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#契約結婚
草原草原

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草原草原

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コメント
1件
ああもう、この回……すごかったです……🖤 社長が熱出して、灯が看病する流れ、最初は普通のオフィスラブかと思ったんですけど。違いましたね。「顔が読めない」って灯の能力が、社長にだけ効かない——その設定、ぞわっとしました。砂嵐みたいに輪郭が崩れる描写、めっちゃ映像的で怖かったし、でも切なかった。 卵焼きのシーン、じわっと来ました。甘い味と、読めない顔。それがむしろ、心に残る。この人、本当に何を考えてるんだろうって、灯と一緒に悩みたくなりました。 次の話、気になって仕方ないです……!
ハンカチ。
その一語が、耳の奥で鳴り続けていた。
答えられなかった。
口を開けば、何かを言ってしまいそうだった。持っています、と。父の葬儀の日から、ずっと、と。
社長の唇は、それきり動かなかった。眉の間の皺だけが、浅くなったり深くなったりしている。
手首は、握られたままだった。
「……社長。立てますか。ここじゃ、だめです」
肩の下に腕を差し込むと、社長は、半分だけ目を開けた。焦点が合っていない。
二人でよろけながら、廊下の奥の、社長の部屋まで歩いた。書斎の、一つ手前の扉。
ベッドに横たえて、ネクタイをほどき、上着を脱がせる。その間も、片方の手は私の手首から離れなかった。
体温計は、三十九度四分を指した。
片手で、どうにか氷枕を作った。冷蔵庫に、スポーツドリンクは一本もなかった。卵だけが、十個きちんと並んでいた。
*
夜中の二時。
ベッドの脇の床に座って、私は、社長の寝息を数えていた。
握られていた手首は、いつのまにか、手のひらに変わっていた。熱い指が、私の指の間に入り込んでいる。
あのときの、ハンカチ。
あのとき、とは、いつだろう。
最初に思い浮かんだのは、秘書になって二日目の夜だった。
サンドイッチの湯気で曇った眼鏡を、古いハンカチで拭いた。扉のガラスの向こうに、この人が立っていた。目が、私の手元で一瞬止まった気がした。
あのときの、なら、あれのことかもしれない。
でも。まだ持ってるか、と言った。
まだ、は、長い時間のあとにしか使わない言葉だ。
空いているほうの手で、床に置いたバッグを引き寄せた。ポーチの中から、白い木綿を取り出す。
常夜灯の、橙色の明かりにかざした。
隅の、R.T.という頭文字。小さな羽根の刺繍。
R。T。
暗がりの中で、ベッドの上の人の名前が、勝手に頭文字に並び変わった。
私は、ハンカチを膝の上に伏せた。
違う。
あの日、鷹宮の人たちは、父の葬儀に来て、立派な人だったと言って、顔をぶれさせた。父を泥棒と呼んだ会社の人たちだ。その会社の、跡取りの息子が、一人で泣きに来るはずがない。
それに、この人は、言った。瀬名灯には、会ったことがない、と。
一本の線だった。
けれど、それも。
昼間、給湯室で考えたことが、また喉元まで上がってきた。
朝になったら、聞こう。
私には、まだ目がある。この人の顔を正面から見て、三秒待てば、それでわかる。
ハンカチをポーチに戻して、私は、熱い手を握り返した。
*
カーテンの隙間から、朝の光が差していた。
床に座ったまま、ベッドの縁に頭を預けて眠っていたらしい。首が痛い。
指の間に、まだ、誰かの指があった。
顔を上げると、社長が目を開けていた。天井を見ている。
私が身じろぎすると、社長は、何もなかったように、手を離した。
指が、一本ずつ、抜けていった。
「……熱は」
「下がった」
社長は、体を起こした。声はまだかすれていたが、目の焦点は合っていた。
「迷惑をかけた。君は、もう寝ろ」
「社長」
私は、床に座ったまま、背筋を伸ばした。眼鏡を外して、膝の上に置いた。
「昨夜、ハンカチのことを、言っていました」
社長は、こちらを見た。
切れ長の目。左目の下の、小さな泣きぼくろ。熱の名残で、少しだけ赤い目元。
「熱のときのことは、何も覚えていない」
私は、彼の顔を見ていた。
三秒。四秒。五秒。
輪郭が、なかった。
ぶれているのではない。一本の線でもない。
顔の縁が、ざらざらと崩れていた。古いテレビの、電波の入らないチャンネルのように。砂嵐が、彼の顔の輪郭の上で、細かく、細かく揺れていた。
目も、口元も、ちゃんとそこにあるのに、何も届いてこない。
瞬きをした。
もう一度、見た。
砂嵐は、消えなかった。
「……灯?」
社長が、私の名前を呼んだ。その声の上にも、ざらざらとした何かがかぶさっている気がした。
「すみません。何でもありません」
私は、眼鏡をかけ直した。また外した。
何度見ても、同じだった。
こんなことは、一度もなかった。
十五年間、一度も。
「君のほうが、顔色が悪い」
社長は、ベッドから足を下ろした。
「少し寝ろ。柏木には、私から言っておく」
「社長こそ、寝ていてください」
言い返しながら、私は彼の顔から目を離せなかった。眉が動く。唇が動く。それなのに、輪郭の上の砂嵐だけが、ずっとざわついている。
客間に戻って、洗面所の鏡の前に立った。
映っていたのは、いつもどおりの、寝不足の眼鏡の女の顔だった。
*
玄関のチャイムが鳴ったのは、七時半だった。
ドアを開けると、帽子をかぶった宅配の青年が、小さな段ボールを抱えて立っていた。
「おはようございます。毎週のご注文の、卵です。いつもは置き配なんですけど、今日はいらっしゃってよかった」
私は、彼の顔を見ていた。三秒。
輪郭は、くっきりとした一本の線だった。
読める。
私の目は、壊れていない。
段ボールを受け取ると、ずしりと重かった。卵十個。
冷蔵庫の卵がいつも十個そろっていたのを、私は、柏木室長が何か手配しているのだと思っていた。
*
社長は、柏木室長に電話で説き伏せられて、その日は家で休むことになった。
私だけが、四十三階に上がった。
「社長のご容態は」
「熱は、下がりました。今日一日、休めば」
「社長は、就任以来、一日も休まれたことがございません」
室長は、手帳に何かを書きつけながら言った。
一本の線。
昼休みに、一階の受付に下りた。
「なに、灯。顔、真っ白だよ」
まどかが、カウンターの奥でいちごオレのストローを噛んでいた。
「まどか。何か、一つ嘘をついて」
「は? 何それ。……えーと。私、昨日は十時に寝ました」
口角が上がって、目尻は動かなかった。
ぶれた。
「……ありがとう」
「え、何、怖いんだけど。ほんとは二時まで動画見てた」
一本の線。
みんな、読める。
室長も、まどかも、宅配の青年も。エレベーターで乗り合わせた知らない社員も、給湯室で噂話をしている人たちも。
読めないのは、一人だけ。
*
夜、家に帰ると、キッチンに明かりがついていた。
社長が、白いシャツの袖をまくって、コンロの前に立っていた。
「起きていて、いいんですか」
「熱はない」
社長は、振り返らずに言った。
「粥は、どう作る」
「……お米から、ですか。ご飯から、ですか」
「ご飯からだ。冷凍のものを、柏木が届けさせた」
私は、鍋と水の量を教えた。社長は、黙ってうなずきながら聞いていた。
けれど、社長がコンロに置いたのは、鍋ではなく、四角い卵焼き器だった。
ボウルの中で、卵が三つ、溶いてある。
弱火。社長は、油をひいて、卵液を三回に分けて流し入れた。菜箸を持つ手つきは、ぎこちなかった。それでも、一度も焦がさずに、最後まで巻いた。
黒い皿の上に、黄色い卵焼きが載った。
端まで、きれいな黄色だった。
「粥は、自分の分だ」
社長は、皿を私の前に置いた。
「これは、君の分だ」
一切れ、口に入れた。
甘かった。母の作り方と、同じくらい。
「……どうして」
「練習した」
社長は、卵焼き器を流しに置いた。
「一人のときに」
私は、彼の顔を見た。
砂嵐だった。
本当なのか、嘘なのか。顔は、何も教えてくれなかった。
今朝届いた、十個の卵。毎週の、ご注文。そっちのほうが、よほど正直だった。
卵焼きを、もう一切れ食べた。
甘くて、少しだけ、喉の奥が痛かった。
この人の顔が、読めない。
それは、この人がいつ嘘をついても、私にはもう、わからないということだった。