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以前産婦人科病院へ行く前に、奥さんが歩くであろう道のりを確かめるべく、津久野さんの住む家の前を通って病院に行った経緯があるので、ハナに自宅を教えるのは簡単だった。
だけど向かう道中、延々と榊原さんのことについて熱弁されたせいで、私のテンションはここぞとばかりにだだ下がりした。だけど、親友の気持ちもわからなくはない。
だってこれから大好きだった人の奥さんに逢い、頭を深く下げながら謝罪するのだから。違うところに意識を持っていって、現実から目を逸らしたいだろうな。
なので私は必死に、今の現状に耐えている状態だったりする。誰か私のことを、親友思いだとどうか褒めてやってください。
「絵里は黙ってりゃかわいいんだから、相手のマイナス面を指摘せずに、すこーしだけ我慢するということを覚えなきゃダメよ。前回彼氏がいたのって、何年前だっけ?」
「遠い昔過ぎて、忘れちゃったわ……」
こんな他愛ない話を続けていると、目の前に見覚えのある姿が目に留まる。
「ハナ、まっすぐ前を見て。彼女、津久野さんの奥さん」
熱心に私に話しかけていたハナに、小声で教えてあげた。途端に顔色が変わり、緊張感が満ちていく。そんな親友の肩を叩き、カツを入れながら言葉を続けた。
「打合せどおりに、私が最初に話しかけて自己紹介する。ご主人のことで話が長くなるから、大通りに出るように誘導して、喫茶店に移動するからね」
榊原さんからのアドバイスで、いきなり謝るのではなく、ファミレスなどどこかの店に行き、テーブルを挟んだ状態で話し合いをしたほうが、お互い落ち着いて、穏やかに話ができるだろうということだった。
「ハナ、わかった?」
「うん、大丈夫。絵里がいてくれるから、安心してる」
気合の入ったハナの顔を確認して、私が颯爽と先導する。奥さんが自宅に着く前に、こちらから話しかけなければならない。急ぎ足で前に進みつつ、少しだけ背後を歩くハナの気配にも意識を送った。
己の中にある心音が高鳴るのを感じながら足を進ませ、こちらに向かってくる津久野さんの奥さんに近づき、目が合った瞬間に立ち止まって、小さく頭を下げる。
「あれ? アナタは――」
「病院ではいろいろ教えてくださり、ありがとうございました」
下げていた頭を上げて、にっこりほほ笑んだ。印象に残るようなやり取りをしていないと思っていただけに、津久野さんの奥さんが私を覚えていたことで、さらに緊張感が増していく。
「私は岡本といいます。彼女は親友の斎藤華代で、ご主人と同じ会社に勤めています」
私が身振り手振りで紹介すると、ハナは背後から前に出るなり、腰から頭を下げた。
「斎藤です、津久野部長には日ごろからお世話になってます」
「ご丁寧にどうも、こちらこそ夫がお世話になっているようで。あの人、会社で迷惑をかけていないかしら。家ではなにもできなくて、困っているんですよ」
愛する夫を思い出し、くすくす笑う津久野さんの奥さんと、これから謝罪する関係で、微妙な面持ちのハナ。そして間を取り持つために真顔を貫く私という、それぞれが違う表情で対応する雰囲気は、あまりよろしくないものだった。
(この雰囲気にのまれないように、もっと明るく話しかけなければいけない。ハナのためにも、私が頑張らなきゃ!)
真顔を少しだけ崩して津久野さんの奥さんにほほ笑み、自分から口火を切る。
「ご主人のことで、奥様にお知らせしたいことがあります。このまま立ち話で話す内容じゃないですから、大通りにある喫茶店に一緒に来ていただけますか?」
あえて気を引くようなことを言い、喫茶店に赴くように促した。すると顔色を曇らせた津久野さんの奥さんが、すぐさま返答する。
「夫のことでというのは、会社でなにかよくないことをしているのでしょうか。パワハラとか……」
「詳しい話は喫茶店でします。行きましょう!」
強引かもしれなかったけれど、津久野さんの奥さんの背中に手を添え、歩くように押し出す。それに導かれるように歩き出したのを見て、私も隣に並んで歩いた。
そんな私たちに続くように、ハナは後ろを歩く。
「岡本さん、聞いてもいいかしら?」
「なんでしょうか?」
前を向いたまま訊ねられた言葉に反応して、朗らかに返事をした。暗いムードにならないように、笑顔を絶やさず、口角を上げる。
「病院で私に逢ったのは、偶然じゃなかったということ?」
言い終えてから、横目で私を眺めた津久野さんの奥さんの面持ちは、声色同様に表情も強張っていた。
「すみません、詳しくは喫茶店でお話します。そのほうがきちんと順序だてて、私としても話せると思いますので」
「……わかりました」
私が理由を言わなかったことで、津久野さんの奥さんの心中は、さらに困惑してるだろう。
そして私たちのやり取りを、一番に心を痛めて聞いているハナの気持ちがどうにも心配で、思わず振り返ってしまった。
口パクで名前を呼ぶと切なげな表情を浮かべ、『大丈夫』とひとこと同じように口パクで告げる。
その後、私たちは黙ったまま喫茶店に向かい、コーヒーを頼んでテーブル越しに対峙した。
私の隣にハナが座り、目の前に津久野さんの奥さんが座る。窓際の席に座ったため、ほのかに明るい日差しが入ってくることによって、それぞれが暗くならずに済みそうだった。
「親友のハナから、津久野さんのことを聞いたときに激しく反対すれば、こんなことにはならなかったんです」
ハナが謝罪する前に、自分から口を開いた。
「夫のなにを聞いたのでしょうか?」
「ご主人とハナが不倫している話です」
端的にズバッと告げた瞬間、ハナは勢いよく立ち上がり、深く頭を下げた。目の前にいる津久野さんの奥さんは、目を見開いてその様子を眺める。唇が戦慄き、なにかを言ってるようなのに、言葉にならないらしい。
「部長から、妻とは家庭内別居状態だと聞いたから付き合ったなんて、いいわけが通用しないことはわかっています。本当に申しわけございませんっ!」
私は、頭を深く下げたままきちんと謝罪したハナを、複雑な心境で眺める。
私自身もハナの不倫を知ったときに注意せず、そのまま見過ごした罪があるので、一緒に謝ろうかと考えた。しかしそれだと、ハナの謝罪が軽く見られる恐れがあると思い、あえて座り続ける。
「夫は……輝明さんは、そんなことを言ったなんて」
見るからに悲壮な表情の奥様に、傷つけることを言いたくなかった。だけど詳しく説明すると約束していたゆえに、頭を下げ続けるハナの横で、淡々と話を続ける。
「私の職場に、不貞行為をおこなってた同僚がいたんです。同僚とは仲が良かったこともあって話を聞いてみると、同僚の不倫相手がご主人と同じようなことを言って、嘘をついていたのを耳にしました。それで津久野さんの家庭内別居が本当かどうかを確かめるために、病院で奥様に近づいたんです」
言いながら、テーブルの上に例の書類を置いた。封筒に入ったままなので、中身が見られないそれを、奥様はじっと見つめる。
ハナは少しだけ頭を上げ、小さな声を発した。
「部長は私との結婚を視野に入れて、式場をわざわざ探して一緒に行くことを促したり、本当に優しかったんです。でも半年付き合っていても、名前で呼ぶことを禁じられました」
肩を落とし、突っ立ったままのハナの両手が、ぎゅっと握りしめられる。付き合っているのなら、彼の名前を呼びたかっただろうに、それを我慢した状態で不倫を続けるエネルギーに、ハナの愛の深さを知った。
「そうですか。あの人に禁じられたから、斎藤さんは夫を役職で呼んでいたんですね」
奥様は悲しげに苦笑をもらしながら、ハナの顔をじっと眺める。
「私の口から、部長の名前がなにかの拍子で出たりしたら、部署にいる皆に付き合ってることがバレるかもしれない。そうなったら、彼の立場は危うくなるので」
理由を知った奥様は、悲壮感をより一層露わにし、大きなため息をついた。
「輝明さんってば、変なところにしっかりしてるのね。家では、電子レンジすら使えない人だというのに」
「電子レンジが使えない?」
私がオウム返しをしたら、奥様は眉をしかめて説明する。
「不妊治療の薬の副作用で、体調が悪い日があったの。それでも頑張って夕飯を作り、テーブルの上に並べておいたわ。仕事から帰ってきた夫は、それを温めろって言ったんですけど、それすらできないくらいに具合が悪くて、自分でやってって頼んだのに……」
ここで一旦言葉を切り、顔を俯かせる。立ったままのハナは頭をしっかり上げ、困った様相で話しかけた。
「大丈夫ですか?」
「ごめんなさいね。思い出したら、つらくなってしまって。あの、座ってください。そのほうが、お互い話がしやすいでしょうから」
奥様の気遣いで、私の隣に腰かけることのできたハナにアイコンタクトを送ると、小さく頷いてから前を向く。
「部長はきっと、奥様を頼りにしてるんでしょうね」
「頼りなんて、そんなことないわ。便利なお手伝いさんくらいにしか、思っていないんじゃないかしら。電子レンジで夕飯を温める簡単な作業すら『レンジの使い方がわからないし、今は忙しくてできない』のひとことを言いながら、スマホをいじって、私の体調をいたわることをしない、冷たい人なんです。そのくせ、自分とのこどもを欲しがったりして、わけがわからない……」
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