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「あの……お母様は、私のかつての上司より怖いのですが」
母が去ったあと、和香が言い、
「……FBIのか」
と耀は呟く。
「何故、私がなにかやろうとしているとわかったんでしょうね」
「さあ、何故なのかはわからないが。
そんなことより、わ……石崎」
和香と呼びそうになってしまったぞ、母につられて、と思っていると、和香はあっさり、
「和香でいいです」
と言う。
いや、いいですと言われても、と耀は困って少し俯く。
「わ……和香」
決意を秘めた目をしている和香。
和香と呼ぶだけでうろたえる自分。
このままではこいつに負けている気がする、と思った耀は勇気を振り絞って言ってみた。
「日曜だから、このあと、何処かに行くか?」
できるだけさりげなく、と気をつけながら誘った自分に、和香が小首をかしげながら言う。
「日曜で何処かへ行くと言うと――
図書館?」
「図書館もいいな。
だが、この間行ったし、他にはないか」
このままでは、ふたりの思い出の場所が、すべて図書館になってしまうっ、と耀が思ったとき和香が言った。
「じゃあ、他の街の図書館とか。
ボルダリングとか。
ジムとか。
ウォーキングコースとか」
「……なにどさくさ紛れに身体鍛えようしてるんだ、元FBI」
一応、これ、デートだぞ、とその事実をちゃんと認識させるように和香に言った。
結局、和香と耀は図書館めぐりをすることになった。
なんかいい休日だな。
今や私も普通のOL。
自分が復讐さえやめれば、ずっとこの日常が続いていくんだよな、と和香は、ぼんやり思う。
「ちょっと足を伸ばして、山向こうの街の図書館にも行ってみるか。
川沿いで雰囲気がいいんだ。
近くに年季の入った雰囲気のいい喫茶店もあるし。
今は季節じゃないが、大きな藤棚もあって、図書館のあとに寄ると、なんだか落ち着くんだ」
「素敵ですね」
と言う和香は思っていた。
こんなにいい人、なかなかいないかもしれないな、と。
一緒に図書館めぐりをしてくれるっ。
素敵な喫茶店を教えてくれるっ。
さっき、本も買ってくれたしっ。
この人、私の王子様かもしれないっ!
「――と思いました」
花のない藤棚を見ながら、和香は、さっき思ったことをまるっと耀に言ってみた。
「……何故、直接、本人に言う」
お前、案外、ちょろいなっ、と言われ、
「何故ですか」
と和香は訊き返す。
「図書館めぐりは休日がつぶれるし、労力もいるが。
本買ってくれたからってのは、なんだ。
誰でも簡単に買えるだろ。
本を買うだけで、お前の王子様になれるのか。
お前に気のある男には、あいつに本をプレゼントするなと言わなければ」
と言う耀に、和香は笑って言った。
「いや~、私に気のある人なんていませんが。
いたとしても、普通は、もっと違うものをくれようとするんじゃないですかね?」
和香は紅茶を飲んでいたが、店内には、珈琲のいい香りが漂っていた。
一冊だけ車から持ってきた、今、借りたばかりの古くて厚みのあるミステリー小説がテーブルの上にある。
うん。
ほんとうに落ち着くいい空間だ。
夕暮れの光が藤棚の隙間から差し込んでくるのを見ながら、今日はほんとにいい休日だったな、と和香は思った。
外に出て、車に向かうとき、耀が手を握ろうとしてきたので、外した。
「何処もちょろくないじゃないかっ。
好意を抱いている相手になら、中学生でも手くらいは握らせるだろっ」
「いや、王子様かもと言っただけで、その王子様を好きだとは言ってません」
「お前の発想、よくわからない……」
謎すぎて、ミステリアスを通り越してるぞ、と眉をひそめられてしまった。
アパートに戻ってきた和香が家の鍵を開けていると、ちょうど羽積が階段を上ってきた。
今、帰ってきたところらしい。
和香を見て言う。
「何処行ってたんだ?」
「私に直接訊くんですか?」
「今日は忙しかったんで、ちょっとめんどくさくなって」
溜息まじりに羽積はそう言う。
「図書館めぐりしてました」
と和香は素直に答えた。
「そうか。
すまんな。
そのまま上に伝えておくよ」
そう言って、羽積は家に戻って寝たようだが。
きっと私が、コト、と音を立てても飛び起きてくるんだろう。
因果な商売だな、と思いながら、部屋に入った和香はベランダを開け、夜の空気を吸い込んだ。
隣の羽積の部屋からは、なんの物音も聞こえてはこなかった。
悪そうな人には見えないんだがな……。
耀は社長の許を訪ねてきた専務が出てくるのをデスクから眺めながら、思っていた。
――常務ほど愛想良くはないが。
家族で旅行に行くたび、自分のような下々の者にまで、気を使って土産をくれたりするしな。
と和香たちが聞いていたら、
「課長が下々の者なら、我々は一体、なんの者なんですっ!?」
と叫び出しそうなことを思う。
そのとき、
「これ、企画事業に戻しといて」
と室長が近くにいた新人の女性社員に言うのが聞こえてきた。
「あ、私、ついであるので持っていきますよ」
と言って、耀は立ち上がる。
企画事業部を覗くと、和香はナイフで鉛筆を削っていた。
それを美那たちが、
「器用ねえ」
と眺めている。
……仕事しろ、企画事業部、と思いながら、耀も遠くから、その『特技はナイフ』な女を見つめていた。
「前の職場で習ったんですよ」
と小器用にナイフを使いながら、和香が言う。
FBIでか。
いや、FBIは研修に行ってただけだったか。
「鉛筆削りで削るより綺麗ね」
「この方が自分で好きな形に削れますしね。
私は細長いのが好きなんですよ」
と和香はその鉛筆を天井の蛍光灯に向かい、掲げ見ている。
美しく削られた鉛筆は、鋭いその先端で誰でも殺れそうだった。
……でも、職場で鉛筆使う機会、あまりない気がするんだが、と思っていると、案の定、和香はその鉛筆を引き出しにしまっていた。
「あんた、入社するとき、特技は鉛筆削りとか書いたんじゃないでしょうね」
と美那が言うと、男性社員の池本が、
「特技、鉛筆削りで企画事業部に配属になったんですかね?」
と言って笑う。
いや、そんな莫迦な……と和香は苦笑いしたあとで、
「それに、私の特技は電卓ですよ」
と言った。
「いや、それでなんで企画事業部よ」
なんで経理じゃないのよ、と美那が眉をひそめる。
美那が去ったあと、和香がこちらに気づいて、
「課長」
と微笑みやってくる。
うむ。
かなり親しくなった感が出てる気がするな。
これは、うっかり和香と噂になってしまうかもかしれないな、と思っていたが。
残念なことに、誰もこちらを見てはいなかった。
「資料を戻しに来たんだが。
お前に渡したので大丈夫か」
とそのファイルを見せると、和香は表紙を確認し、
「はい、大丈夫です」
と受け取る。
じゃあ、と言って、耀はすぐに企画事業部を出た。
そう。
室長には、ついでがあるので持っていきます、と言ったが、実は、企画事業部に来る用事とは、和香の顔を遠目に見る、という用事だったのだ。
だが、あの資料を預かったおかげで、和香の方がおまけになった。
よし、俺は仕事サボってない、と思いながら、もう一度、和香を振り返ったあとで、耀は自分の部署に戻っていった。