コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
開け放たれた窓からうだるような熱気が入り込む。何かに急き立てられるような蝉の声が静かな部屋に響き渡る。
園香はそれらを気に留めることはなく、フローリングの床に座り込んだままページを捲る。
【十二月十日。結婚式から十日が経った。
瑞記との関係が上手くいかない。考えてもどうしてか分からない。
思考を整理するためには、日記をつける行為が役立つと聞いたから、今日から思ったことを書いていく。
瑞記はふたりでいても上の空で私の話を聞いてないようだ。
原因が分らなくて困惑している】
この日記を書いたときの園香は、誰かに見られることを想定していたのだろうか。
それともただ慣れていないだけなのか。
どちらにしても、自分らしくないと感じる素っ気なく固い文章に違和感がある。
【十二月二十四日 結婚して初めてのクリスマス。
クリスマスイブは一緒に過ごそうと約束したから、ご馳走を用意した。
でも瑞記は出張からまだ帰らない。連絡も取れないから心配だ】
【十二月二十五日 昨日瑞記は帰ってこなかった。連絡はなく電話も繋がらない。
事故に遭ったのだろうかと何も手がつかずにいたら母から電話が来た。
元旦の予定について聞かれたが、保留にした】
【十二月二十六日 瑞記が帰宅した。事故などではなく仕事だったそうだ。
心配だからが必ず連絡をして欲しいと話したら嫌な顔をされ喧嘩になった。
彼が怒鳴るところを初めて見た。
あれ以来瑞記が口を利いてくれなくて、どうすればいいか分からない】
【十二月二十七日 瑞記がまた出て行ってしまった。
どこに行くか聞いたけど無視されてしまった。
あんなに優しかった瑞記が別人みたいで、どうすればいいのか分からない。
どうして変わってしまったのか、何が悪かったのか】
日記にはその日以降も瑞記との不仲が綴られている。
当時の園香は混乱しているようで、いつも“どうしていいか分からない”と書いてありる。
日記に書かれている文体が段々感情的になり、不思議なほど弱気に見える。
【一月一日 義実家に挨拶に行った。瑞記が優しくてほっとした。
機嫌が直ったのかもしれない。
よい一年になるといいな】
【一月三日 瑞記が仕事に行った。朝早くに誰かから連絡が来て急に出かけることになったみたいだ。
本当は一緒に私の実家に行く予定だったけれどひとりで行くことになった。
残念だけど仕方がない。実家には彬と叔母様が来ていた。
結婚してから彬とは疎遠だったから会うのは久し振りで嬉しかった。
台湾での仕事の様子を聞くのが楽しかった。仕事を辞めなければよかったと初めて後悔した】
園香はページを捲る指を止めて、息を吐いた。
当時の自分は瑞記が冷たいことを悲しみ孤独を感じているようだが、彼が裏切っている可能性を少しも考えていないようだ。
クリスマスに不在の上連絡も取れない状況で、正月休みは急な呼び出しで出かけて行く。
疑ってもおかしくない状況だと言うのに、なぜか落ち込むだけで瑞記の言いなりになっている。
共感出来るのは、仕事を辞めたことを後悔したと書いてある部分のみ。
過去の自分の行動なのに理解が出来ず、胸中に苛立ちがこみ上げる。
しかしこの日記のおかげで、不仲になっただいたいの時期が分った。
恐らく結婚直後、十二月上旬から溝ができ始め、クリスマスで決定的になったのだ。
まだ記憶に新しい名木沢清隆の姿が思い浮かんだ。
際立った容姿に地位、人柄も悪くなさそうで、財産も申し分ないだろう。
(あの人が夫なのに瑞記を不倫をするのかな)
また隠しきれるものなのだろうか。
次のページはなぜか日付が飛んでいた。
【一月十四日 瑞記のビジネスパートナーの名木沢さんが女性だと知った。
ショックだった。彼はあまり家で仕事の話をしないから今まで知らなかった。
出張もふたりで行っていたようだ。
帰らなかったクリスマスも仕事で、ふたりで過ごしていたのだそう。
彼女と仕事以外では距離を置いて欲しいと頼んだら瑞記が激高した。
瑞記にとって名木沢さんは必要な存在だそうだ。
それなら妻の私はどんな存在なのだろう。
聞くと、そんなことを気にする私がおかしいと瑞記は言った
納得できなかったけれど喧嘩が酷くなり何も言えなかった】
名木沢希咲の存在を知りショックを受けているものの、文章自体はそれ程感情的ではなく抑えている。
ただそれまでと比べてかなり長文だ。
それだけ不満で吐き出さずにはいられなかったからだろうか。
事故の後、病院で夫のビジネスパートナーが女性だと知ったときのことを思い出した。
あのときは瑞記への気持が無かったから驚き違和感を覚え、多少不快感を持ったくらいだったけれど……。
(当時の私は、きっとすごくショックだったんだろうな……結婚して初めてのイベントは全部他の女性と過ごしてたってことだものね)
何を言っても省みられない妻。あまりに哀れだ。
それなのに反論出来ないところが、情けなくて歯がゆいく読んでいてストレスが溜まるばかりだ。
もう日記を閉じてしまいたい気持ちだが、有益な情報があるかもしれないので先に進めるしかない。
【一月二十日 やはり瑞記と名木沢さんの関係はおかしいと思う。
彼女について調べてみた。既婚者だった。
それなら心配することはないのかもしれない。
でも彼女は瑞記が家で私と過ごしているとき、必ず電話をしてくる。
わざと邪魔をされているような気がしてならない。
瑞記に彼女と距離を置いて欲しいと思う。
でも瑞記は聞き入れてくれないどころか、私との距離を置こうとしているのか、無視されている。
どうすればいいか分からない。何もかもが嫌になる。
でも家族と友人の反対を押し切って結婚したのだから、頑張らなくては】
衝撃の一文があった。
(私たちの結婚って周りから反対されていたの? そう言えば以前彬人が……)
『見合いから結婚までがあまりに早くて俺は少し心配だった。でも園香は大丈夫だと言っていた。結婚を急いでいる様子に見えた』
彼が園香に言った言葉だ。
あれは結婚を反対した事実をソフトに言い換えていたのかもしれない。
【一月三十日 瑞記がもう一週間帰って来ない。
連絡もないし何か有ったのか心配で仕方ない
でも、どこからも連絡がないのはきっと事故ではないからだ。
もしかしたら私が嫌になって出て行ってしまったのかもしれない】
【二月八日 長く不在だった瑞記が帰って来た。
私はすごく不安で食事も出来なかったのに、彼は元気だった。
自分でも驚くくらいの怒りが込み上げて責めてしまったら大喧嘩になった。
瑞記は私が疎ましくて仕方ないようだ。
はっきり嫌いだと言われてしまった。直接言われるのは初めてだった。
このままでは離婚になるかもしれない】
書いている日付は飛ぶようになったが、内容は相変わらず暗い。
瑞記との関係で苦しみながらも改善出来ず、むしろ悪化している様子が伝わってくる。
夫との関係以外に触れていないところも、視野が狭くなっている証拠に感じる。
【二月十日 瑞記に無視をされている。彼が私に酷く怒っているのが分る。
午前中、突然名木沢希咲が訪ねて来た。
動揺して何を話したのか覚えていない。でも気付けばリビングのテーブルに座っていた。
彼女はとても綺麗に笑う人だった。
「改めて名木沢希咲です。仲良くしてくださいね」
そんなふうに言われた。
酷く混乱していたからきちんと返事をしたか覚えていないけれど、仲良くなんて出来るはずがない。
だって彼女は自分と瑞記は特別な関係だとはっきり言ったのだから】
「え? 名木沢さんが自分で不倫を認めたの?」
園香は日記の一文を凝視したまま驚愕の声を上げた。
信じられない。普通は隠したいものではないだろうか。
次々と明るみになる事実に心臓が煩く音を立てる。
強い緊張に苛まれ、喉がカラカラだ。
この後自分はどんな反応をしたのだろう。瑞記との関係はどうなったのか。
【二月二十五日 嫌がらせ電話が止まらない。
始まったのは名木沢さんと会った次の日から。
彼女がかけているのかもしれない。
でも瑞記は私の言葉を信じてくれない。
頭がおかしくなってしまいそう】
【三月五日 スマホを機種変更した。データが消えてしまった
新しい机を買った。ここに日記を仕舞っておこう】
相変らず日付が飛んでいる。
明記されていないが、嫌がらせは解決したのだろうか。
当時の園香が考えていた通り、犯人はタイミング的に希咲の可能性が高い。
突然スマホの機種変更をし、新しく机を買うという行動が気になる。
何らかの事情でいろいろなデータが入った携帯が駄目になったから、日記まで失わないように隠し収納付きの家具を買ったようにも読める。
出来事の詳細も感情も記されていない短文なのが、精神的な余裕の無さを感じて不気味だ。
【三月十五日 彬が訪ねて来た。連絡が取れないから心配してくれたそうだ。
彼の顔を見たらほっとして泣いてしまった。
離婚した方がいいと言われた。
その方がいいかもしれない。でも決心がつかない】
【四月十四日 名木沢希咲の夫である名希沢清隆氏に連絡をした。
迷惑そうにされたけれど、なんとか会う約束を取り付けた。
三日後にグランリバー神楽で。そこに彼のオフィスがあるらしい。
偶然だけど誕生日だ。けじめをつけるにはいい日かもしれない。
これで駄目なら諦めて離婚しよう。
一番辛いときに瑞記が助けてくれたから、自分から彼を拒否するのが辛い。
彼は誰よりも寛容な人だと思っていた。でもそれは間違っていたのかもしれない。
決心したから少し気が楽になった】
日記はここで終わっていた。
園香の心臓は全力疾走した後のようにどくどくと煩く跳ねている。
知り得た情報の量とその内容の衝撃さに、息苦しさを覚える程だ。
(グランリバー神楽……)
園香が階段から転落して記憶を失った場所。
なぜそんなところに居たのかずっと疑問だったけれど、ようやく謎が解けたのだ。