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木風
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#サレ妻
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赤井 里会
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ゆうき
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ひなのが手を振った相手は、私ではなかった。
私の後ろに、配達の自転車が止まっていた。箱を抱えた若い男が、ひなのに「お届けです」と言い、ひなのは「待ってた!」と言って、箱を受け取り、自撮りをして、建物に戻っていった。
三十秒だ。私はその三十秒、雑誌の棚の影で、息を吸わなかった。
水曜の朝、企画室でそのことを思い返しながら、写真を相田に送る。二枚。十九時十二分。
送ってから、分かったことを一つ書いた。
『私は、顔を知られている。もう行けない』
担当の佐倉として、ひなのは私の顔を四回見ている。帽子と眼鏡で一度は通ったけれど、二度は通らない。出入りの写真は、一枚きりだった。
相田から返事が来た。『一枚でも、ないよりいい。次は別の形で』。別の形が何かは、書いていなかった。
企画室の窓から、庭の三本の木が見えた。灯りは昼間は点かない。点くのは、日が落ちてからだ。
私は進行表の下書きを開いた。十二月十二日。開場十七時半。入場。映像。挨拶。プロポーズ。指輪。
一番下の行に、まだ何も書いていない欄があった。『司会』。
空けたまま、閉じた。
扉がノックされた。一ノ瀬は、ノックすると言った人で、本当にノックした。
「進行表の下書きは」
「あります」
「見せろ」
私は下書きを差し出した。一ノ瀬は立ったまま読んで、一番下の行で止まった。
「司会が空いている」
「未定です」
「外注なら早く押さえろ。十二月は埋まる」
「……はい」
一ノ瀬は下書きを返した。返してから、「君が未定にしているものは、未定ではないな」と言って、出ていった。
私は『司会』の欄を見た。まだ、書かなかった。
◇
木曜の夜、家に帰ると、玄関に靴があった。
茶色の、かかとの低い、年配の女の人の靴。悠人の靴より、ずっと小さい。
「遅かったのね」
台所から声がした。
悠人の母の恵子が、エプロンをつけて、コンロの前に立っていた。私のエプロンではなかった。自分で持ってきた、花柄のエプロン。
「お義母さん」
「悠人が出張ばかりだって言うから、様子を見に来たの。合鍵、使ったわよ」
「ありがとうございます」
「あの子がね、電話で言うのよ。『紗英、一人で大丈夫かな』って。優しい子でしょう。だから来てあげたの」
「そうですか」
悠人は、私が一人で何をしているか、母に見に行かせた。私はそれを、数えなかった。数えるのは、本人が私に言った言葉だけだ。
恵子は鍋を混ぜながら、振り返らなかった。
「冷蔵庫、何もないじゃない。あの子が帰ってきたとき、どうするの」
「帰ってきたら、作ります」
「帰ってきてから作ってたんじゃ遅いのよ。男は、家に食べるものがないと、外で食べるようになるの」
私は鞄を置いて、手を洗った。恵子の言葉は、数えなかった。数えるのは夫の言葉だけだ。
「子どもは」
恵子が、鍋に向かって言った。
「まだ」
「まだ、って。三十三でしょう。あの子は三十五。うちの近所は、三十五で二人目よ」
「はい」
「あんたが仕事ばっかりしてるからじゃないの。式場なんて、土日に休めないんだから」
「はい」
恵子は火を止めて、ようやくこちらを向いた。
「あのエプロン、使ってる? 去年あげたやつ」
「大事に取ってあります」
本当のことだった。鞄の底に、袋に入れて。
「使いなさいよ。取っておくものじゃないんだから」
「はい」
恵子は味噌汁を椀によそった。私の椀と、自分の椀。悠人の椀は、棚にしまったままだった。
「十二日は、あんたたちの記念日でしょう」
椀を置いて、恵子が言った。
「あの子、大阪なんですって。ピッチだか何だかの打ち上げで。かわいそうに、記念日に出張なんて」
「ええ」
私は椀を受け取った。
「大阪なんです。打ち上げも兼ねて。先方の都合で、どうしても」
悠人の言葉を、そのまま言った。一文字も足さず、一文字も引かず。
「あんたも、少しは引き止めなさいよ」
「引き止めたら、出張がなくなりますか」
恵子は、私の顔を見た。見て、何も言わずに味噌汁を飲んだ。
◇
食べ終えたころ、恵子のスマホが鳴った。
「悠人よ」
恵子は出て、「紗英さんといる」と言い、「うん」「うん」と言ってから、私にスマホを差し出した。
「代わって、って」
私は受け取った。
「もしもし」
「母さんに、余計なこと言うなよ」
悠人の声は低かった。恵子に聞こえない声だった。
「何を」
「何でもだよ。出張のこととか、家のこととか。母さんは心配性なんだから」
「お義母さんが、言ってた」
私は恵子を見ながら言った。恵子は湯呟みを持ったまま、こちらを見ていた。
「十二日は大阪なんですってね、って。打ち上げも兼ねて、って。私もそう言った」
電話の向こうが、黙った。
三秒。四秒。
「……ああ。大阪だ」
「気をつけて」
「分かってる。母さんに代わって」
私はスマホを恵子に返した。恵子は「はいはい」と言って、「体に気をつけなさい」と言って、切った。
恵子は湯呟みを置き、お茶を注ぎ足した。注ぎ足してから、ゆっくり飲んだ。
「あの子ね」
恵子は、私を見ずに言った。
「昔から、嘘つくとき語尾が上がるのよ」
コメント
1件
いや、最後の恵子さんの「嘘つくとき語尾が上がる」って台詞、めっちゃゾクッとした…!!😳✨ 紗英が「数える」って決めてるのに、悠人の嘘は言葉の裏で気づいてるのが切なかったよ…。お義母さんの圧もリアルで、嫁姑の空気感がひしひし伝わってきて苦しくなった😢💦 そして一ノ瀬の「未定ではないな」も効いてる…!司会って何??気になりすぎる!!次話が待ち遠しいです🔥