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奥様の話と、実際にバーで逢ったときに垣間見た津久野さんとの違いに、困惑するしかなかった。
あのときの津久野さんはハナのことをとても気遣い、優しく接している姿を見ていただけに、顔をしかめながら隣を見ると、ハナも弱り切った面持ちで私に視線を注ぐ。
(もしかしたら津久野さんが奥さんに冷たい態度をとっていることを、家庭内別居という言葉で表現したのかもしれないな)
そのくせ、不妊治療をさせるために病院に行かせるくらいに子どもを欲しがる理由が、どうにも思い浮かばなかった。
「斎藤さん、職場では、どんな感じで夫は仕事をこなしているのでしょうか?」
私たちのすぐれない表情を疑問に思ったのか、不倫に関係ないことを訊ねられた。ハナは姿勢を伸ばして前を向き、言葉を選びながら丁寧に答える。
「えっと部長は本社に転勤して半年ほど経っていますが、仕事ぶりは可もなく不可もなくという感じの印象です。ですが部署のメンバーの所属と名前を短期間で覚えて、積極的にコミユニケーションをとっているので、前の部長よりも話しかけやすくなった分だけ、報連相がしっかりできてます」
「そうなんですね。結婚前は彼の会社の取引先に私が勤めていたので、どんな感じで仕事をしているのか、想像ができなかったんです」
「ウチの取引先の会社ですか?」
「〇×コーポレーションの受付嬢をしていました」
病院勤めの私でさえ知ってる大企業の社名に、変な声が出そうになった。ハナはというと、納得した顔で顎に手を当てる。
「受付嬢なら取引先の仕事の関係で、顔見知りになるキッカケになりますもんね」
「ええ。誰にでも人当りよく接している彼に安心感を覚えて、1年間の交際を経て結婚したんですよ。今年で結婚3年目なの……」
彼女が結婚3年目というのは、探偵事務所で調べてもらった経緯で知っていたけれど、そこに至るまでの流れを知らなかったので、妙に腑に落ちてしまった。
取引先の企業に勤める彼女と並行して、自分の会社で別の彼女を作る。うまいことやりくりして、二股をこなしていたから、不倫も平気でやっているんじゃないかって。
「本当に最低だ……」
私はぽつりと呟き、テーブルの上に置かれた封筒を手にする。その様子を奥様はまじまじと見つめ、ハナは口を噤んだまま俯いた。
入院してしまうくらいに、探偵事務所で調査してもらった結果が、ハナの心に傷をつけたのだから、なにも言えなくなってしまうのは、私でもわかってしまう。
俯いてしまったハナの心情を慮りつつ、しっかり前を向いて口を開く。
「私の同僚が不倫された末に離婚して、悲しい結末を目にしたからこそ、ハナの恋愛の行く末を考えました。奥様からご主人を奪い、略奪婚をしたとしても、彼が同じようにまた不倫をすることによって、ハナがしあわせになれないんじゃないかって」
「そうね……」
親友を心配する率直な意見を聞いた奥様は、少しだけ瞼を伏せて返事をした。私の気持ちを知ってもらった上で、直接見てもらえる事象を告げる。
「それを確かめるために、探偵事務所でご主人について調べてもらいました。その調査結果が、この書類にプリントされてます。そしてプリントされたあとに知らされた事実を、口頭で教えてもらいました」
「…………」
このことを説明するにあたり、自身の感情を悟られないように淡々と語った。私のセリフを聞いた奥様は、悲し気な目つきを見せて黙り込んでしまったけれど、私はそのまま話を続ける。
「こちらを、ご覧になるかどうか決めてください。もし必要であれば、この件を調査した探偵事務所の所員さんをご紹介します」
榊原さんには事前にOKをもらっていたので、紹介することが提案できた。奥様が私たちに不信感を抱き、虚偽の書類を作成したんじゃないかという疑念を突きつけられたら、彼をスマホで呼び出す手筈になっている。
ちなみにこのことについて、所長の山下さんは了承済みだった。
「斎藤さんに直接、こうして謝ってもらった時点で、かなりの痛手を食らっているというのに、追い打ちをかけるようなことを言うんですね」
しんと静まり返った10数秒後に、やっとという感じで重たい口を開いてくれた。
「ハナが言ったんです。なにも知らないことのほうが不幸だって。それを知らずに現状維持をしたって、しあわせになんかなれないと言って、泣き崩れました」
「それは調査した書類に、私の知らないことが載っているということなのかしら?」
奥様が訊ねた瞬間、ハナが立ち上がった。なにかを言いかけて口を動かしたのに、声にならなくて唇が細かく震える。
「斎藤さん?」
「ハナ、落ち着いて。どうしたの?」
立ち竦み、固まったままでいるハナの手を握りしめて揺らした。
「私は部長の知らない部分を知って、ものすごく傷つきました。だけどそれは、私にとっての罰だと思ってます。だって不倫という、悪いことをしたんですから」
奥様に伝えようという熱意が、声にこもっているように聞こえた。その熱意を応援しようと、握りしめた手に力を込めたら、ハナはそれに応えるように握り返しながら言の葉を告げる。
「だけど奥様は、なにも悪いことをしていないのに、私以上に傷つくかもしれない事実を、目の前に突きつけられたらどうなってしまうのか。それを思うと、見るのを勧めることができません」
「なにも知らないことのほうが、不幸なんじゃなかったのかしら?」
「そうですけど――」
「夫の不倫相手に心配されてしまうくらい、私は弱く見えるのかしらね」
「けして、そんなつもりじゃ……」
首を横に振って否定したハナに、奥様はにっこりほほ笑む。余裕のあるその態度を目の当たりにして、私は内心安堵しつつ話しかける。
「奥様、どうしましょうか?」
「私だって、しあわせになりたいもの。このまま、夫の不貞行為を見過ごすことはできません。岡本さん、書類を見せてください」
こうして持っていた書類を奥様に手渡し、読みだしたのを見てから、ハナに座るように促すべく、握りしめた手を下に引く。素直にそれに従ったハナは、悲しげなまなざしを目の前に注いだ。
しばらくの間、書類をめくる音だけが耳に聞こえた。私とハナはじっとしたまま、奥様の様子を眺める。
(奥さんが読みふけっている書類は、ハナが寝込んでしまう内容ばかりだった。どんな気持ちで、それを読んでいるんだろう?)
私たちと話し合いをしてる最中、悲しげな表情を見せていた奥様は、書類を目にしてから内なるショックを隠すように、能面と表現してもいいくらいの真顔を貫く。
読み直すためか、何度も書類を行き来させたあと、無言のまま私に書類を向けて返してくれた。
「岡本さんが聞いたというお話は、なんだったのでしょうか?」
「支店にいる、もうひとりのお相手のことなんですが、ご主人が転勤後に彼氏を作ったそうです」
所長の山下さんから聞いた事実を告げると、奥様は一瞬顎を引き、視線をテーブルに置かれた、手のつけていないコーヒーを見つめる。私の前にも同じようにコーヒーが置かれていて、コーヒーの水面に困り果てた自分の顔が映っていた。
「彼氏がいるというのに、夫が支店へ出張したときに逢っていた……ということなんですね」
奥様は自分に語りかけるように言い放ち、冷めたコーヒーカップに手を伸ばして口に含む。
「はい。ですので関係は今も続いているかと思います」
「そうですか、斎藤さん以外にも愛人がいたんですね」
奥様は額に手を当てながら、深いため息をついた。
「彼女の連絡先を知ってます。ちょうどお昼休みの時間で、連絡がとれやすいと思いますが、電話しますか?」
「絵里、いきなりそれはちょっと……」
ハナはギョッとした顔で私を見るなり、言葉を濁した。
「すべて知ったからこそ、なにもしないより、なにか手を打ったほうがいいんだよ。放置することが一番いけない。今回それをハナの入院で、嫌というくらいにわかったんだ」
「岡本さんの言うとおりね。これ以上、彼女には夫と逢ってほしくはないし。だけどごめんなさい。今は気持ちが整理できなくて、変なことを言いそうなの」
胸の前に両手を組み、奥様様はつらそうに体を小さく縮める。
「岡本さん、彼女に夫と逢わないように言ってくれないかしら?」
「いいですよ。ほかになにか、伝えることはありませんか?」
逢わないようにということは、別れを意味する。たぶん、ほかの言葉はないかもしれないものの、一応聞いてみた。
「今はこれしか思いつかなくて。ごめんなさいね……」
「大丈夫です。じゃあスピーカーでお話しますね。なにかあったら、遠慮なく割り込んでください」
テキパキ告げて鞄からスマホを取り出し、書類にプリントされている携帯番号を打ち込んだ。コール音がしばし流れたあとに、よそよそしさを感じる声色がスマホから聞こえる。
「もしもし?」
「もしもし、遠藤さんの携帯でお間違えないでしょうか?」
「あ、はい。そうですが」
「私、津久野さんの奥様の代理で、お電話しております」
先手必勝と言わんばかりに、津久野さんの名前を出したら、スマホの向う側で小さく息を飲むのが伝わった。