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うわあ…まどかの「それ、恋だよ」のシーン、心臓がぎゅってなった。顔が読めないのが「見たくないから」っていう解釈、すごく染みる。灯ちゃんの目の仕組みをちゃんと理解してる親友がいるの、尊い。社長に言っちゃダメって止めるのも、給湯室の女王って名乗るのも好き。最後の御影さんの登場で続きが気になって仕方ない…宝物みたいな回でした🖤
三日間、私は本を読んだ。
大学のころから何度も読み返してきた、表情の研究の専門書。分厚い翻訳書。八重洲の大きな書店の、心理学の棚に並んでいる新しい本。昼休みと、帰りの電車と、客間のベッドの上で。
特定の一人の顔だけが、読めなくなる。
そんな話は、どの本にも書いていなかった。
そもそも、人の顔が二重にぶれて見えるなどという話自体、どこにも書いていないのだ。私の目のことを説明してくれる本は、最初から、この世に一冊もなかった。
その三日の間も、社長の顔は砂嵐のままだった。
おはよう。行ってくる。この書類を柏木に。昼は食べたか。
どんな短い言葉の上にも、ざらざらとしたものがかぶさっていた。
*
水曜の夜。有楽町の高架下の、焼き鳥の煙がこもる居酒屋。
まどかは、ハイボールのジョッキを半分空けてから、テーブルに肘をついた。
「で。灯から飲みに誘ってくるなんて、派遣会社の同期になって以来、初めてなんだけど。何があったの」
私は、激辛の手羽先を一本食べ終えるまで黙っていた。
それから、全部を話した。
熱の夜のこと。翌朝の、砂嵐。宅配の人も、室長も、まどかも読めるのに、社長だけが読めないこと。
話さなかったのは、一つだけ。ポーチの中の、古いハンカチのことだった。
それだけは、口に出したら、何かが本当になってしまう気がした。
まどかは、私が話し終えるまで、一度も口を挟まなかった。
ジョッキの水滴が、テーブルに小さな輪を作っていた。
「灯」
「うん」
「それ、恋だよ」
まどかは、焼き鳥の串で私を指した。
「完全に恋。顔が読めないのは、見たくないからじゃん」
「……違う」
「違わない」
「私の目は、そういうものじゃない。見たいとか、見たくないとか、関係なく見えるの。十五年間、ずっとそうだった」
「十五年間、好きな人がいなかったんでしょ」
まどかは、あっさりと言った。
「いた?」
答えられなかった。
手羽先の骨を、皿の端に置いた。
「……お母さんの嘘は、読めるの」
自分でも、どうしてそんなことを言い出したのかわからなかった。
「小さいころから。お母さんが、大丈夫よ、って言うたびに、顔がぶれた。全然大丈夫じゃないときほど、大きく」
「うん」
「家族なら、読めないはずでしょう。好きな人が読めないなら、お母さんだって」
「好きの種類が違うじゃん」
まどかは、ハイボールの残りを飲み干した。
「お母さんのことは、好きだけど、見たくないなんて思わないでしょ。嘘ついてても、ああまたかって、灯は全部見てきたんでしょ」
私は、黙っていた。
「でも、社長のは、見たくないんだよ。社長が自分に嘘ついてるところなんか、灯は、絶対に見たくないんだよ」
まどかは、空のジョッキをテーブルに置いた。
「だから、目のほうが、先に閉じちゃったんじゃないの」
テーブルの上の、水滴の輪を見ていた。
キスのとき、目を閉じていたこと。毛布をかけられたとき、目を閉じていたこと。
まどかには、まだ、どちらも言っていなかった。
「……まどかは、私が恋をしていると、思う?」
「思う」
まどかの顔は、くっきりとした一本の線だった。
「ていうか、灯。ほかにも何か隠してるでしょ」
まどかは、目を細めた。
「パーティのあと。社長と、何かあった?」
「……何も」
「あ、嘘だ」
まどかは、ジョッキの縁を指で弾いた。
「灯ってさ、嘘つくとき、眼鏡のつるを触るんだよ。知ってた? 私、灯の顔なんか読めないけど、そういうのはわかるの」
私は、耳の横に伸びていた指を、慌ててテーブルの下に戻した。
「三年も一緒にいれば、わかるって」
まどかは、それ以上は聞かなかった。ただ、にやにやしながら、私のお猪口に冷酒を注いだ。
*
二杯目のハイボールが来たころ、まどかが急に真顔になった。
「でもさ、灯。それ、絶対に社長に言っちゃだめだよ」
「……どうして」
「だって、考えてみなよ」
まどかは、声を落とした。焼き鳥の煙の向こうで、隣の席のサラリーマンたちが大声で笑っている。
「灯は、社長の嘘発見器でしょ。社長の隣にいられるのは、そのためでしょ。その嘘発見器が、社長本人の嘘だけ見抜けないなんて、バレたらどうなると思う」
私は、膝の上で指を組んだ。
社長の隣にいる理由。
懲戒委員会で拾われた日から、私の居場所は、この目一つだった。
「それに、灯が読めないってわかったら、社長、灯の前でだけは何でも言えちゃうじゃん。好きなことも、嫌なことも、嘘も、全部」
「……社長は、嘘が下手な人だよ」
「今までは、灯が見てたからでしょ」
まどかの言葉が、胸のどこかに、すとんと落ちた。
今までは、私が見ていたから。
これからは、誰も見ていない。
「言わない」
私は言った。
「社長には、言わない。……まどかも、言わないで」
「言うわけないじゃん。給湯室の女王を、なめないでくれる?」
まどかは笑って、私の皿に手羽先を一本、勝手に載せた。
「私が拡散するのはね、拡散していい噂だけなの」
*
店を出たのは、十時前だった。
有楽町の駅で、まどかと別れた。改札を抜けたところで、スマホが震えた。
画面に、社長の名前があった。
「……はい」
『どこにいる』
低い声。電話越しの声は、少しだけ遠い。
「有楽町です。今から、電車に」
『何時に帰る』
「十時半には、着くと思います」
少しの間があった。
『迎えに行く』
息が、止まった。
『中目黒の駅で待っていろ。改札を出たら、動くな』
「社長、まだ会社じゃ」
『すぐ出る』
電話は、それで切れた。
ホームで電車を待ちながら、私は、真っ暗になったスマホの画面を見ていた。
電話の声は、読めない。昔から、そうだった。画面も、写真も、電話も、私の目は通り抜けてしまう。
どうせ、読めない。
社長の顔は、もう、正面から見ても読めないのだから。電話でも、目の前でも、同じことだ。
それなのに。
迎えに行く、と言った声を、私は頭の中で、もう一度鳴らしていた。
嘘か本当かも、わからないのに。
嬉しい、と思ってしまった。
ホームに入ってきた電車の窓に、眼鏡の女の顔が映った。
口元が、緩んでいた。私は慌てて、マスクを持っていないことを後悔した。
*
中目黒の改札を出て、柱の陰に立った。
十時三十五分。社長からのメッセージが届いた。
『首都高が詰まっている。二十分遅れる。動くな』
私は、少し迷ってから返信した。
『先に歩いて帰ります。十二分なので』
既読の印がついて、返事は来なかった。たぶん、怒っている。
目黒川沿いの道は、夜の十時を過ぎると人通りが少ない。
川面に、街灯の光が細く揺れていた。六月の終わりの、湿った風。
家の建物が見えてきたところで、私は足を止めた。
エントランスの前の路肩に、車が一台、停まっていた。
社長の黒い車ではなかった。もっと低くて、もっと丸い形の、濃い緑の車。
運転席のドアが開いた。
降りてきたのは、白いシャツにネイビーのジャケットの男だった。ゆるくパーマのかかった、明るい髪。
街灯の下で、目尻に皺が寄った。
「こんばんは、灯ちゃん。待ってたよ」
御影さんは、両手をポケットに入れたまま、私のほうへ一歩近づいた。
「話がある。――鷹宮怜は、君に何か隠してるよ」
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