目的
のために手段を選ばない。それはまさに『悪魔の所業』と呼ばれるべき姿だった―――
「ふむ、そうか」
「はい」
ここは日本・大阪城。とある一室では二人の男が話し合っていた。男の名前は徳川家康、そして話している相手はその部下にあたる本多正信である。内容は家康の宿敵ともいえる伊達政宗についてであった。
伊達政宗は戦国時代でもかなり有名かつ実力のある武将としてその名を連ねている存在である。
まずは政宗が生まれた時代において、伊達家は戦国大名ではなく江戸幕府の直臣として存在していた大名であったこと。これがこの時代の常識を大きく変えてしまったと言っても過言ではないであろう。この時代においては大名というものは基本的に独立性が強く、他家との関係もあまり深くはなかった。そんな中で独立した大名でないにも関わらず徳川家の家臣となっていた政宗の存在はかなり異質と言えよう。もちろんこれにはいくつかの理由があったのだが、それでもこの時代にしてみれば破格の扱いを受けているといえる。また、そんな立場にいた為、様々な人物からの覚えもよく、その実力もあって徳川幕府の重臣にまで上り詰めた。ただ単に家臣という立場にいるだけであればここまで出世できたかどうかは分からないところがあるかもしれないが、とにかく彼は優秀だったのだ。
さらにいえば彼はかなりの好青年で性格的にも人当たりが良いことから敵を作ることが少なかった。そのため、味方も多く作っていたわけだが……
それだけなら良かったものの、彼が好戦的な人物であったために度々問題を起こしていたのだ。しかもそれが自分にとって有益になると思った行動ならば尚更のことであった。例えば九州征伐にて大友義統の降伏を促す使者を送るにあたって島津義弘の元へと送ったり、朝鮮出兵の際においても毛利輝元へ対して再三に渡り調略を行ったりするなどしている。その結果毛利家と敵対してしまうことになり、最終的には大内家の滅亡後の混乱を利用して攻め込んで滅ぼすことになってしまったわけであるが。また彼の特徴としては女好きで有名なところが挙げられるのだが、『三国志』においては張飛や劉備などの豪傑たちに比べて見劣りする扱いを受けてしまっているため女性関係の逸話に関しては『三国志・蜀書』、『晋書』、『通鑑続紀』では伝奇となっている程である。
そんなこんながあって、最終的に孫堅文台が劉表を破り江東の地を支配することになる。しかし彼の死後には後継者争いが起こっており、劉禅を皇帝とする呉越連合と孫権率いる孫家との覇権を争うことになったのであった