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ーーーーその頃
鍵が回る、開錠された玄関の扉が開いた。
「おおい、ただいま莉子いないのか?」
残業もなく普段より早く帰宅した直也は真っ暗なリビングに足を踏み入れた。そこに莉子の気配は無く夕飯の準備をした形跡もない。洗濯物が庭の物干し竿で風にはためいていた。
「出掛けたのか」
直也は洗濯物を取り込むとソファに置きタオルを畳み始めた。壁掛け時計の秒針は19:30、なにか食材を買い忘れて出掛けた風でもなく今朝「外出する」とも言ってはいなかった。
(ーーー変だな)
直也は携帯電話をマナーモードにしていた事を思い出しビジネスバックから取り出すと暗証番号を打ち込んだ。暗証番号は莉子の誕生日、0730、7月30日だ。LINE画面を開いてみたがメッセージは届いていなかった。
<ただいま帰ったよ>
スタンプとメッセージを送信したが既読にはならなかった。
(ーーーーー)
ふとなにかを思い付いた面持ちの直也は階段を上った。心臓の音が耳にうるさい。息を大きく吸って軽く吐くを繰り返した。祈るような思いだった。体調を崩した莉子がベッドで休んでいる事を願った。唾を飲み込んだ。ドアノブに手を掛けて扉を開けた。
「な、なんだこれ」
寝室のベッドの上には莉子の衣類が散乱していた。ハンガーに掛かったままの物、ボタンを外して着替えた物、直也は呆気に取られた。
(と、取り敢えず)
直也は莉子の脱ぎ散らかしたワンピースやシャツをハンガーポールに戻した。ふとそこでベッドの下に赤いなにかを見つけた。膝をついてしゃがみ込み腕を伸ばす。紙の様だった。
「これ、は」
直也はクローゼットを見上げた。ベッドの下に落ちていたのは赤い紙飛行機、破れないようにそれを開いてみると妻の名前が書かれていた。
莉子 受験がんばれ
直也はその場に立ち竦んだ。
寄せては返す波の音、鎮まった熱の余韻に浸りながら莉子と蔵之介は金沢港の灯りを見ていた。その静寂を破ったのは蔵之介だった。
「莉子の誕生日、30日だったよね」
「うん、あと3週間で36歳」
「僕、あの日ここで莉子に渡したい物があったんだ」
「渡したい物?」
蔵之介は財布を取り出すと中から指輪を取り出した。
「おもちゃだよ」
「え、嬉しい!」
「そんな高い物じゃないんだ」
その視線は莉子の左の薬指に注がれた。
「これは、これは違うから」
「ーーー」
「お小遣いで買ったの?」
「婆ちゃんに貰ったお年玉で買った」
「ありがとう」
蔵之介は莉子の右手の薬指に指輪を嵌めた。
「左の指じゃないのね」
「左の薬指は旦那さんの物だから」
「ーーーそうね」
「あっ!」
「どうしたの」
「莉子、もう時間じゃないの!?」
「嘘、本当だどうしよう」
「僕は良いから、早く帰りなよ」
「でも、こんな場所バス停なんてないよ」
「タクシーを呼ぶから」
然し乍ら莉子は薄っすらと感じていた。こんな平日の昼間に自由に出掛けられる身体の不自由な青年、何処かで働いているといった話題も無かった。身なりも粗末とまではゆかないが以前会った時と同じTシャツにジーンズを履いている。
(ーーー生活保護)
スミカグラス鞍月のレジスターでの決済はクレジットカードではなく銀行のデビットカード支払いだったのかもしれない。莉子は蔵之介にタクシーを呼ぶ贅沢などさせられないと思った。
そこで不意に携帯電話でLINEの通知音が鳴った。見るとそれは直也から届いたもので可愛らしい猫のスタンプに<ただいま帰ったよ>とメッセージが続いていた。莉子は慌てて返信した。
<お友だちと会ってたの、ごめん今から帰るね>
既読
送信した直後に既読になった。直也が莉子を気に掛けている証拠だった。帰りは急がなくて良いよ、カップラーメンを食べるからと返信があった。
(失敗した)
蔵之介との再会に浮かれ家事を疎かにしてしまった事を悔いた。
(ーーーそれだけじゃないわ)
莉子は恋情に身を任せ蔵之介と口付けた。しかもそれは直也とも交わした事の無い身体の芯から蕩とろける程の激しく情熱的な口付けだった。
「どうしたの、旦那さんから?」
「ーーーあ、うん」
「早く帰りなよ」
「蔵之介、送って行くから車に乗って」
「え、良いよ。旦那さん待っているんだよね?」
「カップラーメン食べるからゆっくりしておいでって」
「LINE、なんて返信したの」
莉子は言葉に詰まった。
「お友だちに会っているからって」
「友だち」
「うん」
気不味かった。2人は同じ高等学校を卒業したが友人では無い。
「送って行くから、何処に住んでいるの?」
「緑ヶ丘みどりがおか団地」
「えっ、近いね」
「莉子はどこに住んでいるの」
「寺町、なんだそんなに近い所に住んでいたんだ。ビックリだね」
「買い物は宅配だから、あまり出歩かないんだ」
「そうなんだ」
シートベルトを絞めると現実に戻った様な気がした。アクセルを踏み交差点を過ぎる度に18歳の自分が35歳の自分へと戻っていった。蔵之介はサイドウインドーに肘を突いてバックミラーに流れる景色を眺めていた。投げ掛ける言葉が見つからず2人は無言で夜の街を走った。
「ここで右折で良い?」
「あ、うん」
寺町の交差点から斜めに続く細い道をしばらく直進すると街灯がひとつしかない児童公園に突き当たった。ポプラの枝葉の向こう側には市営住宅の団地が並んでいた。
(ーーーやっぱり)
蔵之介はその左側の3階建ての市営住宅を指差した。比較的新しい造りで駐車場も完備されていた。
「ありがとう、助かった」
「蔵之介はいつからこの団地に住んでいるの?」
「25歳の時かな、流石に25歳にもなって実家の親には面倒掛けられないし」
「そうなんだ」
莉子の脳裏には突き返されたマーガレットの花束、蔵之介の病室の扉の前で「どうして深夜に息子を連れ出したのか」と泣き崩れた蔵之介の母親の姿が浮かんでは消えた。
「莉子」
蔵之介はシートベルトを外し助手席のドアを開けながら振り向いた。
「なに、どうしたの」
「来週の水曜日も会えないかな」
「ーーーーー」
「嫌なら良いんだ」
「嫌じゃないけど」
「ーーー分かった」
助手席のドアが閉じた瞬間、莉子は歩き出したその背中に向かって身を乗り出していた。
「あ、会いたい!会いたい、蔵之介に会いたい」
「じゃあ此処に来てくれる」
「蔵之介の部屋に?」
「あまり出掛けたくないんだ」
不自由な脚の事もあるが別な理由もあるのだろう。莉子と外出すれば見栄を張りたい、けれど生活保護受給者に金銭的余裕は無い。
「僕の部屋で14:00に待ってる」
「な、何号室」
「105号室、右端だよ」
莉子は来週の水曜日、14:00に蔵之介の部屋を訪ねる約束をした。
蔵之介が住む緑ヶ丘団地から自宅の距離は2kmも離れていなかった。莉子は跳ねる鼓動を落ち着かせる為に自宅の周りを車で2周して近所のスーパーマーケットで大根や醤油を買った。ルームミラーに映る前髪は崩れて口紅が滲んでいたので路地に車を停めて口紅を塗り直した。
「ただいま!遅くなってごめんね!」
シャツの乱れを整え玄関の扉を開けるとインスタントラーメンの匂いが室内に漂い、直也がリビングから顔を出した。心臓が掴まれ脇に汗が滲んだ。
「莉子がこんな遅くまで出掛けるなんて珍しいね、短大の時のーーあぁ、ええと遠藤さん?」
「ううん。高等学校の同級生、直也の知らない子だよ。買い物に出掛けたらバッタリ会っちゃって」
直也は莉子の手にぶら下がったスーパーの袋を覗き込んだ。
「大根、明日は煮物?」
「鰤ぶりがあるから鰤大根の煮物、嫌?」
「良いね、明日の夜は日本酒でも呑もうかな」
「良いね!」
莉子は精一杯の作り笑いといつもよりはしゃいだ声でその場を凌しのごうとした。
「あれ?」
冷蔵庫からビールを取り出そうとした直也が不思議そうに尋ねた。
「莉子、お醤油あるよ?」
莉子は息を飲んで苦し紛れの嘘を吐いた。
「あ、あぁ。薄口醤油が欲しかったの」
「そうなんだ」
「う、うん。塩分多めが良くて」
「そうなんだ」
莉子は蔵之介に会うために嘘を重ねた。
ぎしっ
直也は仕事に差し支えるからと夫婦の営みは金曜日か土曜日の夜と決めていた。それにも関わらずこの夜は莉子の身体に覆い被さって来た。
「ーーーん、どうしたの」
「したくなった。駄目?」
「仕事は大丈夫なの」
直也はそれには答えず莉子の首筋に顔を埋めて来た。這い上がる唇が唇を塞ぎ舌先はいつもより執拗に莉子を求めた。
(ーーーえ、どうしちゃったの)
いつもと違うやや手荒な愛撫。直也はTシャツを捲り上げると力任せに両手で乳房を掴み無我夢中で乳首にしゃぶりついた。莉子は直也の変貌ぶりに驚いたが容赦無く攻め続けられた乳首は膨らみ始め違和感は快感へと変わった。
「ーーーあ」
ところがショートパンツに滑り込んだ指先は荒々しく突起を弄りひだを割って中へと挿し入れられた。突然の事に莉子の身体は痛みで飛び上がった。
「な、直也、どうしたのーーい、痛っ!」
前後する指は内壁を擦り突起を刺激した。然し乍ら莉子の身体は直也の痛みを伴う愛撫に応える事は無い。
「直也、変よ!」
直也は莉子の言葉を片手で塞いだ。
「んー!んーんん!」
莉子の膣口に形を変えた熱いものが当てがわれた。まだ湿り気の乏しい状態での挿入に莉子は身体を強張らせたがそれはいとも簡単に押し開かれた。
「ングっ」
そして直也はなにかを掻き消すかのように莉子の膝裏を抱え上げ額に汗を滲ませながら激しく腰を前後させた。
翌朝の食卓はこの9年間で一番気不味いものだった。直也は黙々とトーストを口に運び温い珈琲で胃に流し込んだ。莉子が目玉焼きを箸で突くと半熟の黄身が涙の様に白い皿に流れ出た。
「いってらっしゃい」
「いってきます」
直也は莉子を抱きしめ背中を2回軽く叩くと「ごめん」と呟いた。いつもの口付けは無かった。テーブルのパン屑を集めて皿に落とすと莉子の目からも涙が落ちた。昨夜のセックスが荒々しかったのは何故なのか、莉子には思い当たる節が無かった。
(ベッドに入るまでは普通だったのに)
なにか仕事で嫌な事でも有ったのだろうか、あんな直也は初めてだった。
(それとも帰りが遅かったから)
そんな事であんな風に豹変するだろうか。
「蔵之介」
そんな筈はない、直也は蔵之介の存在を知らない。まして昨日会っていた友だちが蔵之介だと知る由も無い。莉子は途方に暮れた。
大根と醤油の買い物レシートがポケットに入っていたらしく洗濯機の中は紙屑だらけになった。そして掃除機を掛ければコードが絡まりミニテーブルのガジュマル観葉植物の鉢が倒れ砂だらけになった。なにもかもが上手くゆかない。
「ーーーーあっ!お鍋!」
焦げ臭いにおいに飛び上がるとホーロー鍋の底は炭になっていた。
(鰤大根煮物はゴミ箱行きか)
大きな溜め息が出た。
(ーーーお惣菜物でも買いに行こう)
莉子は昨夜の事もあり直也に行き先を知らせる事にした。携帯電話を取り出す暗証番号は0111、1月11日蔵之介の誕生日だ。LINEを開き直也にメッセージを送信した。
<お疲れ様です>
既読
<鰤大根焦げちゃったので買い物に行きます>
既読
直也からの返信は<なんでそんな事を知らせるの?>だった。確かにこれまで勤務中にメッセージを送った事は無かった。文字だけでは判別が付かない声の抑揚。機嫌が良いのか不機嫌なのか、営業先で忙しかったのか、それとも。
(それとも何処かに行っていないというアリバイ作りだと思った?)
直也は莉子が良かれと思って送信したメッセージの意味を湾曲して受け取った可能性が高かった。そして莉子自身にも水曜日の逢瀬という後ろめたい部分があり2人の歯車は軋み始めた。