この作品はいかがでしたか?
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日を追うごとにお母さんの調子が悪くなっていって……とうとう入院することになってしまった。
その頃になると、職場と病院とを往復する毎日で、当然のようになおちゃんとはメールや電話だけのやり取り中心になっていて。
「ごめんね」
なおちゃんの相手が出来ないことを謝罪するたび、彼は『大丈夫だよ。菜乃香はお母さんのことに集中して』と慰めてくれた。
その頃からだったと思う。
そんなに話せないなおちゃんとの会話の中に、新しく入ってきた嘱託職員の女の子の話がちらほら混ざるようになったのは。
私より七つ下で、今年二十三歳になるらしいその女の子は、すでに結婚していて一児の母らしい。
『とにかくよく頑張る子でね。旦那さんの仕事が忙しくてなかなか家のこととか協力してもらえないみたいなんだけど……子供の面倒もよく見る良い子なんだ』
「……そう、なんだ……。偉いね」
話せる時間だって限られているのに、他の女の子の話をされて楽しいわけがない。
しかも私には持ちたくても持てない家庭と子供の話。
なおちゃんにもその新人さんにもあって、私にはないもの。
そんなのを聞かされたら……私が羨ましくてたまらなくなっちゃうって、何で分からないのかな。
(なおちゃん、酷いよ)
だけどなおちゃんに対する後ろめたさから、私は強くそのことを抗議できないまま。
泣きそうな気持ちを抱えて電話を切ることが増えた。
もしかしたらなおちゃんはその女の子に惹かれ始めているんじゃないかな?
そんな風に思ったけれど、私との年の差だって十四もあるのだ。
嘱託職員のその子となおちゃんとは二十一歳差で、オマケに既婚者で子持ちだと聞かされていたから、私はそれだけを心の支えにしていたように思う。
そんな時だった。
いつものようにお母さんのお見舞いに行った際、〝彼〟に出会ったのは――。
***
第一印象は「あ! あの人大変そう!」だった。
右足に怪我をして入院中らしいその人は、一階に入っているカフェで買ったのかな?
片手に温かい飲み物が入っていると思しきカップを持って、パジャマ姿。
松葉杖をぎこちなく使いながらえっちらおっちら歩いていた。
今にも松葉杖を取り落とすか、もしくはカップをひっくり返してしまいそうで。
私は見ていられなくて思わず声を掛けていた。
「あのっ。もしよろしければお部屋までお飲み物、お持ちしましょうか?」
日頃なら見知らぬ若い男性に声なんて掛けなかったと思う。
だけど病院と言う特殊な空間が――。
母を看病する中で沢山の人たちに支えて頂いていると実感することが増えた経験値が――。
私をいつもよりちょっぴりお節介にしてしまっていた。
「……えっ」
突然背後から声を掛けたからだろうな。私の声に思わずと言った感じでつぶやいて、不審げにゆっくりと振り返った男性が、次の瞬間私をじっと見つめてから大きく瞳を見開いたのが分かった。
「違ってたら申し訳ないんですけど。……ひょっとして……なのちゃん?」
「えっ? 何で私の名前……」
まさかいきなり名前を呼ばれるだなんて思っていなかったから。今度は私が変な声を上げる番だった。
「やっぱりなのちゃんだ。……僕だよ、分かんない?」
松葉杖をついているのを忘れたみたいに自分の顔を指さそうとしてヨロリとよろけた彼を、私は思わず支えて。
カップの中のコーヒーがユラユラ揺れて、今にもこぼれてしまいそう。
それを横目に見たあと、存外間近になった男性の顔を恐る恐る見上げて、私は「あ……」とつぶやいた。
「もしかして……タツ兄?」
彼は子供の頃、同じ自治会内に住んでいた、三つ年上の幼馴染み――波野建興だった。
小さい頃は地区の子供会行事が終わるたび、学年も男女も関係なくみんなでわちゃわちゃ遊んで。
タツ兄もそんなメンバーの中の一人だったのだけれど。
鈍くさくて要領の悪かった、泣き虫の私の面倒をよく見てくれた優しいお兄ちゃんだった。
「そうそう。久しぶりだね」
同じ自治会のメンバーとは言え、二十軒以上間に家を挟んでいたため、タツ兄が中学に上がって、子供会から抜けたあたりから疎遠になっていた。
幼い頃はあんなに仲が良かった同級生の女の子達とだって、中学へ入学して違った部活を選んだ途端、ほとんど接点がなくなってしまったのだから、当然と言えば当然の流れだったのだけれど。
実家にいた間も、道端なんかでタツ兄のこと、ちっとも見かけなかったなと思って。
「タツ兄、今でも実家?」
そんなことを思いながら何気なく聞いたら、「まさか!」と即否定された。
「親がさ、いつまでも家にいたら甘えが出るから一人暮らししろって方針でね……。就職してすぐに追い出されたんだ」
「わー、厳しいっ」
子供の頃に戻ったみたいな気持ちでクスクス笑ったら、「だろ? 世知辛い家なんよ」と、タツ兄も一緒になって笑ってくれる。
それは目が線になってしまうみたいな……懐かしい人懐っこい笑みで。
変わらないその笑顔に、私は何となくホッとした。
「……おっと」
笑い過ぎたのかな。
タツ兄が手にしているカップがぐらりと傾いて、中身がトプンッと大きく波打ったのが見えた。
あのカフェにはスパウトタイプのフタだってあったはずなのに。
そう言うのをしていないからちょっと揺らしただけでカップの中で暴れたコーヒーが飛び出しそうになるんだよ。
そう思った私が、
「もう、何でフタしてないの!」
思わず湯気のくゆるカップをタツ兄の手から取りあげてそう言ったら、「いや……片手だったし何かフタ閉めんの、面倒……む、難しかったからつい」とか。
「ねぇ、タツ兄。今、絶対面倒って言い掛けたよね?」
すかさず突っ込んだら、そっぽを向いて誤魔化そうとするの。
昔は私なんか足元にも及ばないほど運動神経も良くて優しくて、大人っぽく見えたタツ兄なのに。
(ヤダっ。タツ兄ってばちょっと見ない間に何だかすっごく子供っぽくなってない?)
それがちょっぴり可愛く見えて。
そんなことを思った自分にすぐさまハッとした。
それは、一回り以上離れたなおちゃんとの付き合いが長くなっているからこそ感じてしまった感想なのかも知れない。
そう思い至って、急に後ろめたくなったのだ。
思わず黙り込んだ私に、タツ兄がバツが悪そうに「なのちゃん、ちょっと会わずにいた間にすっごく大人っぽくなったね」ってつぶやいた。
私はその声にはじかれたみたいに意識をタツ兄の方へと取り戻す。
「――えっと……何階?」
心の乱れを落ち着けるみたいに小さく吐息を落として問い掛けたら、「へ?」と間の抜けた声を出してタツ兄が私を見下ろしてくる。
「ごめん、唐突すぎたかな。……その、タツ兄の病室、何階?って聞きたかったの。これ、私が部屋まで運んであげるって……さっき声かけたでしょう?」
そこまで言って、そう言えばと思って。
「あの……とっても今更なんだけど……足のことも聞いていい?」
私は恐る恐る問い掛けた。
「ん? ああ、もちろん。――とりあえず歩きながら話そっか」
タツ兄は西病棟のエレベーターホールへヒョコヒョコと松葉杖を使って器用に進むと、乗り場操作盤の「▲」ボタンを押して私を振り返った。
***
「……そっか。交通事故で」
タツ兄は通勤中、交差点で信号無視をして突っ込んできた車に正面衝突されて、右足の膝から下を複雑骨折してしまったらしい。
幸い命に別状はなかったらしいけれど、車にガッツリ挟まれて複雑に折れてしまった足は手術が必要で。
結局入院を余儀なくされたんだとか。
西棟九階――。
整形外科の入院病棟があるラウンジの談話スペースで、私は窓に面したカウンター席へタツ兄と横並びに座って彼の話を聞いている。
タツ兄は自分だけコーヒーを飲むのは気が引けるからと。私に自販機でジュースを買ってくれた。
「……災難だったね」
温かいミルクティーを飲みながらしみじみとつぶやいたら、タツ兄が「それ」と答えてから、「えっと……。それで……なのちゃんはどうして病院にいるの?って聞いても平気?」と、うかがうように話題を変えてきた。
タツ兄の話を聞いた手前、自分のことを隠すのは気が引けて。
私は「実はね、お母さんが――」と今までの経緯をかいつまんで話した。
タツ兄は当然うちのお母さんとも顔見知りだったから……話しているうちに段々感情が乗って来て。
気が付けば私、ほろほろと涙を落としながら夢中で心情を吐露していた。
「お母さんね、私が結婚出来ないのが心残りだって悲しそうな顔をするの……」
さすがになおちゃんとのことは言えなくて……そこは話さずに視線を伏せた私に、タツ兄はただ黙ってうなずいてくれる。
その空気が心地よくて――。
「私だってお母さんを安心させてあげたいんだよ? でも……こればっかりはご縁だから……。ひとりじゃどうしようもないよね」
淡く微笑んだ私に、タツ兄は「彼氏、いないの?」とも「好きな人は?」とも聞いてこなかった。
まぁ、こんな話をしてる時点で、普通は男っ気がないんだって思われるよね?
もしも詳しく聞かれていても、なおちゃんとのことをどう話していいかなんて分からなかったから。
そう言うのを根掘り葉掘り聞かれないことにホッとしたのは確かだ。
「それにね、下手にお母さんを安心させてしまったら……すぅーっと逝ってしまうかも?とか馬鹿なことも考えちゃって……。何となく怖いの」
なおちゃんと付き合い続けるための言い訳にしている詭弁を、私はタツ兄にも〝本当は結婚したくてたまらない〟という本心を押し隠してうそぶいた。
「だからね、案外現状維持が一番いいのかも、とも思ってるの」
結婚したくないだなんて微塵も思っていないくせに。
そんなことを思いつくままにつらつら話して、はらはらと涙を落とす私を、タツ兄は何も言わずにただただそばで見守っていてくれた。
幸い窓に面したこの席は、真横にでも座られない限り泣き顔を人から見られる心配はない。
その安心感と、タツ兄への信頼感が私の涙腺を思いっきり緩めていた。
タツ兄は、私をひとしきり泣かせてくれた後で、「よしよし」と子供の頃みたいに頭を優しく撫でて肩に寄り掛からせてくれて。
子供の頃とは違って、包み込むような大きな手と広い肩幅に、タツ兄も大人の男の人になっちゃったんだな……と不意に意識させられた私は、にわかに恥ずかしくなってしまう。
私の涙が早々に引っ込んだのは、その戸惑いのせいだったのかも知れない。
「僕なんかよりなのちゃんの方がよっぽどしんどい思いをしてるじゃん。知らなかったとはいえ、何も力になれなくてごめんね」
実家に戻っていれば、あるいは何か話を聞くことがあったかもしれなかったけれど、仕事にかまけて不義理をしていたから、とタツ兄が謝ってくれて。
私はタツ兄に頭を撫でられながら、彼はちっとも悪くなんてないのに、って思った。
***
あの日から、私はお母さんのお見舞いのついでにタツ兄のお見舞いにも寄るようになって。
タツ兄はタツ兄でお母さんの病室まで出向いてくれて、お母さんを見舞ってくれたりした。
「ひょっとしてなのちゃんと建興くんはお付き合いしているの?」
最近ではお母さんの病室へ行く前にタツ兄の病室へ寄って……。
二人で連れ立ってお母さんのお見舞いに行くことが増えていたから。
お母さんがふわりと笑ってそんなことを問いかけてきたのも、ある意味必然だったのかも知れない。
実際、私はタツ兄のことを異性として意識してしまうことが増えてきていたし、そのことに母親であるお母さんが気付いていても不思議ではなかった。
でも、タツ兄は恐らくただただ幼い頃の延長みたいな気持ちで、妹みたいに私を甘えさせてくれていただけだと思う。
それに――。
最近ちっとも会えていないけれど、私にはなおちゃんがいるのだ。
そうだよ、って言ってあげたらお母さんが安心するのは分かっていても、そんなこと言えるわけがなかった。
だから――。
私は慌てて
「ちょっ、お母さんっ」
――いきなり何を言い出すの!
と続けようとしたんだけど。
タツ兄がまるで私の言葉を封じるみたいに「そうなれたらいいなぁって……下心ありまくりでおばちゃんに取り入ってるところです」って被せてくるから。
私は思わず言葉に詰まってタツ兄を見上げた。
「――ん?」
なのにタツ兄は何でもないことみたいに私に柔らかく微笑み掛けてきて。
私はそんなタツ兄の悪びれない態度に、真っ赤になってうつむくことしか出来なかった。
お母さんはそんな私の様子を見て、嬉しそうに「そう。おばちゃんは建興くんなら大歓迎だから。なのちゃんとうまくいったら、いの一番におばちゃんに教えてね」と、彼に向ってにっこりと微笑んだ。
***
きっと、再会した日にお母さんが私の花嫁姿を見たがっていたことを話したりしたから……。
タツ兄は気を遣ってくれたんだ。
うちのお母さんは東棟九階の内分泌内科にいる。
タツ兄の病室があるのも九階だけど、彼が入院しているのは西棟だから、棟が違う。
「タツ兄……さっきのって……」
東西の建物を繋ぐ連絡通路を二人で歩きながら、私は恐る恐る切り出した。
現状維持とも未来があるとも取れる言い方でお母さんの気持ちをぐんと持ち上げてくれたタツ兄はさすがだなって思いながら。
「前に私が変な話をしちゃったから、気を遣ってくれたんだよね? 有難う」
ぺこりと頭を下げてから、「でも――」と続けずにはいられない。
「でも――、そんな嘘をついたって知られたら、タツ兄の彼女さんとか……きっとめちゃくちゃ嫌な気持ちになっちゃうから」
だから、気を遣わなくてもいいよ?
そう続けようとしたら、タツ兄が急に立ち止まって。
「――彼女とかいたら、そもそもなのちゃんとこんな風に毎日のように会ったりしないと思わない?」
ってじっと見詰められた。
私は、自分になおちゃんがいるくせにタツ兄とこんな風に逢瀬を重ねてしまっていたから……そういう当たり前のことを失念してしまっていたのだ。
「そ、それは……」
「さっきおばちゃんに言ったのは僕の本心だから……。言う順番がおかしくなっちゃったけど……僕とのこと、真剣に考えてみて?」
タツ兄の直向きなまなざしに、私は何も言えなかった――。
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