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木々が鬱蒼と茂るその森は、世界から孤立しているように森閑だ。
あらゆる方角を見渡そうと、魔物の姿は見当たらない。茶色い樹木が競うように生え広がっており、その枝を緑色で着飾っている。
張り巡らされた結界が昆虫や小動物にだけ居住権を与えており、外敵は近寄ることさえ叶わない。
ここは迷いの森。荒野の一画に存在する、摩訶不思議な森林地帯だ。
イダンリネア王国からは遠く離れており、立ち寄る者は数少ない。ごくまれに傭兵が野営を目的として足を踏み入れるも、翌朝には有無を言わさず旅立つ羽目になる。
その理由こそが、迷いの森と呼ばれる由縁だ。
侵入した人間は、それが優れた身体能力を誇る傭兵や軍人であろうと、例外なく方向感覚を失い、気づけば森の外へ排出される。
奥地を目指し真っすぐ歩こうが、関係ない。
複数人で都度方角を確認しても、無駄な努力だ。
魔物だけでなく、人間もまた、この地では招かれざる客人でしかない。
そのはずだが、小柄なその少年だけは例外のようだ。灰色の短髪を揺らしながら、迷いのない足取りで真っすぐ進めている。
薄茶色の庶民着と黒い短パンがしっとりと濡れている理由は、朝からつい先ほどまで全速力で走り続けたからだ。
頭上を見上げると、緑色の枝葉から覗く空は青色のままだ。それでもわずかに暗く感じる理由は木々のせいだけではない。
(ふぅ、やっと到着。良い運動にはなってるけど、さすがに疲れちゃうな。移動だけでこうして丸一日潰れちゃうし……。遠いから仕方ないけど)
心の中で愚痴ってしまう。
朝一番で出発するも、到着は日暮れ間際。帰りも同じ目にあうのだから、この旅自体が重労働だ。
(そういえばあの日以来、ずっと出ずっぱりで会えてないけど、パオラは元気にやってるかな? この用事が片付いたら我が家で少し休もうかな? あ、でも、エルさんのお父さんを里に案内しないとか)
少年の名前はウイル・エヴィ。父、ハーロンの働きかけによって、貴族に返り咲いた異色の傭兵だ。
(エルさん達、大変そうだったな。あんな山の奥地で暮らすとなると、苦労も絶えないはず……。一刻も早く、王国に魔女が人間だって認めさせたいけど、決して楽な道じゃない。エルさんには大見得切っちゃったけど、僕なんかが光流武道会で優勝出来るんだろうか?)
その大会は二年に一度開催される、格式高い大会だ。主に軍人が腕を競い、己の実力を上の人間に披露するための場なのだが、傭兵も出場料を支払えば参加を許される。
光流武道会において、出場者の中から優勝者が出ることは絶対にありえない。
なぜなら、決勝の相手は四英雄が務めるため、そこまで勝ち上がった実力者であろうと完膚なきまでに負けてしまう。
四英雄はエリートとも言うべき血統と、壮絶な努力によって最強の戦闘力を誇る。
彼らは、生まれた時から超越者である可能性が高い。
血筋の成せる業なのか、血のにじむような努力の賜物か。それは誰にもわからないが、四英雄がイダンリネア王国における最終防衛ラインであることは間違いない。
ウイルはこれに挑む。もちろん、今日明日というわけではなく、準備が整い次第、つまりは勝ち筋が見えたタイミングで大会に申し込む。
それがいつになるのか? それが問題だ。
光流武道会で優勝すれば、王族と話す機会を与えられるばかりか、要望を伝えることも出来るだろう。
ウイルはこれに賭けている。
父は貴族という地位と財産に物を言わせ、不干渉法の一部改訂にこぎつけた。それはそれで偉業なのだが、今回ばかりは通用しない。
なぜなら、その願いがあまりに突拍子もないからだ。
(エルさん達は……、魔女は人間だ。絶対に魔物なんかじゃない。会って話せばすぐにわかるようなことなのに、なんで王国は僕達を騙す?)
魔女は魔物だ。
人間の姿を模倣した魔物だ。
イダンリネア王国における常識であり、親は子へそう語り継ぐ。
それどころか、王国法にしっかりと魔女は魔物だと記載してあり、それどころか接触すらも公に禁止している。
(確信犯だ。少なくとも王族はわかってて魔物扱いしてるんだ。でも、なぜ? 確かに悪い魔女もいるけれど、全員をひとまとめに敵視する必要なんかないはずなのに……。ハクアさんなんか友好的なんだし、味方に引き入れられれば、それこそ巨人族との戦争にだって……、あぁ、ハクアさんにその気がないか)
考え事をしつつも徐々に加速する。立ちはだかる木々を避けることも傭兵ならお手の物だ。
歩けば何十分とかかるだろうが、少年はあっという間にたどり着く。
森のその奥地。
そこには隠された集落がひっそりと存在しており、小屋のような家々はそのどれもが古めかしいものばかりだ。
短剣を携帯した傭兵の登場に何人かの子供や大人達が驚くも、見知った人物であると気づくや否や、平然と日常へ戻っていく。
この地には魔女以外にも普通の人間が住み着いている。むしろ彼女らの方が少数派だ。
なぜなら、魔女の魔眼は子供に遺伝しない。
魔女が赤ん坊を産んだとしても、その子の瞳には赤線の円が描かれておらず、そういった経緯からも魔女は人間だと推察可能だ。
迷いの森に作られた魔女の隠れ里は、王国から逃げ延びた人々のための村でしかない。
村長でもあるハクアがイダンリネア王国と敵対していないということも背景にあるのだが、ここの雰囲気は非常に牧歌的だ。
気づけば空は夕焼け色に染まっており、集落も赤く染まる。
そんな中を迷惑にならない程度の速さで駆け、最奥の大きな家に到着すれば、この旅も一先ず終了だ。
眼前の古めかしい玄関をノックする。こもった声が耳に届くと同時に扉を開けて入室すると、少年は本物の赤色と対面する。
「何か用?」
紅の髪。それは驚くほど長く、太ももどころか膝にさえ届きそうだ。
その女性は白衣のような上着をだぼっと羽織っており、自身が魔女であると主張するように魔眼で客人を睨む。
中肉中背で、見た目だけなら三十歳前後の大人だ。
声のトーンが低い理由も、冷たい視線を向ける理由も、単純にこの子供を見下しているためだ。
それでも、ウイルは怯まない。彼女の態度にはすっかり慣れており、それどころか手玉に取ることさえ可能だ。
「お久しぶりです。報告したいことや相談に乗ってもらいたいことが山ほどあるのですが、忙しそうなので帰ります。白紙大典もしまっちゃいますね」
ウイルの左手には、純白の古書が既に握られている。
「マリアーヌ様お会いしたかったですぅ!」
「うわっ、一瞬でもぎ取られた……。幸せそうなところ申し訳ないのですが、喉乾いたので何か下さい」
「あ、あんたも随分図々しくなったわね。そういうところ、エルとそっくりよ……。勝手に漁りなさい」
許可が下りたことから、客人は単身で台所へ向かう。
一方、魔女の冷え切った表情はあっさり溶かされた。満面の笑みで白紙大典に頬ずりしており、その言動は別人のようだ。むしろ気持ち悪い部類でさえある。
「ハクアは相変わらずだねー」
その声の持ち主は二人とは別人だ。鈴のように澄んでおり、表紙を頬で擦られようと、ついには唇を押し当てられ吸いつかようとも、動じる素振りは見せない。
魔女の名前は、ハクア。この家の主であり、白紙大典とは古い戦友だ。部下という表現の方が正しいのかもしれない。
その後、ウイルは水入りコップを持参して彼女の元へ戻るも、憐れむようにつぶやいてしまう。
「びゃ、白紙大典がビショビショに……。毎度のことながら、同情の念を禁じ得ない。愛のカタチは人それぞれだから、とやかく言うつもりはないけども……」
何はともあれ休憩だ。ここはハクアの自宅ながら、訪れた際は我が家のようにくつろげる。もてなしは一切ないが、それゆえにウイルとしても自由に振る舞ってしまえば良い。
貴族の家と比べてば随分とこじんまりとしているが、女性一人が生きていくには十分だ。
じゃれつく彼女らを眺めながら、居間とも言うべきこの空間で少年は腰を落ち着かせる。
長テーブルにコップを置き、備え付けの椅子に腰かけるも、ここを訪れた理由はハクアに白紙大典を届けるためではないのだから、幸せな時間を邪魔するように話しかけなければならない。
「お楽しみのところ申し訳ないのですが……」
「なら黙ってて。ペロペロペロペロペロ。あぁ、マリアーヌ様、ペロペロペロ」」
「くすぐったいって~。ハクアは本当に甘えん坊なんだから~」
取り付く島もない。ウイルは彼女が満足するのを待つしかなく、もっともあしらわれることは想定していたため、コップを手に取り、そっと水を口に流し込む。
(こんなんでも、オーディエンと渡り合えるらしいから、人間ってわからないもんだ。というか、ハクアさんが戦ってるところって見たことないな……)
純白の本をなめまわす魔女は、努力の末に超越者に至った存在だ。その実力は計り知れず、それは白紙大典も認めている。
ゆえに、思いつきながらも頼まずにはいられなかった。
「ハクアさん、明日、よかったら少し手合わせしてくれませんか?」
「ペロペロペロペロペロ」
(無視された……。夕食までふて寝しよっかな)
交渉は当然のように不成立だ。こうなってしまっては手詰まりゆえ、ウイルは時間を潰すために昼寝を選ぶも、涎まみれの本が手を差し伸べる。
「ほらほら~。ウイルが話あるって。ちゃんと相手してあげないとダメでしょ~」
「は、はい。申し訳ありません……」
鶴の一声で魔女の発作が収まる。
二人の主従関係は絶対であり、彼女らの立ち位置は何年経とう決して揺るがない。
叱られた子供のように委縮するハクアだが、ウイルに視線を向ける時だけは威圧的だ。
「あんた如きが私と戦いたいって? なんで?」
「実は……、あ~、その、今回訪問した理由とも絡む話なので、どう説明したものか……」
ウイルとしても言い淀んでしまう。伝えなければならない事柄が多いため、どれから話すべきか、判断がつかない。
「時系列順で良いんじゃな~い? ハクア、驚かないでね。あの女を殺せそうな超越者、見つかったよ」
その瞬間、室内から音がいなくなる。
ここの家具はそのどれもが年代物だ。部屋の奥側は家主の研究スペースと化しており、壁際の棚には化石のような本がぎゅうぎゅうに収まっている。机にも読みかけの古本がいくつも放置されており、三人が黙れば静寂は必然だ。
「ほ、本当……ですか?」
「ほんとほんと~。私もビックリ!」
「はい。まだ九歳の女の子なんですが、その子の生命力は常識を遥かに超えています。パン一個で一、二か月を生き続ける、そんな生活を何年も強いられた結果、スケルトンみたいにガリガリでしたけど」
さすがのハクアも、白紙大典の言葉に耳を疑ってしまう。絶対の信頼を寄せてもなお、その事実は鵜呑みに出来ない。
なぜなら、彼女は何百年という年月をかけ、自身を超えるであろう実力者を探し求めていた。ウイルに手伝うよう要請したのは、ほんの四年前のことゆえ、こうもあっさりと見つけられてしまうと開いた口が塞がらない。
「マリアーヌ様がおっしゃるのなら、本当なんだと……思います。だけど、やっぱりにわかには……」
信じ難い。この事実はそれほどに重要であり、慎重にならなければならない。
「僕も最初はそんな感じだったんですけど、白紙大典のお墨付きがもらえたし、事実パオラはあんな状態から一命を取り留めたので、後は本人次第なのかなぁとは思ってます。ただ、そこが最も大事なとこでして……」
「どういうこと?」
「パオラ、あぁ、その子の名前です。実はまだ何も話してないんです。今は僕の家で療養中で、先ずは真っ当な健康状態まで回復してもらおうと思って……」
彼女の進路は彼女自身に決めさせたい。ウイルはそう考えるも、赤髪の魔女は表情を変えずに言い切ってみせる。
「選択肢なんてないの。そんなこともわからないの? なんとしてでも説得なさい。それが出来ないなら、私の部下に拉致させるまでだわ」
(わーお、わかってはいたけどスパルタ過ぎ……。それとも僕が平和ボケしてるだけ? 白紙大典も反論しないし、この場合、おかしいのは僕ってことなのか)
高圧的に説き伏せられ、少年は口を尖らせる。誰が間違っているのかもわからない中、気合を入れて声を絞り出すことから始める。
「戻ったら、とりあえず話をしてみます。うまくいったら、ハクアさんに預けて鍛えてもらうってことで良いですか?」
「ええ。マリアーヌ様が見つけてくださった本物なら、あんた如き、半年そこらで抜き去ってあげる」
「うわ、白紙マリアーヌ大典さんと同じこと言ってる。この人達、ほんとにこわい……」
「なんか変な仇名つけられた~」
ハクアはその本をマリアーヌと呼び、ウイルは白紙大典と言う。
どちらも間違っていないのだが、本名という意味ではマリアーヌが正しい。そうであろうと今更名前に意味などなく、彼女はどちらであろうと許容している。
「実は報告したいことがもう一つあって、一週間前、旅の最中に、オーディエンと出会いました」
ウイルにとってはこちらも重要な議題だ。
この魔物は母親を殺そうとした宿敵であり、その存在を決して許容出来ない。
「へ~、珍しいこともあるのね。で?」
対して、魔女はつまらなそうにテンションを下げてしまう。彼女としてもその魔物とは因縁があるのだが、パオラの発見と比べれば些末な話題だ。
ウイルはジレット大森林のあらましを話すも、魔女は驚かない。それどころか、その手は白紙大典の白い表紙を撫でることに夢中だ。
「デーモンだったかしら? この時代にも出現したのね。だけど、あんたでも倒せる程度の雑魚なら、残りの三体も有象無象よ。そんなのに手を焼くようなら、ここに連れて来なさい。私が一瞬で細切れにしてあげるから」
「た、頼もしい……けど、それはさすがに無茶ぶりでは……。ハクアさんの方から助けに来てくださいよ」
ウイルの言い分こそ正論だが、ハクアにはハクアの事情があり、この森から動くつもりはない。
「なんであんたのためにそこまでしないといけないのよ」
「白紙マリアーヌ大典さんがオーディエンに奪われちゃいますよ?」
「いや~ん、ハクア助けて~」
「仰せのままに! ペロペロペロペロ」
鼻血を流しながら本を舐めまわす姿はどこまでも不気味だが、見慣れた光景ゆえ、少年は怯むことなく話を続ける。
「今回、オーディエンと戦ってみて痛感しました。確かにあいつはとんでもなく強いです。今のままじゃ、どれだけ頑張っても絶対に追いつけない。ハクアさんって、あんな化け物と本当にやりあえるんですか?」
失礼な問いかけだが、今回ばかりは言葉を選ばない。
炎の体を持った魔物、オーディエン。その強さは現時点で未知数ながら、それでもその片鱗は肌で感じることが出来た。
傭兵としてこの四年間、エルディアと共に様々な魔物と戦ってきたが、オーディエンは明らかに別格だった。比較すら困難なほどの化け物ゆえ、眼前の魔女に問いかけてしまう。
「この時代であれと渡り合えるのは私だけでしょうね。それだって、無傷とはいかない。ううん、もしかしたら刺し違えるはめになるかも。まぁ、負けるつもりはないわ。私達の真の敵は、そいつの後ろにいるんだもの」
頼もしい返事だが、少年の不安は解消されない。
オーディエンは前座でしかないと改めて突きつけられてしまったのだから、追加の質問は必然だ。
「セステニアって、そんなに強いんですか?」
「悔しいけど、そうね。逃げに徹したとしても、もって五分そこらと言ったところかしら? あんたじゃ、デコピンで粉みじんよ」
「それ、前にも聞きましたから……。白紙大典はどう思う? 僕だって少しは強くなれたと思うんだけど……」
「デコピンうんぬんはわからんちんだけど、一方的だろうね~。でもまぁ、オーディエンを二回も傷つけられたんだし、センスはある方だと思うよ。そだな~……、例えるなら、才能の王、努力のハクア、奇襲のウイル、って感じ~?」
「それ、褒めてないって……」
ウイルが肩を落とす中、ハクアは魔眼をパチパチとさせずにはいられなかった。
「あんた、あいつに攻撃が届いたの?」
「え? い、一応。二度は通用しない奇策でしたから、次はありませんけど……」
「それでも、えらいえらい。生首がほとんど真っ二つ! いや~、えぐい光景だったね~。でもまぁ、千年前の戦争を生き抜いたみんなと比べたら、まだまだヒヨッコですな~。あ、ウイルもハクアに鍛えてもらったら? そうしないと次は誰も守れないと思うよ?」
「う、やっぱりそうですよね……」
ウイルはハクアに視線を向けるも、彼女の反応は鈍い。
「あ、えっと、もうすぐ夕食の準備もあるし、明日、あんたの実力を計ってあげる」
「はい、お願いします。そうだ、もう一つ報告したいことがあって、偶然にもエルさんと会えました。なんと驚き、魔女になってました」
少年は嬉々として話すも、ハクアは再度面食らう。その内容があまりに非現実的だからだ。
「魔女って、どういう……」
聡明な彼女でさえ、言葉を繰り返すことしか出来ない。千年を生きてきたが、聞いたことのない事象ゆえ、自身の耳を疑うほどだ。
ウイルと白紙大典がこの件についても、わかっている範疇で説明すると、ハクアはよろめきながら歩き出し、部屋の隅の椅子に力なく座り込む。背もたれに体を預け、呆けてしまうほどには二人の証言に驚かされた。
「エルとその母親が、あめのおきてに至るなんて……」
その単語はウイルも白紙大典も初耳だ。それゆえに問いかけずにはいられない。
「あめの、おきて? それって何ですか?」
「魔女の魔眼、その第二形態をそう呼称するの。誰が名付けたのかは、私も知らないけど……。なんせ、私ですらその力は引き出せないし、この里でそこまで至れた人間は千年の間でたったの二人だけ。そういう確率だし、本当に前代未聞」
つまりは天技以上に希少だ。
効果は自身の身体能力を高めるだけとは言え、その効果はシンプルゆえに裏切らない。ほんの一部しか扱えないエルディアでさえ、ウイルと肩を並べてしまえたのだから、自身を鍛えつつも第二形態をより一層コントロール出来るようになれば、実力は掛け算のように飛躍する。
「親子でなってましたし、遺伝するもんなんですかね~。どちらにせよ、なかなか手ごわかったです。まぁ、僕の勝ちでしたけど!」
「久しぶりの再会なのに、あんなボコボコにしちゃって~。お姉さんもビックリしたわ。まぁ、君達って昔から手加減しないし、傭兵の流儀なのかな~って黙ってたけども」
普段は仲良しコンビでありながら、手心を加えず殴り合ったのだから、白紙大典も驚きを隠せない。
「別にそういうわけじゃ……。それくらいじゃ壊れないって知ってるので、そうしたまでです。僕もエルさんも負けず嫌いですしね。まぁ、僕の圧勝でしたけど!」
「大げさに言っちゃって~」
二人は思い出話で盛り上がる。
一方、赤い髪の先端が床に届いてもなお、気にする素振りすら見せずに魔女は天井を仰ぎ見る。
(第二形態、あめのおきて……。まだ変色作用が現れていないようだし、全開にはほど遠いはず……。それでも、すごい。そして、そんなエルに打ち勝てたウイルも成長著しい。明日、その可能性を見極めてあげる)
ハクアが力なく視線を向けると、宙に浮く古書がハエのように動いており、少年がそれを叩き落とそうと遊んでいる。
(まだ少し早いけど、夕食の準備に取り掛かるか。こいつがいるし)
立ち上がり、台所へ向かって歩き出す。
そのついでに殴られたウイルだが、たった一発でノックアウトだ。泡を吹いてピクリとも動かない。
その後、叩き起こされ夕食をご馳走になるも、愚痴らずにはいられなかった。
「暴力反対」
「明日はこんなもんじゃ済まないわよ」
殺されるかもしれない。そんなことを考えながら、少年は魔物の肉を噛み千切る。
翌朝、ウイルがまたも蹴り起こされた理由は、寝坊したからではない。
「さっさと食べなさい。腕試し、するんでしょう?」
「うぅ、おはようございます……。こんな起こされ方、生まれて初めてです。なんで僕にはそこまで辛辣なんですか?」
「生意気だから」
つまりは気にくわない。ただただシンプルだった。
素朴な朝食を手早く済ませ、二人は村の中心を目指す。周囲に何もないその場所は、広間と言っても差し支えない。
早朝とは言え、この地の人々は活動を開始している。自給自足を強いられているため、朝であろうと決して暇ではない。
水色の空には塊のような雲がいくつも浮かんでいる。大小様々なそれらは雨雲ではないらしく、この森に雨粒を降らす様子はない。
赤色の長髪を躍らせながら、ハクアがゆっくりと振り返る。白衣のようなローブも同時に揺らぐも、その下には薄茶色の簡素な衣服を着ており、普段通りの出で立ちだ。
「ここでいいでしょう。打ち込んできなさい」
「わかりました」
グレーの短髪が朝陽を浴びて銀色に輝く中、ウイルは小さく頷く。念のため、革鎧だけでなく左腰にはスチールダガーを携帯しており、準備は万端と言えよう。
ピリッと空気が緊張し始めたタイミングで、真っ白な本が横やりのようなことを言い始めてしまう。
「ただやるだけじゃつまんないし、何かないかな~? あ、ウイルの攻撃が当たったら、ハクアのおっぱい揉んでも良いとか、どう?」
「えぇ⁉」
珍妙な提案が、彼女を心底驚かせる。
だが、白紙大典は止まらない。
「パンチキックとかじゃなくて、ちょっとでも触れたら、でいいか~」
「マ、マリアーヌ様⁉」
本人の承諾も無しに話を進める理由は、それほどの実力が両者には存在していると理解しているためだ。
そうであろうと、ハクアは悲鳴のような声をあげてしまう。どちらかと言えば嫌いな子供に、胸を触られたくないのだから当然な反応だ。
そんな中、ウイルは冷めた目で対戦相手の姿をなめまわす。
「ハクアさんのって、エルさんと比べたら小さいからな~」
「まぁ、確かにね~。でも、小ぶりなりにも形は綺麗だよ~?」
「へ、平均くらいはあります!」
魔女が顔を赤らめながら反論したその瞬間だった。傭兵はそこからいなくなり、相手との距離を一瞬で詰めるばかりか、右腕を伸ばし、彼女の胸を揉みしだく。隙を見逃さない怒涛の先制攻撃ゆえ、当たらないはずがない。
そのはずだが、ウイルは青ざめてしまう。
右手は確かに柔らかな脂肪に触れたはずだ。手のひらと脳がそう認識したのだから、そうであるに決まっている。
しかし、ハクアは既にそこにはおらず、触れたはずのそれは残像なのだと、この瞬間に気づかされる。
(い、いない……? じゃあ、いったいどこに?)
その疑問は背後からの呼びかけによって霧散する。
「油断も隙もあったものじゃない……。マリアーヌ様、変なこと言わないでください」
「めんごめんご~。でも、ウイルのやる気も上がって良かったじゃん」
振り向くとそこでは、白紙大典相手にハクアが頬を膨らませており、奇襲自体には動揺すらしてない。
「というか、胸なんてエルの触らしてもらってるんじゃないの?」
魔女の発言がウイルをよろめかせる。そればかりか立っていることすら出来なくなり、うなだれるようにその場へうずくまる。
「そ、そんなはずないでしょう……。そもそも僕とエルさんはそういう間柄じゃないですし。おさわりはおろか、見せてもらったことすらないですよ。頼んだこともないですけど……」
「へ~。ドライな関係なのね。それともシャイなだけかしら? まぁ、どちらだろうと興味ないわ。ほら、やさぐれてないで、かかって来なさい。今のだって本気じゃないんでしょう?」
立ち直れてはいないのだが、傭兵はむくりと立ち上がる。
ハクアの実力を知るためにも。
並程度はあるらしい胸部に触れるためにも。
この機会を無駄にするわけにはいかない。
なんとかやる気を絞り出し、余裕しゃくしゃくな魔女に襲い掛かるも、心意気だけで埋まるほど、両者の実力は近くなかった。
先ほど同様に突進するも、指先すら届かない。
当初の予定通り、打撃や蹴りを繰り出すも、それらは素振りのように空を切るばかりだ。
ハクアは必要以上に距離を取ろうとはせず、ウイルが繰り出した攻撃にのみ反応し、その全てを悠然と回避し続ける。
見世物紛いな攻防が野次馬を集めてしまうも、二人は気にも留めずに鬼ごっこを継続する。
(くぅ、さすが、ハクアさん! こっちは全力出してるのに、触ることも出来ないなんて! フェイントも、緩急も! 何もかもが通用しない!)
子供と大人、もしくはそれ以上の力量差だ。
近寄るだけなら問題ない。ハクアがそれを許してくれるからだ。
しかし、その先が成立しない。
最短距離で殴ろうと、拳が届く瞬間に彼女がそこからいなくなる。
蹴りも同様だ。鋭い一閃ゆえに髪や衣服をかすめてもおかしくはないのだが、砂ぼこりを巻き上げるだけで靴の先端すら届かない。
ウイルはこの感覚を経験している。
オーディエン。いつの日か倒さなければならない魔物であり、この瞬間に感じている絶望感はまさしくこれとの戦闘で得られた手応えそのものだ。
「ぐふ、ハァ! ハァハァ……」
ウイルの体力がついに底を尽く。滴る汗で地面を濡らしながら、一歩も動けないと主張するように大口を開きながら酸素を肺に送り続ける。
一方、勝者は余裕しゃくしゃくだ。里の長らしく毅然とした態度でふんぞり返ると、周りの老若男女からは大きな拍手が沸き上がる。
「この程度じゃ、オーディエンの討伐なんて夢のまた夢ね」
ハクアの率直な感想だ。ウイルに対する個人的な感情を抜きにしても、そう断言せざるを得ない。
「まぁまぁ。ウイルのがんばりもくみ取ってあげたら~? ちょっと前まではただの子供だったんだし。しかも、けっこう太っててどんくさかったんだから。その頃と比べれば、雲泥の差なんじゃない? ハクアは知らないと思うけど」
「マリアーヌ様のおっしゃる通りだとは思います。これくらいの実力があれば、今の時代、傭兵として食いっぱぐれることもないのでしょう。だけど、それでもあまりに弱いです」
「そだね~。その点は否定出来ないな~」
ハクアだけではない。四年間を共に過ごし、ウイルのスタート地点から同行している白紙大典ですら、評価は辛口だ。
その理由は少年の定めた目標に起因している。
つまりはゴールが遠いのだから、彼女らが厳しい言葉を投げかけてしまうのも仕方がない。
「この子が傭兵として生きていきたいだけなら、今のままでも問題ないはずです。むしろ、オーディエンのことは忘れて生きていく方が幸せなのでは? あぁ、あいつの方がこの子を選んだのか……。難儀な運命ね」
勝者は興味なさげに敗者を見つめるも、心の中では違和感を分析し始める。
(超越者にはほど遠い……。だけど、体幹が優れているのか、足腰を鍛えているのか、動きそのものはあくびが出そうなほどに遅いけど、それでも俊敏だった。いっきにトップスピードを出せるほどの加速性能とでも言えばいいのかしら。まぁ、そのスピードが遅すぎるのだけど……)
褒めるところは、ある。
それでも、合格には至らない。
魔女は自然とため息をもらしてしまうも、隣の本がふわふわ浮きながらフォローを入れる。
「ウイルもまだまだ伸びるんじゃないかな~?」
「だとしても、いつの日か壁にぶつかってしまいます」
「そだね~。だけど、そこまで行ければ戦力にはなるんじゃない? 本命はパオラちゃんなんだし~」
悪気はないのだが、二人のやり取りは当人にとっては慰めにすらなっていない。切り捨てられてはいないのだが、生まれ持った才能の有無が待遇を大きく変えてしまったことは事実だ。
ウイルは地面に膝をつくと、涙を浮かべながら悔しそうに地面を叩く。
「お、おっぱい……」
「キモ……。あんたなんかに触らせるはずないでしょう。エルに頼みなさい」
ウイル・エヴィ、十六歳。不意の事故でエルディアの胸が当たったことはあれど、揉みしだいた経験は一度もない。
チャンスをものに出来なかったのだから、この反応は至極当然だった。
「小さくても我慢するのに……」
「おい、小さくないって言ってるでしょう。私の方こそ傷つくから、それ止めなさい」
少年の失言が大人を苛立たせるも、白紙大典だけは冷静だ。周囲のギャラリーが満足気に去って行く中、話を本筋に戻す。
「セステニアを倒すためには、先ずはオーディエンをやらないといけないのかな? そうなると、やっぱりハクアが頑張るしかないんじゃない? パオラちゃん次第なところはあるけど~」
「封印については完全にバレていますし、あいつがいつまで待ってくれるか……。それ次第でしょうか? マリアーヌ様、そのパオラと言う少女はいつ頃連れて来れそうですか?」
「今はまだわかんないな~。だけど、そんなにはかからないと思うよ~。ウイルのおうちでお腹一杯食べながら、教養を身に着けてる最中だろうし。戦ってくれるかどうか、それ次第なんだけど、そこはウイルの説得に期待かな~? まぁ、うまいことやるでしょ~」
「そうだと、良いのですが……」
生まれつきの超越者、パオラ・エヴィ。九歳の女の子でありながら、内に宿る可能性は無限大だ。
父親から長きにわたって迫害を受けた結果、体は衰弱しきってしまい、知識についても文字の読み書きはおろか数字すらも理解出来ていない。
ウイルがその命を救ったが、戦いに巻き込むのもまた、この少年だ。
ウルフィエナ。神々が作り出した、在りし日の理想郷。
その地に生み出された人間は、生き抜くためにも戦わなければならない。
勝つか、負けるか。
殺すか、殺されるか。
一時的に逃げることは出来ても、いつの日か追い込まれ、やがては淘汰されてしまう。
千年前の巨人戦争では勝利を掴んだ人間達だが、これから始まる争いは一筋縄ではいかない。
それをわかっているからこそ、赤髪の魔女は焦っている。
(ウイルじゃ、全然足りない。そんなことはわかっていたけれど……。パオラって子に期待するしかないか)
そう結論付けるも、いつの日か知ることになる。
オーディエンの方が正しかったことを。
舞台の上で主役を演じる人物が、誰なのかということを。
「私のおっぱい触ってもいいから、そろそろ立ち直ったら~?」
「白紙大典の胸ってどこにあるんですか? 背表紙ですか? 一ページ目ですか?」
「知らん。と言うか、ウイルっておっぱいより太もも派でしょ~?」
「ギクッ、なぜそのことを……」
盛り上がる二人だが、ハクアだけは静かに空を見上げる。
(オーディエン、待ってなさい。あの女はいつの日か必ず……、殺しきる。引導を渡すのは私じゃないけど、そのための手駒ももしかしたら……)
見つかったかもしれない。
ならば、退屈な足踏みはそろそろ終了だ。
この魔女は淡々と生き延びてきたわけではなく、彼女の人生は準備そのものと言っても過言ではない。
滅ぼすためのシミュレーションも済んでおり、後は実際に戦うための人材さえ見つかれば取り掛かれる。
「オーディエンを倒すためには、ハクアさんの胸を触れるかどうかが目安ってことか……。あ、なんだかやる気がみなぎってきた」
一人納得するウイルだが、世の中はそこまで甘くはない。
「変な道筋を勝手に決めるな」
「ぐわぁー!」
真っ赤な髪が揺れるよりも早く、ハクアがその少年を蹴り飛ばす。
その結果、ウイルは建物を避けるように吹き飛び、そのまま森の奥底へ消えてしまうも、同情する者はここにはいない。
「さーて、マリアーヌ様、帰りましょう」
「あいよ~。良い運動にはなったんじゃない?」
「はい! あ、川で一緒に水浴びしませんか?」
「一瞬だけね~。一応本だから、あんまり濡れたくないんだよね~。もう既に、誰かさんの涎でベトベトなんだけど」
用事が済んだのだから、女性陣もその場を後にする。
こうして、迷いの森は本来の静けさを取り戻すも、その地の果てで少年はぼやかずにはいられなかった。
「これが、超越者。はは、すごいなぁ。僕もいつの日か……、ううん、憧れるのはもう止めたんだ、あの時に。だったら、諦めないで進むしかない。どこまでも、いつまでも……。ジョーカー・アンド・ウォーカー。僕の天技らしく……」
光流暦、千と十五年。
今はまだ、土にまみれた傭兵でしかない。
それでも、王国の民は知ることとなる。
その者の名を。
歴史を塗り替えた者の名を。
ウイル・エヴィ。今はまだ、十六歳の若き傭兵だ。