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うわ、第9話、めちゃくちゃ刺さりました……。 「落ち着いてる」って言われて「怒ったら帰ってくる?」と返す高梨さんの静かな距離感、あそこからもう全部始まってたんだなって。指輪を抜いたときの白い跡とか、封筒の厚みに変わる瞬間とか、一つ一つの動作が重くて。 それでいて最後、同じ建物の違う部屋番号が並ぶところ。悠人が「翻訳」と言った言葉を一字も変えずに使っていたことにも鳥肌が立ちました。腹が立たないっていうのが、むしろ怖いくらいの決意。これはもう、読み手のこっちが息を呑む回でした。
日曜の昼、悠人はスーツケースを寝室の床に広げた。
「シャツ、五枚でいいか」
「六枚にしたら。月曜から土曜まで」
「土曜は休みだよ」
「出張があるのかと思って」
悠人は一瞬だけ手を止めて、「ああ、それは先の話だ」と言った。語尾が上がった。
私はシャツを六枚畳んだ。去年の夏に買った青いシャツが、その中にあった。申込書の写真の一枚。畳んで、一番下に入れた。
「郵便は転送しなくていい。住所だけ送っとく」
「分かった」
「ピッチ終わるまでだから。十日に最終プレゼンで、それが終わったら戻る」
「分かった」
悠人はネクタイを三本選び、歯ブラシを入れ、充電器を入れた。入れ忘れたものはなかった。私が入れたからだった。
「なんか、お前、落ち着いてるな」
「落ち着いてる」
「普通、もっと怒るだろ。一か月も帰らないって言ったら」
「怒ったら、帰ってくる?」
悠人は笑った。
「お前のそういうとこ、楽だよ」
四百十七個目。私は数えて、スーツケースの蓋を閉めた。
玄関で、悠人は靴を履いた。結婚写真の前を、見ずに通った。
「じゃあ」
「いってらっしゃい」
扉が閉まった。
鍵の回る音がして、廊下を歩く音が遠くなって、エレベーターの音がして、何も聞こえなくなった。
私は玄関に立ったまま、左手を見た。
指輪を抜いた。五年、抜いたことがなかったので、指の根元に白い跡が残った。内側の刻印を読む。『Y to S 2021.12.12』。
鞄から、申込書の写しの入った封筒を出した。写しの上に、指輪を置いた。写真の悠人の笑った顔の上に、指輪が乗った。
封筒を閉じた。
それから、スマホで相田法律事務所を検索した。駅ビルの上の階。女性の弁護士。火曜の午後が空いていた。
電話をかけた。受付の人は、私の名前を聞いて、「高梨様ですね」と言った。
「はい。高梨です」
職場以外で名字を言ったのは、久しぶりだった。
◇
月曜の朝、一ノ瀬がラウンジから下りてきて、私の机の前に立った。
「来い」
元支配人室の前で、一ノ瀬は鍵を一本、私に差し出した。
「企画室にしろ。鍵は君だけが持て。合鍵は作らない」
「オーナーは」
「私は入らない。入る必要があれば、ノックする」
私は鍵を受け取った。金庫の鍵と、同じ輪に通した。
部屋には坂上の机がそのまま残っていた。老眼鏡だけがない。窓から、庭の三本の木が見える。
「一つ、お伝えしておくことがあります」
私は言った。言う前に決めていたことだった。
「離婚します。ただし、式の後で」
一ノ瀬は、部屋の入口に立ったまま動かなかった。
「式場の客の家庭の事情には、関心がない」
「はい」
「担当者の家庭の事情にも、関心がない」
「はい」
一ノ瀬は、机の上に紙を一枚置いた。式場の備品の一覧だった。鍵のかかる引き出し、金庫、スクリーンの操作卓、会場の放送の鍵。全部に、丸がついている。
「使え」
一ノ瀬は出ていった。扉は、閉まる前に一度止まって、それから静かに閉まった。
私は机に座り、引き出しに封筒を入れ、鍵をかけた。指輪の分だけ、封筒は厚かった。
昼、若林が提案書の本体を持ってきた。
「アクセル広告の分です。三社の中で一番厚い。期限は、金曜」
「はい」
企画室の扉を閉めて、最初のページから読んだ。
木風
791
#サレ妻
都築七美
1,141
赤井 里会
1,613
ゆうき
73
『現場の声から掬い上げた、十二の約束』
一番。式の主役は二人ではなく、二人を見に来た人。
三番。花は少なく、席は近く。
七番。持ち込みは断る。ただし、一つだけ受ける。
私のノートの文が、一字も変わらずに並んでいた。読点の位置まで同じだった。違うのは、各ページの下に『アクセル広告株式会社 高梨』と入っていることだけ。
最後のページに、悠人の言葉があった。
『現場のプランナーの経験を、ブランドの言葉に翻訳しました』
翻訳。一字も変えずに。
私は提案書を閉じ、封筒の隣の引き出しに入れ、鍵をかけた。腹は立たなかった。立たないのが、不思議だった。たぶん、腹を立てる場所を、もう決めてあるからだった。
夕方、美咲が企画室の扉をノックした。
「チーフ、ここ、鍵かかるんですね」
「かかる」
「オーナーがくれたんですか」
「仕事に要るから」
美咲は部屋を見回して、窓の外の三本の木を見た。
「坂上さんの部屋、チーフが使うの、いいと思います。あの人、チーフのこと一番信じてたから」
「ありがとう」
「それと、十月の衣装室の担当、調べときました。言われてないけど」
私は美咲を見た。
「……私でした。十月二十日。ショートの、地味な女です」
美咲は自分の髪を指でつまんで、笑わずに言った。
「あの客、覚えてます。彼氏のほうが、ずっとスタッフの通路見てて。気持ち悪いなって思って」
「それだけ?」
「それだけです。あのときは」
美咲は「すみません」と言って、扉を閉めた。閉めてから、もう一度開けた。
「チーフ。私、聞かないですけど。聞いてほしくなったら、言ってください」
扉が閉まった。
◇
夜、家。
誰もいない家は、音が少なかった。味噌汁は作らなかった。
二十一時過ぎに、悠人からメッセージが来た。
『マンスリーの住所。郵便はいいけど、一応』
住所が貼ってあった。会社の最寄り駅の名前と、町名と、建物の名前と、部屋番号。
私はそれを、三回読んだ。
鞄から申込書の写しを出す。依頼者の欄の下に、住所の欄がある。『ご住所』。ひなのの字で書いてある。
同じ駅の名前。同じ町名。同じ建物の名前。
違うのは、部屋番号だけだった。
悠人の『マンスリー』は四〇二。ひなのの部屋は三〇五。
私はスマホの画面と、申込書の写しを、机の上に並べた。
並べたものは、全部そのまま、封筒に入れた。