テラーノベル
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屋敷を出てから一時間経たない内に、市が管理する宿泊施設の色褪せた看板が見えてきた。市内の小中学校が林間教室で利用する他、申し込みすれば市民団体でも格安で宿泊できる公共の施設。建築されたのは昭和らしく、年季の入った鉄筋コンクリート造で、人里からは隔離された場所に建っている。過去には林業で栄えた集落もあったみたいだが、今は近隣に住居は数えるほどしかなさそうだ。
「わ、随分とボロいな……」
錆の目立つ看板の前に車を停めて、孝也が小高い丘の上にそびえる建物を見上げ、驚いたように言葉を漏らしていた。同じ市内に住む彼もまた、同級生達が宿泊活動をしている時に美琴と同じように泣きべそを堪えながら、祓い屋の子であることを悔やんだのかもしれない。
美琴達とは違い、ここを訪れた経験のある北斗は、キョロキョロと周囲を見回して、小学生の頃の自分の記憶を手繰っているようだった。
「おばさんから、送るのはここまでだって言われてるから――」
建物のある場所まで続く長く急な坂道。ちゃんとアスファルトで舗装されているし、上には利用者用の駐車場もあるらしいが、孝也の見送りは施設の敷地の手前まで。唯一の大人である彼は、高校生二人だけで先を行かせることを心配していた。でも、相手があやかしとなると孝也ではどうしようもない。力があっても視えない人間はこの先では足手まといにしかならないのだから。
「気をつけるんだぞ。何かあったら、すぐ合図するんだ。ここで待っててやるから」
「うん、ありがとう」
「ああ、あと真知子おばさんから頼まれてたコレだけど、扱いには十分気をつけろ」
そう言って孝也がトランクを開けて出してきたのは、三十センチ四方の木の箱。蓋には八神の家紋と『祓』の文字が記されているから、中身は封印に使う壺だろう。
「鴨川の秘伝を使ってみたから、吸引力は当社比一.五倍だ」
まるで掃除機の宣伝文句のようなことを言って、孝也がわざとふざけてみせる。美琴達の顔があまりに緊張しているから、少しでも和ませようと気遣ってくれたのかもしれない。
預かった壺をリュックに入れて背負い直し、美琴は持って来ていた二本の白色の筒をぎゅっと握り締める。そして、傾斜の急な坂道を見上げながら、「よし!」と気合いを入れた。ここまで来たんだから、もう後戻りはできない。間違いなく猿神は美琴達がこの地にいることに気付いているはずだ。この山自体が大猿のテリトリーと言ってもいい。
北斗はラケットを手に、硬直した表情でじっと宿泊施設の方を見つめたままだ。当時の記憶は朧気みたいだが、病院のベッドの中で耳にした話や周囲の大人達の反応から、あまり良い印象を持ち合わせてはいないのだろう。もしかしたら後になってから、自分達の事件の記事を新聞などで目にしたことがあるのかもしれない。
「あ、脇田君、先にこれ渡しておくね。新しいの作って貰ったから」
リュックのサイドポケットから、ツバキに用意して貰った数珠を取り出して、北斗へと手渡す。美琴の物よりは一回り大きい、落ち着いた紺色の石と黒石を綴ったブレスレット。受け取った後、北斗はそれまで左腕に付けていた美琴の数珠を少しはにかみながら外していた。その反応を見る限り、それを付けている間に誰かから何かしら揶揄われでもしたのだろうか。
北斗から返却された数珠を美琴は自分の左腕に嵌めてから、「あ、そうだ」と思い出したように逆サイドのポケットから護符を数枚取り出した。
「多分、そのままじゃ武器にもならないと思うし――」
そう言って、北斗の握りしめているラケットのカバーの上に護符をぺたりと貼り付ける。あやかしを相手に物理的な攻撃が効くとは思えない。封印と除霊の護符を両面に一枚ずつ貼っていると、横を歩いていたゴンタがドン引きした表情で見上げていた。
「そいつに、むやみやたら振り回すなって言っとけ。そんなのに当たったら、災難だ……」
妖狐の反応から、それなりの効力は期待できそうだ。
軽く息切れを感じながら坂を半分近くまで登った頃、真横からすっと小さな風を感じて振り返る。
「油断したらアカン。ここ相当ヤバイ」
「アヤメ! 良かった、無事だったんだね……」
着物の裾をひらりと揺らしながら、坂の途中に舞い降りた鬼姫は、眉を寄せて困惑した顔を見せる。
「この山、思ってたより数がおるで。大したことない奴ばっかりやけど、なんにしても多すぎるわ」
「全部、猿神の仲間ってこと?」
「それはどうやろ……猿神の力に引き寄せられて集まってるだけかもしれん」
隣で急に誰かと喋り始めた美琴のことを、北斗は最初少し驚いた顔をしていたが、あらかじめ式達が傍にいることを話していたから、戸惑いながらも黙って聞くに徹しているようだった。
「ま、近くに居たやつらはあらかた追っ払ってきたし、残りは狐が片っ端から喰っていけばいい」
「だから、オレはそんな低俗なモノは喰わないって言ってるだろ!」
「じゃあ、何しに来たん?」というアヤメの揶揄い交じりの言葉に、子ぎつねは四尾の毛を膨らませて必死で抗議している。そんな二体の式の通常通りのやり取りに、美琴は張り詰めていた表情がふっと緩んでいくのを感じた。別に一人きりで立ち向かう訳じゃないのだからと。
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