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名木沢清隆の謎の訪問から二週間が経ち八月になった。
“近い内にまた”と言っていたわりに彼からの接触はその後ない。
瑞記はますます家に寄り着かなくなったので衝突もせず、園香はそれなりに平穏な日々を過ごしていた。
ただ、いがみ合うことが減ったのはいいが、離婚話も進展しない。
なるべく自分たちだけで解決したかったが無理だと悟り、園香は弁護士に探し始めていた。
弁護士選びは初めての経験で迷いもあったが、実家に近い品川にある中規模の事務所を選択し、初回相談の予約を取った。
「それで弁護士は何て?」
弁護士との面談後、園香は弁護士事務所近くのコーヒー店で彬人と落ち合った。
園香の現状を知る彼は何かと気遣って、ときどき連絡を寄越してくれる。
その際、弁護士に相談に行くと話したら、ますます心配そうにしていたので、会って話をすることになったのだ。
席に着くとすぐに本題に入る彬人のせっかちさは、普段の態度とは少し違う。
(それだけ私を気にしてくれていたのかな)
記憶がないということだけでなく、彼の親しい同僚と揉めた名木沢希咲が絡んでいるというのもあるのだろう。
「相手が拒んでいる以上、すぐに離婚というのは難しいみたい。事前に調べていた通りのことを言われたよ」
「相手が有責でもか?」
彬人が不満そうに眉をひそめる。
「私の場合は瑞記が有責なのを証明できないからね。あまり帰宅しないけど一応定期的には帰ってくるし、本人は仕事だって言ってるから」
不倫も証明できない。結局瑞記は隙を見せなかったから、悔しいが状況証拠しかない状況だ。
「だからまずは瑞紀に財産分与などのリアルな条件を出しながら離婚の話し合いをしてみて、それでも拒否されたら離婚調停に進めるのがいいんじゃないかって」
「離婚調停をしたら確実に離婚出来るのか?」
「確実とは言われなかったけど」
「やはり名木沢希咲との不適切な関係を示す証拠が必要だな……探偵を雇うしかないのか?」
「私もそう考えて弁護士の先生に聞いてみたけど、あのふたりの場合同僚だから証拠を取るのがかなり難しいって。一緒にいるところを写真にとっても仕事だって言わるだろうし、ホテルに泊まっても出張だって言いはるだろうし」
ラブホテルにでも泊まってくれたら証拠になりそうだが、あのふたりがそんな行動をするとは思えない。
(瑞記たちは高級旅館に泊まってた。ラブホテルじゃ満足しないでしょ)
「やっかいだな」
「そうなの。不倫していたとしても証拠を取るのが本当に難しい。あとは日記とか、出来事を記録したものくらいかな」
「日記が証拠になるのか? そんなの後からいくらだって書けるから不正し放題だろ」
彬人は疑うような目で園香を見る。
「不正されてないかしっかり調べて証拠として認められるか判断するらしいよ。誤魔化してもばれるんじゃないかな」
「なるほど。園香の日記は証拠として使えそうなのか?」
「最近は日記をつけているけど、瑞記と離婚について話した後のものしかないから、あまり役に立たないんだよね」
たとえ外泊の記録が有っても、妻に離婚を切り出されたから帰れなかったと瑞記は主張するだろう。
(やっぱり以前の記録が必要だったな)
「以前も日記を書いてたんじゃないのか?」
「ううん。そんな習慣無かったよ」
「……そうか」
彬人が釈然としないような浮かない表情になる。
「何か気になってるの?」
「いや……離婚が成立したらどうするんだ?」
「まだ具体的には考えていないけど、正社員になって仕事に集中したいかな」
「再婚は?」
どこかきまずそうな彬人の問いに、園香は瞬きをする。
「……そんなの考えたこともなかったけど、もう結婚はいいかな」
覚えていないけれど、瑞記と結婚したときは希望に溢れていたはず。少なくともこんな未来が訪れるなんて考えもしなかっただろう。
きっと幸せな暮らしを思い描き、それでも失敗した。
「瑞記とは何もかもが合わなくて、今は離婚したい気持しかないけど、不仲になったきっかけは分らない。私に原因があるかもしれないんだよね」
園香が問題行動を起こし夫婦仲が悪化した可能性だってあるのだ。瑞記の方こそ園香に失望して、希咲に気持ちが向いたのかもしれない。
本当は瑞記と話し合いをしてお互いの不満を解決して行けたらよかったのだろうが、もう手遅れだった。
どちらもやり直す気持ちがなく、相手に対する優しさも持てない。
「どうしてこうなったのか知りたいな。そうじゃないとまた駄目になりそう」
長い人生の中の一年くらい、忘れてしまってもなんとかなると思っていた。
けれど、自分の気持や考えが分からない時期が有ると言うのは想像以上にもどかしく不安を感じるものだ。
状況に順応しようとしていても、不意に何もかもリセットしたい衝動がこみ上げるときがある。
(一年前からやり直したい)
それは無理だと分かっているけれど。
「いつか記憶が戻ったら、再婚したくなるかもしれないね」
「そうか」
彬人は納得がいかないような浮かない表情だったが、特に何も言わなかった。
そんな彼の態度に園香は安心したのだった。
「今月の帰宅は三日か……」
園香は日記をつけながら呟いた。八月に入っていからの瑞記の帰宅日数だ。
「今日は二十日だから、だいたい一週間に一度くらいの間隔?」
帰宅したからと言って何かする訳じゃない。けれど定期的に帰って来て園香と顔を合わす。
そのときの瑞記の様子から、なんとなく観察されているような気がする。実際彼は妻が在宅しているか確認しているのだろうか。
これと言って特別な出来事が起きていない為、淡々とした内容の日記の記入を終えパタンと閉じる。
日記や家計簿は続かないタイプだったが、今は離婚という目的があるからか続いている。
自分の気持を綴るというより、瑞記行動観察だ。
続いて財産分与に備えて財産の整理をする。大した資産はないが、きっちりやるように弁護士に言われている。
銀行口座は瑞記に生活費を振り込んで貰っているものや、給料振込用、貯金用などいくつかある。確認しているうちに、一番古い口座の通帳がないことに気付いた。
WEB通帳ではなく紙の通帳なのだが、どこに仕舞ったのかが分からない。
貴重品を仕舞いそうな場所を探してみたが見当たらない。クローゼットの奥まで確認してから再度探す。机の引き出しも念の為外してみる。
しかしそもそも私物が少なく、記憶を失くしてから何度も片付けをしている部屋だ。新たな発見なんてない。
「なくしちゃったのかな……」
引っ越しの際に誤って捨ててしまったのかもしれない。
手間だが再発行しに行くか、この機会にオンライン口座に変更するしかないなと園香は溜息を吐いた。
部屋を汚しただけの無駄骨になってしまった。
「こほっ」
埃っぽくて咳が出る。掃き出し窓を開けた。
続いて引き出しを戻そうとしたそのとき、園香はふと机に違和感を覚えた。
ノートパソコンを置いてある机は、非常いシンプルなデザインで一見変わった点はない。けれど園香の心臓はどくんどくんと大きく音を立て始めた。
(どうして今まで気付かなかったんだろう)
デスクの天板の下を確認する。隅の方に小さな引っかかりがあった。それを引っ張ると天板の下部分がぱかりと開いた。
「やっぱり!」
予想が辺り、園香は高い声を上げた。
隠し収納付きの家具があることは、もちろん知っていた。一般的な商品ではないが、ときどきそういう機能を求める人がいる。
でも園香個人としては関心がなかった。自分には家具に隠したい秘密などないし、遊び心もなかったから。
だが記憶がない間に自分はそれを必要とするようになっていた……。
隠し収納に仕舞われていたのはブラックレザーのカバーのノートだった。厚みはないがA6くらいの大きさで、肌ざわりがいい。
一体このノートに何が書かれているのか。
緊張しながら表紙を捲る。
パラパラと何枚かページを捲った園香は、驚きに目を見開いた。
このノートこそが、記憶の空白期間に園香が書いた日記だったのだ――