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日曜の朝八時、ラウンジの机の上に、アクセル広告の提案書が置いてあった。
一ノ瀬は窓を背にして座っていた。この部屋で、この人はいつも窓を背にする。顔が影になって、読めない。
「十二の約束」
一ノ瀬は提案書の表紙を、指で叩いた。
「君のノートだな」
「ええ」
「一字も変わっていない。読点まで」
「ええ」
「なぜ黙っている」
私は、提案書の表紙を見た。『現場の声から掬い上げた、十二の約束』。掬い上げた、という言葉は、私のノートにはなかった。夫が足した唯一の言葉だった。
「夫は、私が提案書を読むとは思っていません」
「なぜ」
「飾り付け屋は、読む側ではないので。夫はそう思っています」
一ノ瀬は、何も言わなかった。
「それと、もう一つ」
私は言った。言うと決めていた。
「十二月十二日まで、彼には高いところにいてもらいます」
一ノ瀬の指が、提案書の上で止まった。
「このプレゼンに負ければ、彼は十二日に、負けた男として来ます。負けた男が落ちても、落ちた高さが足りません」
「だから、黙っている」
「はい」
「勝たせろ、と」
「私は何も頼みません。頼めば、依頼者の持ち込みではなくなります」
一ノ瀬は、しばらく窓の外を見た。日曜の庭には、式の準備の音がしていた。
「買うのは、企画だ」
一ノ瀬が言った。
「誰が持ってきたかは、関係ない。この企画は、三社の中で一番いい。当然だ、十年分だからな。本部にはそう出す」
「はい」
「誰が持ってきたかは、後で請求する」
「……はい」
「請求するのは、私だ。君ではない」
私は、顔を上げた。一ノ瀬は影の中にいた。
「十二日、この式場で何が起きる」
「完璧な式です」
「依頼者の望みどおりの」
「一文字も足さず、一文字も引かずに」
一ノ瀬は提案書を引き出しに入れ、鍵をかけた。
「行け。君の式の客が、今日も二組来る」
君、と言った。佐倉、ではなく。私はそれを聞いて、聞かなかったことにして、部屋を出た。
◇
ひなのの五回目は、十四時だった。
「佐倉さん、お願いがあって」
ひなのは座るより先に言った。今日はかれんがいなくて、ひなのは自分で自分を撮っていた。
「彼の、一番大事なお客さんを呼びたいんです」
「お相手の方の、お客様を」
「そう。グランシエルの一ノ瀬さんっていう人。ここのオーナーですよね? 彼、今その人のところにプレゼンしてて。十日に決まるんですって」
私は手帳を開いた。
「彼、言ってました。一ノ瀬さんに気に入られたら、人生上がりだって」
ひなのは、楽しそうだった。
「だから呼びたいの。彼が一番見てほしい人の前で、私からプロポーズ。上がった人生の最初の日に、私が隣にいるの。完璧でしょ」
「お伝えします」
「呼べます?」
「オーナーに、お伝えします。出欠はオーナーが決めますので」
「お願いします。あ、席は彼のすぐ近くで。彼が一ノ瀬さんの顔を見られる位置」
私は書いた。一ノ瀬、彼の近く。
「あと、会社の人は部長さんも来るって、柴田くんから。名簿、来週には送るって言ってました」
「ありがとうございます。お席は、お相手の方の右側にまとめます」
「右側?」
「お相手の方から見て、会社の方が右、お友達が左。お相手の方は、両方の顔が見えます」
「なんか、結婚式みたい」
「式ですから」
「それと、ドレス決めました。三着目の、肩が出るやつ」
「かしこまりました」
「佐倉さんは、当日、何着るんですか」
「スタッフは黒です」
「黒かあ。地味」
「お客様より目立たないように」
「そうだった」
ひなのは笑って、スマホを自分に向けた。『あと20日♡』と打っているのが見えた。
◇
夕方、企画室の壁に、席次表の板をかけた。
会場の形に線を引いた、白い板。円卓が四つ。スクリーンが上。入口が下。ピンは赤い頭のもので、一本刺すと、一人の席が決まる。
十年、何百枚も刺してきた。新郎の父をどこに置くか。別れた両親をどう離すか。耳の遠い祖母を、スピーカーからどれだけ離すか。
私はピンの箱から、一本を取った。
スクリーンの正面。入口から十二歩。全員から見える席。
刺した。
「それ、誰の席ですか」
美咲が扉のところに立っていた。ノックは、したのかもしれない。聞いていなかった。
「主賓」
「主賓って、プロポーズされる人ですよね。えっと、依頼者の彼氏」
「そう」
美咲は板に近づいて、一本だけ刺さった赤いピンを見た。
「一本だけだと、なんか、怖いですね」
「席次表は、一本目が一番大事なの。一本目が決まれば、あとは全部そこから決まる」
美咲は「すみません」と言った。何に対してかは、聞かなかった。
◇
ラウンジのドアをノックすると、「入れ」と声がした。
「依頼者から、お願いがありました」
一ノ瀬は書類から顔を上げなかった。
「あなたを、招きたいと。お相手の方の、一番大事なお客様だそうです。席は、お相手の方のすぐ近くで、と」
一ノ瀬のペンが止まった。
「彼が言ったそうです。あなたに気に入られたら、人生上がりだと」
一ノ瀬は、ペンを置いた。置いてから、初めて私を見た。
「出る」
「はい」
「席は、後ろでいい。一番後ろだ」
「依頼者は、近くを希望しています」
「後ろから見る。その日、誰が上がって誰が落ちるかを」
一ノ瀬はそれだけ言って、書類に戻った。
私は企画室に戻り、板の一番後ろの列に、二本目のピンを刺した。
赤いピンが、二本になった。
コメント
1件
読了しました…「赤いピン」第12話。 一ノ瀬が「買うのは企画だ。誰が持ってきたかは関係ない」って言ったところ、すごく重かったです。佐倉さんが黙って夫の提案書をそのまま出した意味、一ノ瀬は全部見抜いてるんだなって。でもそれを受け入れたうえで「請求するのは私だ」って言うのが、なんか…信頼というか、距離感が美しいというか。 ひなのちゃんが無邪気に「彼が一番見てほしい人の前でプロポーズするの」って言ってるのが、読んでてすごく痛かったです。彼女は何も知らないんだなあ…って。 最後、赤いピンが二本並んだ描写が静かで怖くて、でも目が離せなかったです。一本目があの席なのも含めて、全部が噛み合ってきてる感じがゾクゾクしました。 続き、気になります…😌