休日の朝だった。
いつもならもう少し遅くまで眠っている時間なのに、微かな違和感が彼を浅い眠りの底から引き上げた。
カーテン越しに射し込む陽光はまだ柔らかく、部屋全体を淡く染め上げている。
天井の隅にほこりが一筋、日差しに浮かんで揺れていた。
直弥はゆっくりと目を開けた。
瞬きを一度、二度。
しばらく天井を見つめていたが、重たく残る疲労に身を任せるように、ごろりと体を横にした。
昨日は深夜まで続いたリハーサル。
激しいダンス、張り詰めた空気、終電間際の帰宅。
自宅のベッドに倒れ込むように眠り、夢すら見なかった。
その名残が、まだ身体の隅々にまとわりついている。
首筋がじんわりと痛み、手足の節々が鉛のように重かった。
半ば無意識に、サイドテーブルに置いたスマホに手を伸ばす。
画面が光り、ロックを解除すると、通知が一つ。
その瞬間、眠気が霧のように吹き飛んだ。
《今日、ちょっとだけ早起きだね。ベッドの右側、少しだけシーツ乱れてるよ》
心臓が、跳ねた。
(……え?)
いつもの“あの”匿名アカウント。
アイコンは名前もないただの黒い影絵のようなもの。
投稿される内容は一見、ただの熱狂的なファンからの私信のようだった。
けれど、今回は違った。
この部屋の、今朝の――自分の、ベッドの状況。
誰にも、話していない。
写真も、送っていない。
誰かが見る手段など、あるはずがない。
(どうして……?)
ぴくり、と首の後ろが引き攣る。
背筋に、冷たい感覚が這い上がった。
周囲の空気が妙に静かだった。
冷蔵庫のモーター音すら、聞こえない。
耳の奥で、自分の心臓の音だけが鼓膜を叩いていた。
ゆっくりと顔を巡らせる。
壁、窓、カーテン、本棚――異常はない。
人の気配など、どこにもないはずだった。
……けれど、確かに“何か”を感じていた。
目には見えずとも、空間の密度が違っていた。
部屋の片隅に、もう一人分の呼吸があるような。
理屈では説明できない確信だけが、静かに、しかしはっきりと脳を支配していく。
(まさか……)
直弥はベッドから足を下ろし、裸足のまま、カーテンへと歩いた。
床が軋む。
汗ばんだ足の裏がフローリングに貼りつく音が、ひどく大きく響いた。
カーテンに手をかける。
指先が震える。
布の感触が、やけに重く湿っているように思えた。
カーテンを、そっと開いた。
朝の外気がひやりと肌に触れた。
アパートの外には、誰もいなかった。
通学途中の学生も、犬の散歩もいない。
街は、休日の朝の静けさを保ったまま。
けれど、その「静けさ」が、逆に不気味だった。
無音が、彼を追いつめていく。
見られている――確かに、そう思った。
その夜のことだった。
スタジオでの練習が終わり、メンバーたちはそれぞれ荷物をまとめて先に帰っていった。
直弥は、湿ったTシャツを着替え、タオルで髪を拭いていた。
汗のにおいが、少しだけ鼻をつく。
壁際に置かれたリュックを取りに行こうとした、そのとき。
「なおや、ちょっといい?」
声に、肩が跳ねた。
振り向くと、永玖が立っていた。
優しい笑顔。
いつもと変わらないはずの顔。
だが、どこかが違っていた。
目の奥に揺らめくもの。
それは、炎にも似た、静かな熱。
「……なに?」
声が、ひどく掠れていた。
自分でも驚くほど。
永玖は、一歩だけ距離を詰めた。
「うん、ちょっとだけ……伝えたいことがあるんだ」
その言葉に、直弥の中に、ぬるりとした不安が広がっていく。
息を呑んだ。
「……僕だよ」
「え?」
「全部。メッセージも、プレゼントも。視線も、手紙も……ぜんぶ、僕だった」
脳が理解する前に、手からスマホが滑り落ちた。
硬質な床に当たり、乾いた音が響く。
「……なん、で……」
永玖の声は、穏やかだった。
まるで恋人に愛を囁くような、静かな調子で。
その穏やかさが、直弥を凍えさせた。
「だって、好きだからに決まってるでしょ? 他の誰よりも、君のこと、見てる。知ってる。全部わかってる」
狂気は、叫ばない。
それは、静かに染みていく。
侵す。
絡みつく。
「君がどんな夢を見て、どんな朝を迎えて、何に笑って、誰に優しくしてるか……全部、僕が知ってる」
永玖の手が、伸びてくる。
その指先に、異様なまでの執着が宿っていた。
「やめろ……! 気持ち悪い……!」
声が震える。
目の奥が熱くなり、足が勝手に一歩、後ずさった。
永玖の表情が一瞬だけ揺れる。
けれどすぐに、微笑みに戻る。
「うん、そう言うと思った。でも、大丈夫。今は混乱してるだけ」
「ちがう! お前……おかしいよ……!」
「“おかしい”のは、僕じゃないよ。直弥。だって、誰も君のこと、本当に見てない。君が苦しんでても、笑ってても、誰も気づかない。気づいても、手を伸ばさない。違う?」
言葉が、胸に突き刺さる。
痛みを感じるほどに、的確に――真実を突いてくる。
……でも。
「……お前なんかに、俺の何がわかる」
「わかるよ。わかってる。ずっと、見てきたんだから。誰よりも近くで、誰よりも深く」
その声は、柔らかく包むようでいて、抜け出せない罠のようだった。
心が、一瞬だけ、ぐらりと揺れる。
けれど――
直弥は走った。
スタジオを飛び出し、夜の街へ。
夜風が冷たく、肺に突き刺さるようだった。
街灯が、逃げる影を一つずつ切り取っていく。
永玖の声が、背後から追ってきた。
「なおや、待ってよ。僕は君のために――!」
走る。 走る。
何度も転びそうになる足。
心臓が耳の奥で爆音を立てている。
(逃げなきゃ……どこか、遠くへ……)
でも、どれだけ逃げても。
永玖の影は、深く、濃く――確実に、追いかけてくる。
スマホには、無言の通知。
部屋のドアの前には、差出人のない小包。
帰り道には、いつも同じ足音。
直弥は、確実に――追いつめられていた。
コメント
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神ぃぃぃぃぃぃぃ😇✨💕え、もう神様と言ってもいいですか?😭😭