菜の花ママの二度目の投稿を読んで、どうしようもなく胸がざわざわした。彼女の言う〈彼〉が幸季さんに思えて仕方なかったからだ。
もちろんそうじゃないことは分かっている。彼女によれば、〈彼〉が愛していない奥さんに産ませた子どもの人数は三人らしいけど、私が産んだのは二人だ。
そして何より幸季さんは誰に対しても敬語を使う人だ。おれだのおまえだの、そんな乱暴な言葉遣いをする人じゃない。
「お母さん、またスマホ?」
ハッとして顔を上げると、制服姿の菫と目が会った。菫は中学二年生。夏服のセーラー服姿。私も同じ中学出身。私のときとまったく同じ制服で微笑ましい。
隣に妹の桔梗もいる。桔梗はまだ小学六年生。だから私服。青いスカートは桔梗本人が選んだもので一番のお気に入り。
「ここのところ、お父さんが出勤するとすぐにスマホにかじりついてるよね?」
菜の花ママの二度目の投稿は午後十一時前。当然幸季さんの帰宅後。幸季さんの在宅中は知恵子さんを見に行かないことにしているから、今回の投稿は翌朝、幸季さんの出勤直後に読んだ。
朝七時三十分頃、子どもたちの登校時間にはまだ少し早かった。
「かじりついてるって、そんな大袈裟な……」
「大袈裟じゃないよ。誰が見たってそう言うと思うよ」
どうしてそんなに責められなければならないのだろう? 家事をおろそかにしているわけでもないのに。
さすがに腹が立ってきたが、菫の次のセリフを聞いて頭の中が真っ白になった。
「お母さん、もしかして不倫してる?」
「……………………!」
「なんで黙っちゃったの? 図星だったから?」
「いきなり突拍子もないこと言われたからびっくりして……」
なぜか菫は本気で私の不倫を疑っているようで、不倫という単語を投げかけられた私の反応を注意深く見守っている。
「友達のお母さんもまったくいっしょでさ、夫に隠れてスマホばかりして、スマホしてないときも上の空」
「それで?」
「実は不倫していて、家族が家にいない平日の昼間に、町内会の役員同士だった近所の男と会ってたんだって」
「その人、どうして不倫がバレたの?」
「不倫がバレた理由が一番に気になるということは、お母さん本当に不倫してるの?」
桔梗まで参戦してきた。お母さんはお父さんとしかセックスしたことありません、と声を大にして訴えたいけど、それはそれでずっとモテなかったと白状するようで悔しい。
「友達が言ってたけど、不倫すると頭の中がお花畑になるんだって。その子のお母さんの不倫がバレたのは不倫の証拠をスマホに大量に保管していたから。お母さんがお風呂に入ってる隙に、友達がお母さんのスマホを操作して不倫相手が撮影したお母さんの恥ずかしい動画を見つけて、お父さんに報告したというわけ。証拠を見つけたのはいいけど、フラッシュバックっていうらしいね、その子は何ヶ月も経った今でも見てしまった動画の内容を思い出しては涙を流してるんだよ」
「何て言っていいか……」
「他人事みたいに言わないで!」と菫。
「お母さんが不倫したら絶対に許さないからね。二度とお母さんとも呼んであげないんだから!」と桔梗。
所詮他人事なのに他人事みたいに言うなと言われても困る。
「二人とも、お母さんは本当に不倫なんてしてないよ」
「本当に?」
「本当に」
「じゃあ、スマホ見せれる?」
「それは……」
スマホを見せれば、私が文殊の知恵子さんで人妻キラーというハンドルネームを使って長年偉そうに投稿してきたことが閲覧履歴からバレるだろう。ある意味、不倫していて不倫がバレるよりもこの子たちに軽蔑されるかもしれない。母親としての権威が失墜してしまうのは確か。しかもそれを幸季さんに告げ口されたら――
「スマホを見せれないということはやっぱり……」
「言いがかりはやめて! 不倫なんてしてません!」
「証拠は?」
不倫している証拠なら分かるが、不倫してない証拠ってどういうものだろう? 不倫してないことを証明しろって、そういうのを悪魔の証明というのではないだろうか? でも興奮状態で私が不倫していると決めつけている今の菫と桔梗には何を言っても無駄だ。
「そのことについてはまたゆっくり話し合いましょう。二人ともこれ以上話してたら、学校に遅刻するよ」
二人とも不服そうな表情のまま、行ってきますも言わずに家から飛び出していった。
二人の登校後、久しぶりにママ友の美歌さんに電話した。美歌さんの子は菫と幼稚園で同じクラスだった。子どもが大きくなればママ友たちとも疎遠になる。美歌さんは私と違って陽気で顔が広く、人づきあいが苦手な私にとって唯一今でもつながりが切れてない人だった。
「蛍さん、元気? 変わりない?」
「美歌さんに聞きたいことがあって」
「言ってみて」
「菫の友達の母親で、不倫していてバレた人がいるそうなんだけど、美歌さん知らないかと思って」
「知ってる。不倫相手も近所の人だったから大騒ぎになってるよ」
どうやら知らないのは私くらいのものだったらしい。
「前から怪しんでいた娘さんにスマホの中身を調べられてバレたのよね。SNSのやり取りだけでなく、不貞行為してる動画まで見られたみたい」
「それからどうなったの?」
「娘さんはすぐに旦那さんにバラして、調べたら自宅でも男と会っていたことが分かって、間違いなく離婚だろうなと思ったんだけど……」
「再構築したの?」
「うん。誰も離婚を望まなかった」
「どういうこと?」
「奥さんは専業主婦だったし、ほかに行き場所もなかったから。娘さんとご主人は復讐のため」
「復讐?」
「あれから娘さんは誰かに会うたびに母親の不倫について泣きながら打ち明けまくった。一方で、うちに帰れば母親をいびり抜いた。言葉の暴力だけでなく、肉体的な暴力もあったみたいね。それに対して父親は、やりすぎるなよと笑って見てるだけ。町内会の役員もやめさせてもらえなかった。町内でそのうちの不倫を知らない人はいない状態だから、どこに行ってもさらし者で針のムシロ。それは相手の男も同じで、やっぱり離婚はしなかったけど、奥さんも子どもたちも口を利いてくれないし、こづかいは0円にされて自由になるお金もない。どっちのうちも家を建てたばかりで、住宅ローンがほぼ満額残ってる。だから家を売って引っ越して、環境を変えて再出発することもできない。もちろん不倫相手との接触は禁止されたけど、お互いの家は近所だし、どちらの子どもも同じ学校。忘れようにも忘れようがないよね。どっちのうちも離婚しなかったというだけで、これは再構築ともいえないんじゃないかな?」
知らなかった。インターネットにつながなくても、不倫はすでにこんな身近な存在になっていた。菫と桔梗に疑われている以上、幸季さんだけでなく娘たちの在宅中も知恵子さんの閲覧・投稿は控えた方がよさそうだと思いながら、美歌さんとの電話を切った。
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