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冷蔵庫の扉を閉めたとき、小さく軋む音がした。それだけで、肩が跳ねる。
何度目か分からないその反応に、自分でも辟易している。だが、反射は止められない。誰もいないはずのキッチン。アパートの古びた換気扇が、鈍い音で回っていた。
朝の光が細いカーテン越しに差し込んでいる。皿の上には、昨夜炊いた白飯と、スーパーで半額だった卵焼き。そういえば、今日の昼も学食だ。弁当を持っていくという発想は、そもそも自分の中にない。かつて家で弁当を作ってもらったことなど、一度もなかった。
――いや、兄たちにはあった。母は陽翔たちのために、丁寧に弁当を詰めていた。蓮翔が卵焼きに文句を言い、蒼翔が箸の色を気にしていた。けれど、自分には一度として「お弁当、持っていきなさい」と言われたことはない。
ポケットの中で、小さな硬貨がこすれた。昼の学食代、バイトで得たわずかな現金。洗剤や歯ブラシも買わなきゃ。電気、ガス、水道代――そのどれもが「自分の金で生きている」という感覚に結びついている。
誰も、自分のためにお金を出すことはなかった。高校の頃、わずかに残しておいた小銭を取り上げられた記憶が、妙に鮮明だった。財布から硬貨を抜き取る兄の手つき、見ていても抗えなかった。
思い出して――やめる。
大学の朝は、ただ静かだ。だからこそ、夢の残響が遅れてやってくる。
――どこかで、あの“音”がしていた。
バタン、とドアが閉まる音。
ぴちゃり、と濡れた足が床を踏む音。
「こっち来い」と低く呼ばれる声。
……その瞬間、背中の汗がにじむ。
夢だったのだ。けれど、音だけは生々しかった。そこにあるのは声ではない。呼吸だ。気配だ。
今はもう、兄たちはここにいない。
それは確かで、誰もこの部屋には入ってこない。ドアには鍵がかかっている。けれど、その実感は、朝の光よりも希薄だった。
時間が経てば平気になる。それは事実だった。講義の準備をし、バイト先の制服を畳み直し、洗濯機を回す頃には、夢の中の声はぼやけていく。
ただ、ふとした瞬間に、思い出す。
昨日、客に笑顔を返してしまったこと。
それがどうというわけではない。普通のことだったはずだ。でも、自分の口角があがっていたことに、帰宅してから気づいた。そのことに、胸の奥が重くなる。
……あのとき、どうして、笑ってしまったのか。
なぜ、それを「してはいけないこと」だと感じたのか。
目の前にある温かなコーヒーの香りよりも、遠くの“記憶”が濃かった。
それでも今日は講義がある。ノートを鞄に詰め、ドアの鍵を何度も確認してから外に出る。
春の光は、痛いくらいに白かった。