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「失礼します……」
何処か躊躇するかのように診療所内に入り込んだ亜美は、ぐるりと辺りを見回す。
人気を感じられないのは、時間的にも既に診察時間外だろう事は当然だが、それ以上に白を基調とした清涼感溢れる内装に目を惹いた。
全くもってそぐわないのだ。それは殺人者が棲息するには余りにも。
やはり勘違いなのだろうか。そんな判断の難しい中――
「は~い」
奥から少女が黒猫を抱えながら“とてとて”と歩み出てき、それがまた亜美の目を惹いた。
抱えられた黒猫は片目に古傷が有り、首輪に添えられた鈴が“ちゃりん”と小さく奏でた。あの彼の買い物の産物である事は一目瞭然。
それ以上に目を惹いたのが、黒猫を抱える少女の方。
“綺麗……まるで翡翠と琥珀の宝石みたい”
世にも珍しい虹彩異色症――オッドアイ。勿論、亜美もこの目でその症状を持つ者を見るのは初めてで、少女の放つ余りの幻想さから、暫し魅入られたかのように立ち竦んでしまった。
それはまるで、妖精の写し身でもあるかのような。
「……うん?」
立ち竦む亜美とは裏腹に、少女はその反応を怪訝に思う。
「あのう……お姉ちゃん? もう“カンバン”ですよ~」
最初は亜美を来院者と思ったのだろう。だがどう見てもそんな風に見えないと判断した少女は、ここぞとばかりに受付の終了を促していた。
早い話が追い返し。まるで居酒屋のノリだ。
「――っあ! ええっと、その……」
我に返った亜美はしどろもどろに返答するが、思わず魅入られてしまった焦りからか、口調は戸惑いがち――というより上手く口に乗らない。
「じゃあ何~? ボクこれから晩ご飯の準備が……。ねえジュウベエ?」
「……ニャア」
はっきりとしない亜美に業を煮やしたか、少女は何処か面倒くさそうに黒猫にも主張を同調させると、これまた黒猫も少女に応えるように――だが何処か面倒そうな鳴き声を上げていた。
「いえ、私は――」
さて、何と説明すれば良いのだろうか。亜美は考えあぐねている。
取材と言った所で、多分この少女には意味が分からないだろう事が伺える。
――と言うより、この少女は一体何者なのだろうか。
この動物病院の助手――にしては幼過ぎるし、そもそもそのオッドアイは失礼ながらも、どう見ても“普通”ではないし、日本人かどうかも怪しい。
「私は――何? よく分かんないから、また明日ね~」
考えあぐねてしまった亜美へ、少女は面倒くさくなったのか追い返す気満々だ。
笑顔で手を振るその姿は嫌味以外の何物でもないが、不思議と亜美は彼女への嫌悪感を抱かなかった。
やはり時間外に患者でもない者が突然押し掛けた所で、失礼なのは重々承知。ある意味少女の反応は当然の事。
「済みません……。では明日、また伺わせて頂きます」
少し拍子抜け感もあったが、亜美は改めて明日にでも伺おうと思った。
「は~い。じゃあね~」
場所は分かったので、何も焦る必要はない――と、改めて笑顔の少女へと頭を下げ、踵を返そうとした矢先の事。
「じゃあね~――じゃない! 勝手な事をしない」
室内の奥から、少女を咎めながらも穏やかな口調と共に歩み寄って来た人物。
「ええ~。だってお腹空いたしぃ……」
「そういう問題じゃありません……」
亜美はその姿を再見し、またもや心音が一段と高鳴ったのを感じた。
それは危機感――否、どちらかというと、それ以上に間近で彼の容貌に充てられた、一種の“ときめき”に近いもの。
改めて見ると、本当に惚れ惚れとしかねない。
これでは誰であろうと――
「うちの子がとんだ失礼を致しまして、申し訳ありません」
「あっ! いえいえそんなっ――」
まるで全てを見透かされてしまったかのような、深々と非礼を詫びる彼の姿に、唐突過ぎて亜美も上手く言葉にならない。
「えぇ! ボク悪くないし~」
隣で黒猫を抱えながら頬を膨らませる少女と同様、亜美はまたしても魅入られてしまっていた――彼に。
「ところで……救急か何かでしょうか?」
彼の当然の疑問。亜美の出で立ちから、どう見てもその類いの用が有るとは思えないし、何時までも此方を見詰めたままでは流石に怪訝に思う。
「あっ!」
言われてようやく自分の行動がおかしい事に気付いた亜美は、間の抜けた声と共に我に返る。
怪しまれてはいけない――。本来の主旨を切り出す前に、先ずは冷静に――ごく自然に。
二人から見ると亜美は充分に不自然なのだが。
「突然失礼しました……。私はこういう者です」
亜美はさりげなく、自分の名刺を渡す。
別段隠す意味もないし、何より顔色を伺う目的もあった。
「…………」
――さあどうでるか? 亜美は手渡しながら、彼の一挙一動も見逃さない。
もし睨んだ通りにやましい事があれば、必ず顔に出ると。
「あぁ編集部の方だったのですね。此処の雑誌はうちも待合室用に置いておりますよ」
「ボクの趣味でね~」
しかし彼は笑顔で返す。その表情に裏といった変化は見受けられない。
「御贔屓にありがとうございます」
ここまででおかしい事はない。ここであからさまに反応を示す方が不自然だ。
「でも何故またうちに?」
「そうそう、こんな時間に~」
「……お前は黙ってなさい」
――そう。本題はここから。隣で口を挟む少女の事も気になるが、予想通り食い付いてきた事に亜美は内心ほくそ笑む――が、ここで自分が顔に出てしまっては意味がない。
あくまで偶然――自然な流れで。
いきなり本来の目的を切り出す等、もっての他。
これは只の会合ではない。裏を探り引き出す為の、心理の駆け引きなのだから。
「ええ取材の一環として、色々と探していたんです。そこで此所が目に止まって――」
「そうだったんですか――」
亜美は訳を語る。その自然な流れには、彼でなくとも納得せざるを得ない。
「立地的にも良いですし、雰囲気も清涼感溢れてますね」
「そんな大したものではありませんが、ありがとうございます」
雰囲気は穏やかながらも、それはまるで探り合い。
他愛のない会話が続く。少女は暇なのか興味無いのか、既に黒猫とじゃれあっている。
「――先生の人柄は凄く良いですね。これなら人気もあるのでは?」
「そんな事は無いですよ~」
「そんな御謙遜を。宜しければ――」
ここからが本題。亜美は意を決して切り出す。
「先生の所を取材させて貰っても宜しいですか?」
先ずは彼の身辺を少しづつ知っていく必要がある。
彼はどう出るだろうか。これは断っても何もおかしい事はない。
知りたいのは寧ろ表情の変化――
「構いませんよ。大した事は出来ないと思いますが……」
だが彼はあっさりと承諾。
「えっ?」
これは意外だった。余りの淡々とした承諾振りに、逆に亜美の方が気圧されそうになる。
それは気恥ずかしそうにしている彼に、期待してたような裏が全く感じられなかった事。
やはり勘違いだったのだろうか。人は誰しも後ろめたい事が有れば、平静を装っても必ず何処かに挙動が変化として現れる。
だが彼には一切の変化を汲み取れなかった。
演じているのだろうか。だとしたら大した役者振り――それとも、実は本当に只の勘違いだった事に。
「どうかしましたか?」
「いえいえ、ありがとうございます」
――危ない所だった。顔に出したら怪しまれる。
一先ず此処は彼の御厚意を汲もうと、亜美は笑顔で返していた。
これで堂々と身辺調査が出来る事となり、調べていく内に――話していく内に何か分かるかもしれない。
自分の勘が正しいのか。仮に違ったとしても、彼には何か秘密がある。
それは葵と同様、狂座への道標――
「では今日は遅いので、また明日改めて伺わせて頂きますね」
「ええ、お待ちしてます」
焦る必要は無い。ゆっくりでいい。
「は~い終わったね。じゃあバイバ~イ」
話が纏まった事に気付いた少女が、待ってましたかのように二人の間へ割り込んで来た。
「遅くまでご免なさいね」
嫌味を感じさせず、可愛らしく手を振る少女へ、亜美も手を振って応えていた。
「済みません、この子はせっかちで……」
「だってお腹空いたんだよ~」
少女のあからさまさに、彼も気恥ずかしそうにしている。
そのやり取りは、亜美にとって凄く微笑ましく見えたものだ。
「いえ~、可愛いお子さんですね」
それは本音だった。若い父と娘――少し羨ましいものを感じていた。
「いやいや! この子は親戚の子なんです。私はまだ26ですよ? こんな大きい子が居たらたまりませんっ――」
彼がこれまでで一番の、驚愕とも取れる声を上げた。
「あぁ済みません! 私てっきり……」
言われてみれば確かにそうだ。彼に子が居てもおかしくはないが、この少女が娘というには少し無理がある。
それでも亜美が二人を親子関係だと思ってしまったのは、何処か二人の間に共通する面影を感じたからかもしれない。
それにしても不思議な二人だった。その関係は肉親以上に深い絆があるように思えたものだ。
「――ではまた改めて。えっと……」
帰る間際、亜美は重要な事に気付き、言葉を濁らせた。
「宜しければお名前を教えて頂けると……」
まだ彼等の名前も知らなかったのだ。まさか『先生』でこれからも通す訳にもいくまい。
「これは気付かなくて済みません。院長の如月幸人と申します」
彼もうっかり忘れていたのだろう。思い出したかのように、名刺を亜美へと手渡した。
「幸人先生ですね」
流石にいきなり『幸人さん』呼ぶ訳にもいくまい。好都合な事に名刺には、彼の携帯番号まで記してあった。当然といえば当然だが、また大きな収穫を一つ手に入れた事になる。
「ボクは悠莉だよ~。この子はジュウベエだからね~」
「……ンニャア」
少女も意気揚々と自己紹介を始める。御丁寧な事に、腕に抱いた黒猫の名前まで。
************
診療所を出た頃には、既に陽は落ちていた。透き通った夜空に星々が列なり煌めいている。
「ふぅ……」
亜美は溜め息と共に、もう一度診療所を振り返ってみた。
結局の所、帰り際に悠莉という少女に引き止められ、彼女たっての厚意――というより強制で、夕食まで御馳走になってしまった。
彼等の不可思議だがその暖かみに、危うく本来の目的を忘れそうになる。
あくまで彼等とコンタクトを取る事は、探りを入れるという事。それは即ち――疑惑の目。最初から疑って掛かっているという訳だ。
“狂座と何か繋がりがあるかもしれない”
だが彼等とは僅かの間だが、とてもそんな裏が在るとは思えなかったのも確か。
“じゃあ、あの時感じた悪寒を彼から感じたのは一体……?”
とても同一人物とは思えない。だが何処か引っ掛かる。
それは今考えても仕方無い事。これから彼等と接していく内に、追々分かっていく事だろう。
亜美は複雑な心境と共に、この場を後にする。
――此所の獣医である、温厚かつ眉目秀麗な如月幸人。そして彼の親族である悠莉という不思議な、とても幻想的な少女。
亜美は思った。“出来れば勘違いであって欲しい”――と。