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リフェアリー
128
御殿が商店街に来たのは、要が出発を決めた二日後だった。
朝。黒い作業着の男が六人。先頭に、権田。
「兄ちゃん」権田は、文房具屋の前の机を見て言った。三冊のノートが並んでいる。「まだ、やってたのか」
「やってます」
「何行になった」
「百二十行」
「百二十」権田は、うなずいた。「うちは、昨日で千人超えた」
要は、何も言わなかった。言うことがなかった。事実だった。
「商店街に、話がある」権田は、集まってきた店主たちを見渡した。「御殿の傘に入らないか。食料は保証する。警備もつける。その代わり、仕入れと売り上げは、御殿が管理する」
「管理って」会長が言った。
「俺が決める。帳面は要らん」
商店街の人間が、顔を見合わせた。
要は、権田の提案が、悪意ではないことを知っていた。権田は本気で、商店街を守ろうとしている。守る方法が、一つしかないだけだ。全部、自分の中に入れる。自分の目で見る。自分で決める。
そして、権田が倒れたら、全部が倒れる。
「権田さん」要は言った。「一つだけ、聞かせてください」
「なんだ」
「御殿で、千人の働きと食い分を、誰が覚えてますか」
「俺だ」
「全部?」
権田は、少し間を置いた。
「……部下が、いる」
「部下は、何に書いてますか」
「紙だ。それと、頭だ」
「その紙は、一冊ですか」
権田は、答えなかった。
要は続けた。
「一冊なら、やられます。ゼロじゃなくても、人に。部下の一人が書き換えたら、権田さんは気づかない。千人を、一人の目では見られない。だから、三冊にしてください。別々の三人に書かせて、月に一度、照らしてください。それだけで、御殿は、権田さんがいなくても、少しだけ回るようになります」
権田は、長い間、要を見ていた。
「兄ちゃん。それ、俺に言って、お前に何の得がある」
「ありません」要は言った。「でも、御殿が倒れたら、千人が路頭に迷う。商店街は、千人の面倒は見られない」
権田は、鼻で笑った。笑ったが、目は笑っていなかった。
「……三冊か」
「三冊です」
権田は、背を向けた。部下に、何か短く言った。それから、商店街を見渡して言った。
「傘の話は、保留だ。考えとけ」
黒い作業着が、川沿いに戻っていった。
出発は、翌朝だった。
荷物は、少なかった。水と、乾いた食料と、着替え。一ノ瀬がくれた割符が一本。それと、三冊のノート。
商店街の台帳は、会長たちに残した。要が持っていくのは、三冊の、新しいノートだ。
「本当に、行くの」会長が言った。
「行きます。戻るかどうかは、わかりません」
「戻ってきなさい。帳面が、たまるから」
要は、笑った。
一ノ瀬が、階段を下りてきた。歩くのが遅い。手に、小さな包みを持っていた。
「持っていけ」
開けると、朱肉と、小さな印が入っていた。印には、何も彫られていない。
「お前の名前を、お前で彫れ。公証人の真似事をするなら、印くらい持っとけ」
要は、頭を下げた。
「つむぎさんは」会長が言った。
つむぎは、荷物を背負って立っていた。要より大きな荷物だった。
「行きます」つむぎは言った。「区役所は、もう誰も来ない。でも、顔を覚える仕事は、たぶん、道の先の方にある」
「瑠衣は」
「行く」瑠衣は、端末を抱えて言った。「ここにいても、電気が切れたら終わりだ。それに」
「それに?」
「あんたが、ゼロに勝てるのか、見たい」
要は、答えなかった。勝てるとは思っていなかった。勝つという言葉が、合っているかどうかも、わからなかった。
ただ、歩く。顔を見に行く。
甲州街道に出た。
車は、走っていなかった。ガソリンスタンドが、全部閉まっていた。支払いができないからだ。カードも電子マネーも死んで、現金は足りず、ガソリンは地下のタンクで眠っている。
高速道路の入口に、人が歩いていた。要たちと同じように、荷物を背負って。西へ。北へ。東京から、出ていく人たち。
要は、振り返った。
ビルは立っていた。信号は変わっていた。電光掲示板には、まだ株価が流れていた。三週間前と同じ数字が、誰にも見られずに。
何も、壊れていない。
要は、前を向いた。
高速道路を、徒歩で歩く三人。要と、つむぎと、瑠衣。荷物の中に、三冊の白いノートと、一本の割符と、何も彫られていない印。
二百五十キロ。十日か、二週間。
「要さん」つむぎが言った。「東京、戻る?」
「戻る」要は言った。「戻るときは、作り直したものを持って戻る」
(第1部「剥離」了。第11話「八王子の関」へ続く)
コメント
1件
「三冊」の提案、めっちゃ痺れた……!権田さんの「俺だ」「部下がいる」から要くんが「一冊ならやられる」って返す流れ、攻防が静かで熱い。権田が鼻で笑って目が笑ってなかったのも、あの一瞬で全部読めたんだろうな。商店街の台帳は置いて、白いノート三冊と無印の印を持って出発するところ、背筋が伸びるような厳しさと希望があった。高速で振り返った東京、もう機能してないのにビルはまだ立ってるの、すごく胸にきた。次、八王子の関……気になる!