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「猿神のやつも気付いて、山を降りてこようとしてる。周りに結構な数の小猿もおったから、一斉に来て小僧を攫いに来るんかもな」
鬼姫が周囲を探り回って分かった状況を教えてくれ、美琴は歩きながら静かに頷き返す。あの時、同級生達を山の奥へと連れ去ったのは、猿神が率いている妖猿の軍団だったのだろうか。猿と言っても動物園で観れるものとは違う、猿のあやかし。ヒトの言葉は理解できるみたいだが、素直に話し合いに応じて貰えるとは限らない。
坂を登り切ると、マイクロバスも停められるほどの余裕のある駐車場が広がっていた。シーズンオフなのか閉館中の建物の前には、進入禁止のチェーンが張られているのが見えた。隅っこに一台だけ業務用らしい軽トラックがある以外、車の姿は見当たらない。
美琴は周囲がよく見渡せるよう駐車場の真ん中に移動すると、ずっと手に持っていた二本の筒を端から慎重に広げていく。厚さのある白色の和紙を丸めていたそれには、赤と黒の二色の墨で直径五十センチほどの陣が描かれている。美琴はアスファルトの上に設置した紙の陣を指差しながら、北斗に向かって真剣な口調で指示した。
「脇田君はその陣の中央に立ってて。何があってもそこから絶対に出ないで」
その陣は結界になってるから、という美琴の言葉に、ずっと無言だった北斗が「分かった」と頷き返してくる。自分には視えていない何かと深刻な表情で話している美琴の姿を見ていて、旧友の力を信じるしかないと腹でも括ったのかもしれない。まだ目には怯えが見え隠れしているが、ずっとキョロキョロしていた視線は真っ直ぐに美琴の方を向いている。護符が貼り付けられたラケットを両手でギュッと持ち構え、北斗は恐る恐る陣の上に足を乗せた。
「俺は、他に何をすれば……?」
「結界の中までは入って来れないはずだけど、これから何を見ても聞いても決して怯まないで」
陣の中にいれば大丈夫だからとだけを繰り返す。美琴だってこれから何が起こるかが分からないし、それ以外に掛けられる言葉を思いつかなかった。
北斗のことを気にしながら猿のあやかしと対峙するなんて、そんな器用なことをやってのける自信も経験値も持ち合わせてない。とにかく陣から動かないでと頼む。
もう一枚の紙を広げると、美琴はリュックから木箱を引っ張り出し、中に収められていた陶器製の壺をその中央へと置く。こちらの和紙には護符でもよく書くことがある封印の梵字を複数あしらった陣が描かれている。
「吸引力は当社比一.五倍って言ってたっけ。頼むよ、孝也おじさん……」
壺の底と側面には見慣れない文様が彫り込まれている。以前、鴨川桔梗が売り捌いていたお猪口にも似たようなのが描かれているのを見た記憶がある。弟子経由で手に入れた鴨川家秘伝の術が施されたそれは、孝也的には自信作らしい。だが、初めて行使するのに不安が無いと言ったらウソになる。
準備を終えて顔を上げると、北斗が下唇を噛みしめて何かに耐えている顔が目に飛び込んでくる。少し様子がおかしい。周囲を見回しても、まだ猿神らしき姿はない。
「脇田君? ……ねえ、脇田君っ⁉」
美琴が慌てて駆け寄り、肩を揺すって名前を呼ぶと、北斗がハッと我に返ったような表情になった。過去に誘拐被害にあった場所を再び訪れて、忘れていたはずの恐怖が蘇っても当然だ。震える声で、北斗が心境を漏らす。
「……あの時のこと、やっぱりほとんど覚えてないんだけど、すごく怖かったことだけは思い出して……」
「分かってる。私も今、めちゃくちゃ怖いもん」
励ましや慰めの言葉が戻ってくるのを期待していたのか、北斗が美琴の吐いた弱音に「へ?」という意外そうな顔をする。
「八神さんは慣れてるんじゃないの?」
「まさか。私だってつい最近まで、何も視えなかったんだから。祓い屋なんて、胡散臭いとずっと思ってたくらいだし」
視えるようになってからは、確かにほんの短期間でも沢山のことを初めて経験した。けれど、怖いものは怖いまま変わらない。だからって、無理して平気にならなくてもいいと思っている。
「別に、私一人で何とかしなきゃいけないって訳じゃないしね」
北斗には視えていないだろうが、二人からは付かず離れずの距離を保ち、周囲を警戒してくれている二体の式神。白毛に覆われた妖狐は四尾の尻尾をピンと伸ばし、他のあやかしの気配を探っている。可憐な菖蒲柄の振袖を身に纏った鬼姫は、その真紅の瞳で山の様子をじっと見守っている。
『駄目だったらアヤメが何とかしてくれる』
初めて祓いの依頼を請け負った時に、真知子はそう言っていた。あの時の相手は怨霊でも何でもなかったし、あっさり片付いてしまったけれど。でも、きっと今だって状況は同じだ。八神の式神はとても頼りになるのだから。
――だから、私は私ができることだけをやればいい。
壺のところへ戻り、美琴はその場で膝をつく。そして、陣の上に置かれた壺へ両手を添えて、術の発動の時を待つ。壺はこれ一つしかないから失敗は許されないというプレッシャーに、指先が微かに震える。
「――来よった!」
山向こうを警戒していたアヤメがそう告げたと同時に、周辺の木々が激しく騒めき始めた。数十メートルもある高木がまるで小枝のように大きく左右に揺れ動き、危険を察知した野鳥達が悲鳴を上げながら逃げ去っていく。
アヤメの声が聞こえていない北斗も、その状況から何かを察したらしく、ラケットを握る手に力を入れ直していた。