に入りたいと言ったとき、その夢に対して下らないとすら思っていた。だけど余りの熱意に僕が折れて……雅高が優秀だったから、それでさくらが丸く収まるならと、内心面倒だと思っていたんだ」
佳臣はだんだんと表情が曇っていった。
「その後のAV出演の話は、まさに青天の霹靂だった。我々に話をしに来た時は、さくらの決意はもうすでに固まっていて、契約も済ませていた。僕はその時ですら、何て事をしてくれたんだと、自分の保身の事しか頭になかった……さくらを守ろうとせずに、切り捨てたんだ」
佳臣は苦悶の表情を浮かべていた。
隣で聞いていた遥子は俯いて、ハンカチで口元を押さえていた。
「時を同じくして、僕の会社が不祥事を起こしてね……、あっという間に全てが崩れていったよ。僕は役職を降りて、事業も大幅に縮小して……。今まで家族の為に頑張ってきたつもりが、すべて壊れてしまったんだ。その後しばらく抜け殻の様に毎日を過ごして……、家でもほとんど会話をする事もなくなって……。人生が無意味なものだと感じていた頃に、さくらがAV女優を引退するという事を知ったんだ。その後、有名な監督の映画に出演すると聞いて、そこからドラマにも少しずつ出る様になって……。僕はふと、一人でさくらの出演した映画を観に行ったんだ。観終わった後、僕は震えが止まらず、気付いたら涙を流していた。宏章さんがさっき言ったように、ここまで来るのにどれ程努力したのか……。涙を流したのなんて人生で初めてだった。その時にやっと、自分が間違っていた事に気付いたんだ」
佳臣はふうっと息を吐いて、顔を上げた。
「家族を壊したのは、さくらじゃなくて僕なんだ。それに気付いてからは、ずっと後ろめたさだけが残って……。今さら気付いても遅いと、さくらに会うのを長いこと躊躇っていたんだが……。雅高が間に入ってくれて、ついこの間ようやっとさくらに会えて。久しぶりに会って驚いたよ。見違える様に穏やかな表情をしていて……幼い頃は表情が乏しい子だったから。だけど今日宏章さんに会って、その理由が分かったよ」
佳臣は穏やかに微笑んで、宏章に向かってすっと頭を下げた。
「宏章さん、さくらの事をどうかよろしくお願いします」
宏章は佳臣の言葉を聞いて、これ以上ない程に胸が一杯になった。そして声を振り絞って、一言「はい」と返事するので精一杯だった。
少し間を置いて、遥子が宏章に語りかけた。
「……さくらにプレッシャーを与えていたのは、私も同じなの。ううん、主人以上にプレッシャーを与えていたのは、実は私の方かもしれない」
遥子は溢れる涙を、ハンカチで押さえていた。
「私は周囲に、いい母親だと思われたいという気持ちばかりが先行して……いつしか雅高とさくらが、私達に何を望んでいるのか考える事もしなくなっていたの。自分の理想ばかりを押し付けて……、私は母親失格ね」
遥子のその言葉を聞いて、宏章はさくらと過ごした初めてのクリスマスを思い出した。
「お義母さん……さくらが昔一度だけ、お義母さんの事を話してくれた事がありました。毎年クリスマスになると、苺のケーキを作ってくれたんだって。今でもそれが一番好きだって、その時教えてくれたんです。僕にはそれが、お母さんの事が大好きだって言ってるように聞こえました。子どもにとって、母親は世界の全てなんです。それは今でもそうなんだと思います。僕もそうでしたから」
宏章は穏やかに遥子へ語りかけた。
それを横で聞いていた佳臣が、ハッとして宏章へ問いかけた。
「宏章さん、結婚の事はご両親には?」
「父はすでに亡くなっていて、母には報告をしました」
佳臣は、さくらの過去を宏章の母がどう受け止めたのか気になっていたのだ。
「母はさくらのありのままを受け入れて、僕たち二人を祝福してくれました。過去については、さくらが自分の口から母に話したいと言って、母とさくらが二人きりで話をしました。僕から母に話そうかと言ったんですが、さくらは僕の大切な人には誠実でありたいと言って……。二人の間にどんな話があったのかは、僕にも分からないんです。女同士の秘密だって教えてもらえなくて」
宏章は苦笑いした後、伏目がちになりながら続けた。
「母は半年前に癌が見つかって……、これはまだ二人には伝えていないのですが……。医師から、母はもう長くないだろうと言われています。けれど、母はそれを薄々感じ取っているようです。母は娘が出来た様だと喜んで、さくらと過ごす日々を心から楽しんでいます。僕は、あんなに楽しそうな母の姿を久しぶりに見ました。僕たち親子にとって、さくらはかけがえのない大切な存在なんです」
佳臣と遥子は驚いて、なんと声をかけたら良いのか迷っている様だった。
「そうだったのか……、なんて言葉をかけたら良いのか……」
佳臣は言葉を詰まらせた。
「いえ、こちらこそ驚かせてしまいすみません。僕はもう覚悟は出来ていますから。でも最後に、さくらのおかげで僕もやっと親孝行が出来ました。さくらには感謝してもしきれません」
宏章は二人に向かってさくらへの感謝の言葉を口にした。
それを聞いていた遥子が、ハンカチで目元を押さえながら、少し微笑んで宏章へ語りかけた。
「さくらは幸せね……、宏章さんにこんなに愛されて。それを知る事が出来て、本当に安心しました。今日は来てくれてありがとう」
宏章もまた、穏やかに微笑んで二人へ感謝の言葉を述べた。
「お義父さん、お義母さん。さくらと出会わせてくれて、ありがとうございます。これからもよろしくお願いします」
二人は宏章の思いがけない言葉に驚いたが、その気持ちを受け入れた。
「……こちらこそ」
それは二人が、心から宏章を迎え入れた瞬間でもあったのだ。
緊張の糸が解れて、リビングにはやっと和やかな空気が流れた。
「今頃さくらは気を揉んでるかもしれないな。宏章くん、さくらを呼んできてくれるか?」
佳臣はやれやれと笑って一息ついた。
「そうね。きっと首を長くして、宏章さんを待ってるはずね」
遥子はさくらの様子が手に取るように分かる様だった。
宏章はさくらが心細さから泣いているかもしれないと急いで階段を駆け上がり、ドアをノックするが返事はなかった。不思議に思い「入るよ……」と声をかけて、静かにドアを開けた。
さくらはアルバムを開いたまま、テーブルに伏せてすやすやと寝息を立てていた。
宏章は思わず拍子抜けしてしまったが、さくらの寝顔を見ていたら、次第に愛しさが込み上げてきた。
「さくら……」
宏章の声で、さくらは目を覚ました。
バッと勢いよく顔を上げると、宏章はしゃがみ込んで、さくらに向かって優しく微笑んでいた。
さくらはぎゅっと宏章に抱きついた。
宏章はふっと笑って、さくらを安心させようとそっと耳元で囁いた。
「お義父さんとお義母さんが、さくらの事よろしくって」
さくらは目を見開き、ぽろぽろと涙を流した。そして喜びから、勢いよく宏章にキスをした。
「お義父さんとお義母さん、下にいるよ」
さくらの勢いに宏章は苦笑いするが、愛しさが溢れ出して止まらなくなりそうだった。
「続きは夜な……」
宏章はさくらを優しく抱き留めた。
喜びを分かち合う様にしばらく抱き合った後、二人は手を繋いで両親の待つリビングへと下りて行った。
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リビングへ戻ると、佳臣と遥子が二人を待ち構えていた。さくらはどうしていいか分からずに、宏章の後ろに隠れておどおどしていた。
すると佳臣が、さくらに向かって静かに語りかけた。
「さくら、宏章さんを大切にするんだよ」
佳臣と遥子は穏やかな笑みを浮かべていた。
「はい……」
さくらは少し照れながら、幸せそうに微笑んで返事をした。
その後雅高達と合流して、改めて顔合わせの為の食事会が始まった。
雅高は英里奈に、「二人なら大丈夫」と言ったものの、やはり少しだけ心配していた。だがすっかり両親と打ち解けている宏章とさくらの姿を見て、心の底から安堵した。
料亭に着くなり、英里奈は久しぶりにさくらと会えた喜びからさくらにハグをした。
「さくらちゃん、おめでとう!よかったね」
英里奈は感動して涙目になっていた。
さくらもまた、英里奈の祝福に感動してぎゅっと強く抱き留めた。
「えりちゃん、ありがとう!」
そんな二人のやりとりを、宏章は微笑ましく眺めていた。
「あ、ご挨拶が遅れてごめんなさい!雅高の妻の英里奈です」
英里奈が宏章に気付いて慌てて挨拶をすると、宏章もまた、笑顔で自己紹介をした。
英里奈は雅高の六歳下で、祖父がイギリス人というだけあり、色素が薄く知的な顔立ちの美人だった。背が高くすらっとしていて、雅高とよくお似合いだ。美形揃いの岡田家に、宏章は思わず尻込みしてしまった。
そんな大人達のやりとりを、姪っ子の双子がじーっと不思議そうに眺めていた。
宏章は子ども達に気付くと、しゃがみ込んで目線を合わせ、にこやかに「こんばんは」と挨拶した。
子ども達は、不思議なものを見る様にしばらく黙って宏章を凝視していた。英里奈は「ほら、二人ともちゃんとご挨拶して」と言ったが、二人は英里奈の後ろにさっと隠れてしまった。
「もう、しょうがないなぁ。ピンクの方が恋奈で、パープルが愛奈です」
双子はそれぞれピンクとパープルの花柄のワンピースを着ていて、髪を編み込み、お揃いの髪飾りをつけていた。二人とも色白で、目がくりくりしていて天使のように愛らしかった。色素の薄さは英里奈譲りで、目鼻立ちが雅高譲りの、まさしく二人の子どもといった感じだった。
「恋奈!愛奈!会いたかったよ」
さくらが二人に近づくと、二人は目を輝かせてさくらに飛びついた。
「二人とも、さくらちゃんが大好きだから」
英里奈がそう言うと、
「さくらちゃん、おひめさまなんだよ」
「だってきらきらしてるもん」
子ども達は無邪気な笑顔で言った。
「嬉しいなぁ、お姫様だって」
さくらが顔を上げて笑顔で宏章に話しかけると、子ども達はまた宏章をジーッと凝視した。宏章が不思議そうにしていると、「このおじさんが、さくらちゃんのおうじさま?」と尋ねた。
「おじさん⁈」
宏章がショックで思わず大きな声を出すと、さくらはぷっと吹き出し、涙を流してゲラゲラと大笑いした。
英里奈は慌てて、「もう!この子達ったら!ごめんなさい!宏章さん」と頭を抱えた。
おじさんかぁ……とショックを受ける宏章をよそに、さくらは二人に優しく語りかけた。
「そう、この人がさくらちゃんの王子様だよ。世界一優しくてカッコいいんだ。二人とも、いつか素敵な王子様を見つけてね」
それを聞いた子ども達はたちまち笑顔になり、宏章とさくらに向かって「おめでとう」と言った。「ありがとう」
二人は顔を見合わせて微笑み、さくらが子ども達を優しく抱きしめた。
側で聞いていた雅高が「俺はそんな日が、なるべく来ないで欲しいけど!」と言うと、英里奈はあははと声を上げて笑った。その一部始終を見ていた宏章は、子どもか……と少し雅高達を羨ましく思った。
食事会は終始和やかな雰囲気で進んだ。
佳臣と宏章はお酒の話で盛り上がり、雅高と宏章は歳も近く、お互いロックが好きという事で意気投合していた。
最初こそ宏章を警戒していた恋奈と愛奈も、すっかり宏章に懐いて、二人で宏章を取り合いする程だった。食事会が終わる頃には、二人とも宏章の膝枕で眠っていた。
さくらは子ども達と接する宏章を見て、子煩悩な良いパパになりそうだと思った。自然と、宏章との間に子どもがいたらなという気持ちになった。
そんなこんなで岡田家はみんな、さくらが宏章に惹かれたように、宏章のその不思議な魅力に引き込まれていた。
さくらは家族団欒の場に、宏章が自然と溶け込んでいる事に喜びと、この上ない幸せを感じていた。
別れ際に、みんな名残惜しそうに挨拶をし合った。
「そう言えば、母さんと二人きりでの初めての旅行は九州だったな」
佳臣はふと思い出して、懐かしさから呟いた。
遥子も昔を思い出し「そうね、懐かしいわ」と、しみじみと答えた。さくらは二人の話を、もっと聞いてみたいと思った。
「今度ぜひ、お二人でいらして下さい。ご案内します」
宏章が笑顔で答えると、佳臣と遥子は顔を見合わせて、「そうだな、近いうちに必ず」と約束を交わして別れた。
ホテルに戻り、宏章は長時間の緊張からようやく解放されて、ふーっと長く息を吐いてソファに腰掛けた。
さくらは、宏章のスーツのジャケットをハンガーに掛けながら「お疲れ」と笑顔で労った。
「あー、めっちゃ緊張したぁ」
宏章がネクタイを外すと、その仕草が妙に色っぽく感じて、さくらはすっと静かに宏章の膝に跨った。
「宏章……」
うっとりとした眼差しで名前を呼んで顔を近づける。それはさくらのスイッチが入った合図だ。
宏章は、「さくら、せめて風呂に……」と言いかけるが、問答無用でさくらは宏章の頬に両手を添えてキスをした。さくらが挿入を連想させるかの様に、舌をいやらしく出し入れすると、宏章はお酒が入っていた事もあり、すっかりその気にさせられてしまった。
口唇を離すと、宏章はさくらのブラウスのボタンを外し、背中に手を回してブラジャーのホックを外した。
ブラジャーを剥ぎ取りバストを顕にすると、さくらもまた、酔いも相まって乳首がほんのり桜色に紅潮し、すでに硬くなっていた。
指できゅっと強めに摘み、顔を近づけてもう片方の乳首を吸うと、ピクッと体をのけ反らせて、「……あっ!」と艶めいた声を上げた。
さくらが服を脱ぎ出し全裸になると、宏章のベルトを外して下着ごとスラックスをずり下げ、ペニスを咥え込んだ。汗でいつもよりも濃い匂いが鼻先に充満して、さくらはあそこを濡らした。そして舌先でゆっくりとペニスを舐め回し、艶っぽい表情で宏章を見上げてしゃぶり上げた。
宏章はあまりの気持ちよさにぶるっと震え出し、達してしまいそうで、さくらの頭を両手で掴んで動きを止めた。さくらはぐいっと口元の唾液を拭って、宏章に跨りながらゆっくりとペニスを挿入する。いつもよりも深く入って、ビクッと体が波打ち、思わず「んあっ!」と大きな声を漏らしてしまった。
さくらは宏章の首に腕を回し、二人とも激しく上下に動いた。途中動きを止めて、お互いの中の温かさを感じながら舌を絡め合う。そしてまた激しく動き出し、二人はあっという間に達した。
宏章はふーっと息を吐き出し呟いた。
「もう、さくらがけしかけるから……」
「でもこういうの好きでしょ?」
さくらはふふっと笑った。
「そうだな……」
宏章はさくらの額にこつんと額をくっつけて、二人は微笑み合った。
「だけど今抜いたら、絶対ソファ汚すよなぁ……」
「そうだね!どうしよ……」
宏章が苦笑いすると、さくらは小さく笑ってため息をついた。
「さくら、しっかり掴まってて」
宏章は繋がったまま軽々とさくらを持ち上げ、ソファの後ろのベッドにゆっくりとさくらを下ろした。
宏章はシャツをはだけさせ、下半身は靴下を履いただけのなんとも無様な姿をしている事に気付き、「俺、めっちゃ屈辱的な姿だな」と言って、さくらを笑わせた。
「……いいじゃない。どんな姿でも好きだよ」
さくらがそう言うと、宏章は軽くキスをしてからペニスを抜き、いつもの様に優しくさくらの陰部を拭った。
二人は一緒にお風呂へ入り、ベッドで眠りにつく前に今日の出来事を振り返った。
「しかし、恋奈と愛奈めちゃくちゃ可愛かったな」
宏章がしみじみと呟いたので、さくらはふふっと笑った。
「宏章はいいパパになりそうだよ」
「さくらもいいママになりそうだけどね」
宏章がそう言うと、さくらは宏章の腕にぎゅっとしがみ付き、こてっと額をくっつけて呟いた。
「私、宏章の子どもが欲しい……」
宏章はさくらを優しく抱き寄せて、耳元で囁いた。
「子ども、真剣に考えようか」
さくらは宏章の腕の中で「うん」と強く頷いた。そして二人は充足感のうちに深い眠りについた。
翌日、雅高が見送りも兼ねてさくら達を迎えに来た。空港へ向かう前に自宅へ寄って、帰る前にもう一度両親へ顔を見せに行った。
「じゃあ、二人とも気をつけて」
「はい、昨日はお世話になりました。ありがとうございました」
佳臣の気遣いに、宏章は丁寧にお辞儀をした。佳臣は宏章の後ろに立つさくらへ声をかけた。
「さくら、忙しいだろうけど、せめて盆と正月くらいは顔を見せてくれよ」
佳臣の穏やかな表情を見たら、さくらは急に寂しさが込み上げてきて、泣きそうになってしまった。
宏章はそっとさくらの肩を抱き寄せ、ポンと軽く背中を押した。
「お父さん、お母さん。ありがとう」
さくらはそう言って、二人に笑顔を見せた。
「それじゃあ、二人とも体に気をつけてね」
遥子も名残惜しそうに、二人を気遣った。
さくらが「二人もね、体大事にしてね」と答えると、遥子はさくらを抱きしめて囁いた。
「さくら……、幸せにね」
遥子の温もりを感じると、さくらは寂しさを堪えきれずにとうとう涙してしまった。
さくらが子どものようにしゃくり上げて泣いていると、「相変わらずだな、さくらは」と笑って、雅高がさくらに封筒を差し出した。
「ほら、大事なやつだろ。忘れるなよ」
さくらが封筒に手を差し入れて中身を取り出すと、署名の入った婚姻届が入っていた。
さくらと宏章は、兄夫婦に証人を頼んでいたのだ。
「ありがとう!お兄ちゃん!」
さくらは婚姻届を見るなり、目を輝かせて途端に笑顔へと変わった。
「雅高くん、ありがとう」
宏章もお礼を言うと、雅高は満面の笑みで二人の門出を祝福した。
そうして二人は家族にまた再会する事を約束して、二人の故郷へと帰って行った。
6
「はい、書類に不備はないですね。ではこれで受理いたします。おめでとうございます!」
さくらと宏章は嬉しそうに顔を見合わせる。
2025年2月14日、二人は晴れて夫婦となった。
「今日から『斎藤さくら』か、なんか不思議な感じ……」
さくらは嬉しそうに頬に左手を当てた。
薬指には真新しい結婚指輪が太陽に当たり、きらりと光る。
「俺の名字がよくあるからなぁ、なんか普通になっちゃったな」
宏章が済まなそうに言うと、さくらは不思議そうに返した。
「なんでよ?『斎藤さくら』いい響きじゃない?」
「まあ、さくらって綺麗な名前だしな。それに今日くらい店休みにすれば良かったな。結婚記念日だしさ」
宏章が呟くと、さくらは何言ってんだとばかりに発破をかけた。
「何言ってんの!しっかり働かなきゃ!経営者に休みなし!」
二人は開店に間に合わせる為、町役場の開庁時間ぴったりに訪れ、婚姻届を提出したのだ。
「はいはい、本当にさくらは頼もしいな」
さくらは燃えていた。というのもつい先日、なんと自分が立ち上げた会社を知り合いの経営者に譲渡し、役員を退任するという大きな決断をしたばかりだった。
「しかし本当によかったのか?会社上手くいってたんだろ?経営に専念する為に、芸能界引退までした思い入れのある会社なのに……」
「うん、いいの。それ以上にやりたい事が見つかったから」
さくらは清々しい表情で、きっぱりと言い切った。
「さくらが一緒にお店やってくれるなら、俺は心強いけどね」
宏章はさくらへ嬉しそうに微笑みかけた。
二人は顔を見合わせて笑うと、車に乗り込み店へと戻って行った。
今日はさくらが初めて店に立つ、記念すべき日でもあった。宏章から仕事内容を教わっていると、「おはようございまーす!」と言う元気な挨拶と共に、アルバイトの海音が彼女を伴って店にやってきた。
海音は彼女と過ごす初めてのバレンタインデーという事で、今日は休みを貰っていた。さくらと目が合うと、海音はあっ!と驚いて思わず大きな声を上げてしまった。
「あら、こんにちは。この前はどうもありがとう」
さくらは動じる事なく、海音へ向けてにっこりと微笑む。
「店長!どういう事ですか⁉︎」
海音がパニック気味に尋ねると、宏章はごほんと咳払いし、照れ気味にさくらを紹介した。
「言うの遅くなって悪かったな、こちらは俺の奥さん。今度から、店に入ってもらう様になるから」
照れから少し気まずそうにしている宏章をよそに、さくらは元気に自己紹介をする。
「妻のさくらです。海音くん、これからよろしくね!」
「えぇ――――――‼︎‼︎」
海音は両手で頭を抱えて絶叫した。
「えっ?えぇ⁇いつの間に……えぇ⁉︎」
「海音、落ち着けよ。実は今日入籍したんだ。お前にはその後話そうと思ってたんだよ」
「マジか……」
絶句する海音をよそに、彼女の咲良は素敵な大人のカップルに見惚れていた。
そんな咲良に気付いて、さくらはにこにこしながら声を掛ける。
「海音くんの彼女?可愛いねー」
咲良はハッとして、慌てて挨拶をした。
「あっ!こんにちは、大原咲良です」
「さくら?あら!」
さくらは驚きから目を丸くし、口元に手を当てた。
「お!同じ名前だな!こんな可愛い彼女がいるなんて、お前もやるなぁ」
宏章は海音を揶揄うが、海音は素直に咲良を自慢した。
「でしょ!俺の自慢の彼女だから!」
「もー、海音ってば!」
咲良は照れつつも、嬉しそうにきゃっきゃと声を上げた。
宏章とさくらは、若い二人の初々しい姿を微笑ましく眺めていた。
「いやー、でも本当に良かった!俺、心配してたんですよ。このままだと店長が孤独死しちゃうんじゃないかって。これでもう安心ですね!」
海音が無邪気に言うと、さくらは宏章の横であははと大笑いした。宏章は、息子ほど歳の離れた海音にそんな心配されていたのかと、苦笑いしつつ頭を抱えた。
「で、お前は今日何しに来たんだ?」
「あ!そうそう!今日バレンタインじゃないですか!咲良が生チョコ作ってくれたから、それに合うお酒買いに来たんですよ」
「あら!いいわねー!ワインもいいけど、日本酒もチョコレートに合うしね。店長、おすすめは?」
さくらが笑顔で宏章へ水を向けると、宏章はしばし考えて「これなんかいいんじゃない」と言って棚から日本酒を取り出した。
「赤酒!渋いっすねー」
海音と咲良がまじまじ眺めていると、宏章は「あとこれも」と言って、スパークリングワインを差し出した。
「どっちもやるよ、俺からのバレンタイン」
「え?いいんですか?」
海音はパッと顔を上げる。
「ああ、二人とも仲良くな」
宏章がそう言うと、海音は屈託のない笑顔でお礼を言った。
「ありがとうございます!あ、言うの遅くなったけど、結婚おめでとうございます!今度じっくり二人の馴れ初め聞かせてもらいますから!」
咲良もお礼を言って頭を下げると、二人は手を繋いで仲睦まじく店を後にした。さくらと宏章は、そんな二人を笑顔で見送った。
「なんかいいね。二人とも可愛くて、幸せでいてほしいな」
さくらが呟くと、宏章は穏やかな笑みを浮かべた。
「そうだな」
二人は顔を見合わせて、若い二人の幸せを願った。宏章はさくらの左手を取り、ぎゅっと握って薬指に軽くキスをする。
さくらは幸せそうに微笑んだ。
「宏章、幸せになろうね」
さくらは宏章との出会いから、今日までを振り返った。
一度は別れ、それでもお互いそれぞれ懸命に生きてきた。お互い大人になり、ようやくお互いを守れるまでに成長した。今度は二人で未来を描いていく。二人は出会いから12年の時を経て、ようやく穏やかさを手に入れた。
……ここが私の帰るべき場所。ここからまた、人生が始まる。
そして二人は、この店を受け継いでいくという覚悟を新たにし、二人の未来へ向けてまた仕事へと戻って行った。